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合鍵を置いた金曜日

掲載日:2026/09/18

合鍵を置いた金曜日


玄関の合鍵を靴箱の上に置いたとき、部屋の静けさが、薄い水のように肌へまとわりついた。九月の終わりだというのに昼間の熱が残り、白いブラウスの背中には荷造りでかいた汗が張りついている。靴箱の脇では、先週買った吾亦紅が茶色い花穂を揺らし、半分ほど水の減った花瓶から青い匂いが立っていた。


私は黒いパンプスを履き、爪先を床へ二度当てた。右足だけ踵が擦れるのは、半年前に買ったときから変わらない。買い物袋を提げて帰った私へ、夫の直哉は「似たような靴を持っているだろう」と言ったが、以前の靴が雨漏りしていたことまでは覚えていなかった。


「その花瓶、持っていかないのか」


背後から声が聞こえた気がして、私は振り返った。もちろん誰もいない。直哉が帰ってくるまで、あと一時間半はあった。


先週の金曜日、直哉は紺色のポロシャツと灰色の短パン姿で、野球中継を見ていた。ソファの下には脱いだ靴下が片方ずつ離れて落ち、ローテーブルには飲み残した缶ビールと、醤油の乾いた刺身の小皿があった。私は洗濯籠を抱えたまま、せめて靴下だけでも入れてほしいと頼んだ。


「何度言ったら分かるの。洗濯籠は洗面所にあるでしょう」


「あとで拾うよ」


「その『あとで』に拾ったこと、一度もないじゃない」


直哉はテレビ画面から目を離さず、枝豆のさやを皿の外へ落とした。実況の声と応援歌が居間に響き、台所では、火を止めたなめこの味噌汁に薄い膜が張っていた。私はわざわざテレビの前へ立ったが、直哉は体を傾けて画面を見続けた。


「お前がいなくなっても、生活なんてどうとでもなる」


悪意を込めて言ったのではないことが、かえって腹立たしかった。直哉にとって私は、炊飯器や洗濯機と同じで、故障すれば別の方法を探せばよいものだったのだろう。私は洗濯籠を床へ強く置き、味噌汁の鍋を流し台へ運んだ。


「じゃあ、一週間やってみなさいよ。ご飯も洗濯も、自分でやればいいでしょう」


「いいよ。コンビニもコインランドリーもある」


「私がやっているのは、それだけじゃない」


「ほかに何があるんだよ」


その問いに、私は言葉を詰まらせた。トイレットペーパーを補充すること、麦茶を作ること、回覧板を隣へ届けること、直哉の母の誕生日に梨を送ること、排水口のぬめりを取ること。並べれば並べるほど小さく聞こえ、自分でも、自慢するほどの仕事ではないような気がしてきた。


「もういい。あなたなんか、靴下に埋もれて暮らせばいいのよ」


「大げさだな。明日になったら忘れてるよ」


余計なことを言ったせいで、話は靴下の問題に縮んでしまった。私は本当は、三日前に熱を出して寝込んだとき、直哉が自分の夕飯だけを買って帰ったことを話したかった。冷蔵庫に残っていたゼリーを食べようとして、蓋を開ける力が入らず、布団の中で朝まで水だけを飲んだことも伝えたかった。


翌朝、私は家を出ると決めた。けれど勢いのまま不動産会社へ電話し、内見した最初のワンルームへ申し込んだのは判断が早すぎた。駅から近いという説明ばかり聞き、線路を走る始発電車の音も、隣の保育園から聞こえる朝の放送も確かめていなかった。


「本当にこちらでよろしいですか。線路側のお部屋ですが」


「構いません。すぐ入れるところがいいんです」


「収納は小さめですよ。お布団ですと、少し厳しいかもしれません」


「荷物は多くありません」


担当の若い女性は、薄紫色のネイルをした指で契約書をめくった。机の隅には食べかけのミント飴が一つあり、空調からは少し埃っぽい風が流れていた。私は印鑑を押したあとで、窓の外を貨物列車が通り過ぎる音を聞いたが、もう訂正を申し出る気にはなれなかった。


引っ越しの準備は、直哉の出勤後に進めた。私が独身時代に買った白い皿、青い縁のマグカップ、花柄の布巾、母からもらった裁縫箱を段ボール箱へ入れた。戸棚の奥から結婚祝いの土鍋が出てきたが、二人用には大きすぎると言って一度しか使っていなかった。


「この土鍋、どうしよう」


私は一人で口に出し、蓋を開けた。中には、直哉が隠したらしい柿の種の小袋が三つ入っていた。賞味期限は二か月前で、私は思わず鼻で笑った。


昼には、冷蔵庫に残っていた卵二個と長ねぎで炒飯を作った。胡椒を振りすぎてくしゃみが出たが、作り直すほどでもないので、台所に立ったまま食べた。窓の外では隣家の金木犀が咲き始め、甘い香りが油の匂いに混じっていた。


最後に持ち出したのは、寝室の引き出しへ入れていた通帳と印鑑だった。家賃と光熱費を折半していた口座から、自分の分だけを新しい口座へ移す手続きも済ませてある。直哉名義の家電や家具には触れず、共有で買った洗濯機についても、代金を請求しないことにした。


テーブルの上には、書き置きを一枚残した。便箋には秋桜の薄い桃色が印刷されており、数年前、旅行先の文具店で直哉が「そんな紙、何に使うんだ」と笑ったものだった。私は黒いペンを持ち、一度書いた文章を読み返した。


「私がいなくても平気だと思ったのでしょう。では、本当に私のいない暮らしを始めてください」


書き終えると腹の底から熱いものがせり上がり、私は便箋を丸めて床へ投げた。こんな芝居がかった言葉を残せば、直哉は被害者ぶって友人たちへ見せるかもしれない。私は拾い上げた紙の皺を手のひらで伸ばし、その下へもう一行だけ加えた。


「今月分の町内会費は支払い済みです。来月からは自分でお願いします」


それでようやく、私たちの暮らしらしい手紙になった。大事な話のあとに町内会費が続くところまで、二十年過ごした夫婦そのものだった。私は便箋の隣へ、直哉が毎朝飲んでいる胃薬を置いた。


夕方、引っ越し業者のトラックを見送り、私は一度だけ部屋へ戻った。台所の蛇口を確かめ、ベランダの物干し竿を室内へ入れ、洗面所の電球を消した。靴箱の上の合鍵が蛍光灯を反射し、小さく光っていた。


「吾亦紅まで置いていくなんて、私もずいぶん意地が悪いわね」


花は直哉が水を替えなければ、数日で首を垂れるだろう。それでも花瓶まで持ち出すと、私が最初からいなかった部屋のようになりそうで嫌だった。私は水だけを足し、玄関の扉を閉めた。


新しい部屋へ着いたときには、すっかり暗くなっていた。生成りのカーディガンへ着替え、コンビニで買った鮭のおにぎりと豚汁を小さなテーブルへ並べた。窓辺には、商店街の花屋でもらった黄色い小菊を、空いたジャム瓶へ挿した。


「箸、買うのを忘れた」


私は段ボール箱を三つ開けたが、箸の入った箱が見つからなかった。仕方なく豚汁についていた木のスプーンでおにぎりを崩して食べた。湯気からごぼうの匂いが上がり、電車が通るたび、窓ガラスが細かく震えた。


九時を過ぎたころ、知らない番号から着信があった。直哉が公衆電話を使ったのだと気づいたが、私は出なかった。二度目の着信も切れるまで待ち、三度目で受話器の印を押した。


「もしもし」


「どこにいるんだよ。何なんだ、あの手紙」


「読んだとおりよ」


「急に出ていくなんて卑怯だろう。話し合いもしないで」


「話したわ。私がいなくても平気だと、あなたが結論を出したでしょう」


電話の向こうで、電子レンジの終了音が鳴った。直哉は何かを取り出し、熱いと声を上げたあと、しばらく黙った。私は思わず、皿の下へ濡れ布巾を敷くよう言いそうになり、唇を噛んだ。


「冷凍ご飯、全部なくなってるぞ」


「先月から炊いていなかったもの。あなたは夕飯がいらない日を連絡しなくなったでしょう」


「麦茶もない」


「水道は出るわよ」


「そういう言い方するなよ。あと、トイレットペーパーはどこだ」


「洗面台の上の棚」


「ないぞ」


「先週、最後の一個を出したから。買い物のメモに書いておいたでしょう」


直哉は紙袋を探るような音を立て、急に「あった」と言った。私は何があったのかと尋ねたが、彼は答えず、柿の種が土鍋に残っていたと報告した。賞味期限が切れているから食べないほうがいいと言うと、直哉は「二か月くらい平気だろう」と、結婚したころと同じ調子で笑った。


「なあ、明日の朝には戻るんだろう」


「戻らない」


「仕事はどうするんだ。駅が遠くなるじゃないか」


「私の勤務先がどこにあるか、覚えていたのね」


「馬鹿にするなよ。それくらい知ってる」


「じゃあ、私が何時に家を出ていたか知ってる?」


答えは返ってこなかった。窓の向こうを長い貨物列車が通り、車輪の音が会話を飲み込んだ。静かになったあと、直哉は低い声で、吾亦紅の水を替えたと言った。


「花瓶の下が濡れていたから、布巾で拭いた。あれ、どのくらい水を入れればいいんだ」


「茎の先が浸かるくらいでいいわ。水は毎日替えて」


「分かった。ところで、吾亦紅って赤くないんだな」


「赤茶色でしょう。秋が深くなると、もっと濃く見えるの」


「変な花だな」


「あなたにだけは言われたくないと思うわ」


直哉は少し笑ったが、私は笑わなかった。戻る場所を教えず、話し合いの日時だけを決めた。日曜日の午後二時、駅前の喫茶店で、今後の住居と預金と離婚について話すと伝えた。


電話を切ったあと、私はバッグの内ポケットへ手を入れた。そこには、靴箱へ置いたはずの合鍵が入っていた。鍵の形がよく似ていたため、新居の予備鍵と取り違えたらしい。


「最後まで、何をやっているのよ」


私は合鍵をテーブルへ置き、その隣へ鮭おにぎりの包み紙を畳んで置いた。明日の朝、書留で返すための封筒を買わなければならない。窓辺の黄色い小菊が電車の振動で揺れ、花びらを一枚、ジャム瓶の横へ落とした。


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