ハムトラ人間になる
「ハムトラお前、女だったのかよ……」
「あーあ! やっぱり気が付いてなかったのね!」
ハムトラは腰に手を当て、ベッドに座る俺を見下ろしながら長い髪をかき上げた。淡い栗色で毛先に黒い毛の混ざった髪が、サラサラと戻ってくる。
その高圧的にも見える態度に不快感を覚えないのは、彼女の飛びぬけて可愛らしい容姿のせいだ。
くっきりとした二重に、黒目がちな大きな瞳。ぽってりとした唇はほんのりと桃色で、肌は雪のように白い。
表情にはあどけなさが残り、年齢は十代半ばと言ったところだろうか。
彼女の背後に見えるのは、先刻けたたましい音を立てて割れたばかりの水槽と、飛散した浴び砂。飼育しているハムスターの姿はない。
目の前の美少女こそ、ハムスターのハムトラだからだ。
「……ハムトラ、ガラスで怪我とかしなかった?」
「してないよ。ほら、無傷!」
彼女がハムトラである事は不思議とすぐに確信できた。
根拠はない。
ハムトラと目が合って、水槽の残骸を見て、この子がハムトラだと直感的に分かったのだ。
ただ、準備なく叩き起こされたせいで、まだ夢の続きでも見ているのかとは思ったが、そうではないらしい。
つねった頬は痛かった。
「て言うか。お前、なんで人間になってんの?」
「気になる?」
「ならない方が、オカシイだろ」
「まぁ、なるよね。普通の感覚としたら! 知りたい? 言っちゃおうかな」
ハムトラは軽快なサバサバとした口調で、今にも口笛を吹きそうなくらい機嫌が良い。
「回し車を走ってたの、必死に。今日こそ行くとこまで行ってやるわって!」
ハムトラの飼育水槽に目をやる。吸盤で固定していたはずのピンクの回し車が仰向けに倒れている。
「いつも、そんな気持ちで走ってたんだ」
延々変わらない景色が変わる事を夢見てハムトラが走っていたのかと思うと、泣けてくる。
なんて健気で可愛い生き物なんだろう。
緩みかけた頬を抑えて「頑張ってたもんな」とハムトラを褒めた。「お前は努力家だ」とも。
ハムトラはまんざらでもないのか「へへへ」と照れたように笑った。
「私、いつでも全力だもん。で、走ってたら、ふわ! って、なって……足を踏み外しちゃって、勢いで一緒に回っちゃって」
「危ないなー」
「そうなの。あー私、死ぬわコレ。って、ちょっと諦めたよね。そしたら神様が」
「神様ぁ……?」
「まぁ、居たんだよね。ハム神様って言うのかな? 一定のスピードを超えたら低確率で逢えるらしいの」
「マジか……確かにハムトラの足すげー早かったもんな」
ハムトラは得意げで、うんうんと小刻みに頷く。
俺はハムトラが走っていた姿を思い出す。小さな両手両足を目いっぱい広げ、まるで空を飛ぶように走るその足は早い。俺の貧弱なカメラで写せば、まるで円を書く一本の線のように繋がって撮れてしまう程だ。
「で、神様に、記念に人間に出来るけど、どう? って聞かれちゃったんだよね」
「そんな気軽に言われて、なるって言ったわけ?」
「言った、言った。だってさ、こんなチャンス二度と無いじゃない? アンタだってハムスターになれるよ! って言われたら、なるよねぇ?」
「いやぁ……」
ならない。とは言い切れないが、なりたい。と言ったら、うっかりハムスターにされそうな不安を覚える。
「俺にはハムスターはまだ早いかも」
ハムトラは少しだけ、考えるそぶりを見せた後、俺に肩をぶつけながら「分かってるねぇ」と、前歯を二本だけ覗かせてニヤニヤと笑った。
もしかして、と口の中を覗き込む。歯は人間と同じ数だけあるようだった。
「まぁ、人間になった経緯は分かったけど、一つだけ聞いていい?」
「なになに? 一つと言わず、何でも聞いてよ。ぜーんぶ答えちゃう。あ! 兄弟の数だけは止めてね。わかんないから」
「いや、あのさ。お前って死んだわけじゃないよね? スピードが出ただけだろ?」
「それ気になる?」
「当たり前だろ!」
少しだけ大きくなった俺の声に、ハムトラは目を瞬かせビクッと肩を竦めてしまった。その小動物的な仕草には罪悪感を覚える。
ハムトラはハムスターだから、大きな音が苦手なのだ。
「ごめん。心配で」
「ううん、良いって。へへへ、優しいね。安心してよ。私、死んでないから。一時的に人間になっただけだって。だから、またハムスターに戻れるんだー」
「そっか、なら良かった」
ハムトラは他人事のように「いつ戻れるかは分かんないけどね」と言いながら、キョロキョロと部屋を見回し「へぇ」と感心する声を漏らした。
「思ってたより狭いよね」
「お前が、でかくなったんだよ。んで、それ俺の服……?」
「そうそう、借りちゃった。このネズミの絵が可愛いなって、ずっと思ってたの」
小柄なハムトラには、標準的なサイズと言われる俺のシャツすらブカブカで、膝まで隠していた。
「服を着てこそ、人間って感じだよねぇ。あ! そうそう! パンツは履いてます! 神様がね、パンツは大切だから絶対に穿くようにってくれたんだよね」
「見てみる? 結構いい感じ」ハムトラは屈託のない笑顔で服を捲り上げようとする。「ちょっと待て!」俺はそれを慌てて止めた。
「パンツは見せるもんじゃないとは神様に言われなかった?」
「あー! そうだった! パンツは人前で脱いじゃだめなんだった……ん?」
ハムカツが唇を尖らせ、俺を見る。その視線の先は下半身にある。
何が言いたいのかは、すぐに分かった。
「ハムスターの前だったから!」
「あー! そうだよね。なぁんか、色々大変だよね。人間も」
「そうだよ。ハムスターに人間が務まるのかよ」
「うーん。たぶん大丈夫だよ。神様に人間の事を教えて貰ったし、私に抜かりはないよ! トイレトレーニングだってばっちりなんだから!」
「本当かなぁ……」
ハムトラは任せなさいと胸を張り「人間、人間」と、自分の体をペタペタと物珍しそうに触っている。
「ねぇねぇ! アンタさぁ」
「アンタってハムトラ、俺の名前しらねぇの?」
「え?」
キョトンとしたハムトラの目が俺を捉えた。
「だって自己紹介してくれなかったもん。知らないよ」
「ああ、そっか」
確かに。よくよく考えれば、ハムトラに命名はしたが自己紹介はしなかった。
いや、ペットに自己紹介する飼い主は多くないだろう。
「じゃあ、改めて」
言うとハムトラは瞳を爛々と輝かせて俺を見た。期待されると恥ずかしい。
「俺は君の世話係りの鎌田敏です」
「サトシ! サトシ、サトシ!」
ハムトラは何度も俺を名前を呼ぶと「覚えた」と笑う。その笑顔の眩しさに思わず息を飲み込んだ。
「私はハムトラ。女の子だよ」
「悪かったよ……」
ハムトラがうちに来たのは2ヶ月前。
体重15gほどで生後一ヶ月にも満たない小さなジャンガリアンハムスターは、ペットショップ店員の知識不足か、ハムトラが小さすぎたせいか、性別は「オス」とされていた。
特別性別に拘りはなかった。俺はハムトラの綺麗な淡い栗色の毛に一目ぼれしたのだ。
「オスだからじゃなくて黄色い毛に黒い一本線。だからハムトラなんだよ」
「ふぅん。なるほどねぇ」
「よし、握手でもするか。人間の挨拶だ」
右手を差し出すとハムトラは瞬時に握り返してきた。
ハムトラはハムスターにしては珍しく、人懐こい。餌を期待してか俺の手が好きだった。
「ハムトラが人間にねぇ」無意識に呟くと「不思議なこともあるねぇ」とハムトラが答えていた。
もう一度目の前の少女へ視線を向ける。
「不思議な事もあるもんだなぁ」
「ハムトラが人間にねぇ」
ハムトラは俺の口調を真似するとクツクツと笑って見せた。




