タナトス。
死のうかな。口をぽつり突くけれど。
死ぬのは怖い。無に還る自分なんて想像するのも怖い。思考が追い付かなくて。
死にたくは無い。だったら生きるしかないじゃないか。
死ねないなら。
散歩をしていた。住宅街を歩いていた。意味は無い、理由も無い。ただ、歩いていた。息が白い。頭の上には桜が膨らんで、もう弾けて広がれば良いだけの状態。
可哀想に。僕は小声で細やかに、息だけでは無く言葉も口から空中に放った。
しばらく行くと、斜めに傾いだ電柱の影に座り込んでいる女子高生。今風の鋏が所々入ったロングヘア。けど地面に付く程では無い。俯いて、膝を立て、直に尻を付けて座っているようだ。変な人。それだけ思って僕は通り過ぎようとした。
「待ってよ。待ちなよ」
耳を疑った。ぴくりとも動かない、女子高生が言ったのか。他にいないんだからそうだろうなぁ。
「何か?」
「私が倒れてるのに行っちゃう訳?」
「勝手に倒れてるんだろう? 僕に何か用?」
「ちっとは女の子が倒れてるんだから声掛けようとか思わない?」
「倒れてる女に声掛けて、痴漢だとか下心だとか疑われるくらいなら無視するね」
僕の言葉に女子高生が初めて顔を上げた。長い髪が翻る。
「……まぁ、それはそーね」
色が白いがマスカラが睫毛に隈無くべったり。アイラインが黒々で。チークが頬にしっかり付いている。口紅はラメ入りきらきら。それともグロス? 何でも良いけど。
「あんた可愛くないね」
「はぁっ?」
「化粧し過ぎ。取ったほうが良い。見苦しいから」
「余計なお世話。つか初対面で言う? 口の利き方知らないヤツ」
「それはお互い様」
たっぷり一分見据え合ったあと。女子高生は何気なく立ち上がった。
「───まぁ、良いけど」
「ねぇ、」
「んー?」
「何でこんなとこで座り込んでた訳?」
疑問だった。今日は寒くて、当たり前に家に逃げ込みたくなる温度だった。勿論家があたたかいのが最重要事項だが。とは言っても家は家で、冷えきった空気ならあたためれば良い。それだけのこと。
女子高生はこの寒空に制服のブレザーの下に着るような、薄手のセーターを一枚っ切り。しかもシャツを下に着ているだけ───更にその中までは考えないけど───で、プリーツスカートの下も何やら膝上丈に沿うように膝下丈のハイソックス。
「……見ているこっちが寒い格好……」
「う、うるさいわね。文句有る?」
「や、全然」
見ている側が寒くなると思いはすれど、それでも着ている側の自由なのだから仕方が無い。
「でも寒くない? 僕は構わないけどさ」
冬空と言って良い気温を、彼女は平然と薄着で。そして彼女は笑う。
「もう着脹れ出来ないよ」
「は?」
「もう化粧も取れない」
「?」
「あの看板のトコ見たらわかんでしょ」
僕は素直にそちらを、女子高生が指差す方向を見やった。……ああ。
「成程ね」
「納得した?」
「うん」
彼女の季節が秋で止まっていることを、その光景は知らしめた。
「じゃあ寒くないんだね」
「寒くないね」
「ふぅん」
すべて一通り終わり、僕はその場を離れることにした。去り際「じゃあね」と言う僕に彼女は。
「……あんたさぁ、」
さっきまでの面白がった笑いを苦笑に変え、彼女が呼んだ。
「何?」
「お節介だと思うけど、先に逝きるモノとして忠告。
────死んじゃ、駄目だよ」
面白がっている笑みに再び戻って、彼女は言った。意外と凛とした声だった。
「急だね」
「急だよ」
「きみはいつも急だったんじゃない?」
「まぁね。家に帰らなくなったのも友達と喧嘩するときも彼氏と別れるときも」
「最期、まで?」
「そう。最期、まで」
彼女は笑った。屈託のない笑い方だった。厚ぼったい化粧が勿体ない程。
「安心してよ。僕死ねないから」
「そう? なら良いけど」
僕は再度彼女に背を向け歩き出そうとして────足を止めた。また振り返り彼女を顧みて────失敗する。もうそこに彼女はいなかった。僕はあきらめて一呼吸し、歩き始めた。途中彼女が座り込んだ電柱の斜め前、もう一つ、これは真っ直ぐ立った電柱が在る。
その電柱に括られた看板。“交通事故”の赤文字と、轢き逃げした車の特徴と、死亡した被害者の。
被害者の、女子高生の、写真。
今さっき会話したばかりの顔だった。
僕は何食わぬ顔で歩く。通り過ぎるとき、看板下の花が悄げていて可哀相だったけど無視した。日が暮れて逢魔ヶ時だ。僕は急遽家路に急ぐ。
今日の彼女もそのときの会話も僕は忘れてしまう。
なぜなら僕もこの世ならざるモノだから。僕は現世に構ってはいけないんだ。
【Fin.】