第八章 最後の読者
部屋は白かった。
取調室というほど露骨な威圧はない。壁は明るく、机は小さく、椅子が向かい合っているだけだ。水差しと紙コップが一つずつ、中央寄りに置かれている。時計の音もほとんどしない。医務院の面談室を臨時に借りたような、仕事の延長線上にある乾いた空間だった。むしろその中途半端さが良かった。ここでは刑事と被疑者が向かい合うのと同時に、読む側と書いた側が向かい合う。その二つが混じるには、あまり制度の匂いが強すぎる部屋は向いていない。
真壁彰は先に座っていた。
机の上に並べたのは、供述調書の束でも、逮捕状の写しでもない。現場写真、解剖所見、図面、鑑識資料、そして九条雅紀の体内から回収された小さな順番メモの写しだった。並び方にも意味がある。杉浦征司の死体から始まり、閉鎖病棟の図面、九条の所見、ナイフ、最後に順番メモ。順番さえ間違えなければ、ここで必要な言葉はそう多くない。
怒鳴るつもりはなかった。
怒鳴ったところで、九条が残した順番は読めない。
必要なのは自白じゃない。
あの二つの死体に、何を書いたつもりだったのかを開かせることだ。
扉が開き、堀島岳斗が入ってきた。
白衣ではない。濃い色のシャツに、細いネクタイ。寝不足なのか目の下に薄い陰があるが、姿勢は崩れていない。悲嘆に暮れた後輩の顔も、巻き込まれた関係者の顔も、どちらも作れる人間だった。実際、ここへ来るまでも堀島はそれらしい受け答えをしていた。九条の死にショックを受け、協力を惜しまず、所見にも資料にも通じている有能な後輩。その顔はまだ保てる。少なくとも、真壁が普通の刑事の入り方をする限りは。
「失礼します」
堀島は軽く会釈して座った。
「突然で、すみません」
「いい」
真壁は短く答えた。
堀島の目は乾いていた。泣いた目ではない。強い緊張を隠そうとしている目でもない。準備された平静だ。九条の死に対して、何をどう演じれば自然か、そのくらいはすでに決めてきている。
真壁は水差しに手も伸ばさずに言った。
「お前がやった、と言うために呼んだんじゃない」
その一言で、堀島の瞬きが一度だけ止まった。ほんの小さな遅れだ。だが真壁には十分だった。
「じゃあ、何のために」
「聞きたいことがある」
真壁は机の上の一番左、杉浦の現場写真に指を置いた。
「お前は九条に何を読ませたかった」
堀島の表情はすぐには変わらなかった。ただ目の奥の焦点がわずかにずれた。死因や犯行から入らない。そこへ来るのか、というずれだった。真壁はそれを見て、ようやく入口が合ったと知った。
*
「杉浦征司の死体から話す」
真壁は穏やかな声で言った。
「お前も見てるな。あれは、ただの不可解な死体じゃない。誰にでも分かるようには作られてない」
堀島は黙っている。否定もしない。
「喉に何かを飲ませた痕がある。だが胃には決定的な内容物がない。普通なら証拠隠滅を疑う。でも違った。あれは隠したんじゃない。最初からそこを空けて置いてる。読める相手が、その空白を放っておけないと分かっている置き方だった」
真壁は一枚目の写真から、二枚目の図面へ視線を滑らせた。
「閉鎖病棟の病室配置もそうだ。入口から見た順番。ベッド柵、腕、顔、喉。死後硬直と体位の不一致は、ただの移動じゃない。見せるための固定だ。ベッド位置が数十センチ違えば、喉はあそこまで先に立たない。お前はあれを、死体じゃなく文章として作った」
堀島の目が、机の上の図面へ一瞬だけ落ちた。言い返さない。そこへ指を入れると、逆に自分の設計を認めることになるからだろう。
「杉浦は条件で選ばれてる。廃院の記録や図面に近い。閉鎖病棟へいても不自然じゃない。大騒ぎにもなりにくい。九条に届く死体にするには、都合がよかった」
真壁の声はまだ平坦だった。だがその平坦さの下に、抑えた怒りがあった。
「九条に届くかどうかのためだけに」
堀島はそこで初めて、小さく息を吸った。
「そんな言い方は」
「違うなら直せ」
真壁はかぶせるように言った。
「杉浦を選んだ理由を、死因や怨恨や利害で説明してみろ」
堀島は答えなかった。
「できないだろ。条件で選んでるからだ。九条へ届く死体を書くために、条件の合う人間を選んだ。そんな選び方があるか」
最後の一文だけ、真壁の声に熱が入った。怒鳴りはしない。だがそこで初めて、堀島は目を上げた。その顔に浮かんだのは反発ではなく、奇妙な種類の痛みだった。責められたからではない。真壁が杉浦の死体を、ちゃんとそこまで読んだことへの反応だった。
「……先生は」
堀島が口を開く。
「何だ」
「先生は、最初から、そこまで」
「九条はそこまで読んだ」
真壁は即座に切った。
「俺は九条の順番に追いついただけだ」
その返しに、堀島の指先がわずかに動いた。追いついた。その語が堀島には効いた。最初の死体は九条に向けて書いたつもりだった。だが今それを読み上げているのは真壁だ。その事実が、堀島の平静の表面を少しずつ剥がしていく。
「最初の一手は、確かに九条に届いた」
真壁は続けた。
「喉の空白は、九条なら放っておけない。お前もそう思ってたはずだ」
堀島はようやく、否定ではない形で答えた。
「……先生なら、あれで気づくと思いました」
真壁はうなずきもしなかった。ただその言葉を、そのまま机の上へ置いた。
*
「問題はその次だ」
真壁は九条の解剖所見へ手を移した。
「九条の死体は、杉浦の死体と文法が違う。外からは読めないように閉じてる。だが内側には順番が残っていた。お前の一手に対して、九条は自分の死体で書き返してる」
堀島は唇を結んだままだった。だがその硬さは、さっきより明らかに強くなっている。
「九条の腹部には致命傷とは別の圧迫痕がある。局所的な打撃も残ってる。口腔、舌根、咽頭上部には、吐瀉反射を誘発した痕がある。少量の吐瀉はあった。だが、本命は出ていない」
真壁は一つずつ、逃げ道を塞ぐように言葉を置いた。
「お前は九条が何か残すと思ってた。だから吐かせた。腹も狙った」
堀島の喉が一度だけ動いた。
「……それは、飛躍じゃないですか」
やっと出た反論は、思ったより弱かった。
「じゃあ説明しろ。殺害だけが目的なら、口腔と咽頭にああいう刺激痕は要らない。腹部への追加的な圧迫も要らない。少量の吐瀉痕だけが現場に残って、本命が出ていない。その組み合わせで、何をしたのか説明してみろ」
堀島は視線を落とした。机の木目の一点を見ている。考えているのではない。言葉が見つからないのだ。真壁はそこへ間を置かず、次の資料を出した。
「ナイフの鑑識結果も返ってる。柄には九条由来成分が混じっていた。順手と逆手、両方の把持痕がある。一瞬触れた付き方じゃない。保持して、握り直して、投げてる」
そこで堀島の呼吸が初めて浅くなった。
「現場外の位置も、逃走投棄にしては不自然だ。捨てたんじゃない。遠ざけたんだ」
真壁は堀島をまっすぐ見た。
「お前は九条が何か残すと思ってた。だから吐かせた。腹も狙った。だが九条は、お前がそこまでやるって読んでた。だから凶器を遠ざけた。お前には解剖の知識があるからな。その場で自分の腹を荒らさせないために」
堀島の目が、そこで初めて完全に止まった。
「……そこまで、分かってたんですか」
独白みたいな声だった。反論でも、否定でもない。むしろ驚きに近い。自分が読んだつもりの相手に、自分の次の手まで先回りされていた。そのことを、いま真壁の口から改めて聞かされている。
「九条は知ってた。お前が解剖の順番を知ってることも、死体に何か残される可能性をすぐ読むことも、だから死後すぐに吐かせるか、腹へ行くことも」
真壁は一言ずつ、確かめるみたいに言った。
「お前は九条の反撃を読んだつもりで、そこだけ読み負けた」
堀島は何も言わなかった。だがその沈黙の質が、ここへ来るまでと変わっていた。後輩としての顔、関係者としての顔、ショックを受けた人間の顔。そういう表面が一枚ずつ剥がれ、その下に、ようやく本当の傷口が見え始めている。
*
しばらく、部屋には紙をめくる音さえなかった。
堀島は机に視線を落としたまま、両手を組んでもいない。ただ置いている。その指先には、いつも器具や記録を扱っていた時の正確さがまだ残っていた。あの手で九条の仕事を支え、学び、追い、そして最後には死体を書いたのかと思うと、真壁は胸の内側に硬いものが沈むのを感じた。
「……嫌ってたわけじゃないんです」
堀島がようやく言った。
真壁は答えない。続きを待つ。
「そこ、よく勘違いされるんですけど」
堀島は乾いた声で笑いかけて、失敗した。笑いの形にならず、息だけが少し漏れた。
「先生のこと、嫌いじゃなかったです。むしろ逆でした」
真壁は黙ったまま座っていた。ここで急かすと、堀島はまた供述の形へ逃げる。必要なのは、動機の見取り図ではない。堀島が何を書いたつもりでいたのか、その文法だ。
「先生は、死体を死因だけで見ないじゃないですか」
堀島は机の上の資料ではなく、どこかもっと遠いものを見るみたいな目で言った。
「順番とか、配置とか、残された誤読まで読む。喉の傷一つでも、そこに何を見せようとしたのかまで追う。あんなふうに読める人、他にいない」
「それで」
「近くで見てたら、余計に分かったんです」
声が少しだけ低くなる。
「僕は隣には立てない」
真壁はその言葉をすぐには飲み込まなかった。補助者としての位置。後輩としての位置。そこから見上げているうちは、永遠に対にはなれない。そういう種類の絶望は、たぶん誰にもある。だが普通はそこで人を殺さない。
「だったらせめて、対になる位置で立ちたかった」
堀島は言った。
「勝負してみたかった」
その一言で、部屋の中の空気が少しだけ変わった。九条はもういない。だがこの事件に最初から流れていた奇妙な文法が、そこで初めて言葉として表に出た。
「先生なら、あれで気づくと思ったんです」
堀島は続ける。
「杉浦さんの死体、喉の空白、病棟の配置。届かなければその程度。届けば、そこでやっと始まると思った」
「杉浦は条件か」
「……はい」
「人間じゃなく」
堀島は一度だけ目を閉じた。後悔というより、認識の確認みたいな閉じ方だった。
「あの人がちょうどよかったんです」
真壁の奥歯に力が入る。
「あの場所にいても不自然じゃなかった。記録に近い匂いも持ってた。先生に届く死体にするには、条件がよかった」
「そんな選び方があるか」
今度は真壁の声がはっきり冷えた。
堀島は反論しない。
「最初の死体で届けば、次は」
「次は、先生と僕の間で決着がつくと思ってました」
「九条を殺して」
「……はい」
その肯定は、驚くほど静かだった。悪びれていないわけではない。だが一般的な罪悪感とも違う。目的語がずれたまま最後まで来てしまった人間の静けさだった。
「九条に届きたかったのか」
真壁が聞く。
「届きたかったです」
「勝ちたかったんじゃなく」
堀島は少しだけ考えた。
「勝ちたかった、もあります。でも、先にあったのはたぶんそっちじゃないです。届きたかった。先生の視線の先に、自分の作ったものを置きたかった。補助としてじゃなくて、対になる側で」
真壁はそれを聞きながら、吐き気に似た怒りを覚えた。敬意。憧れ。嫉妬。競争心。対になりたさ。そのどれもが完全な嘘ではないのだろう。だからこそ気味が悪い。純粋な悪意ならもっと単純だ。堀島は九条を憎んで殺したのではない。届きたくて殺した。そこが、最も救いがない。
「だから九条が何か残すと思った」
真壁は言った。
「先生なら、必ずやると思いました」
「だから吐かせた」
堀島は返事をしなかった。だが否定もしなかった。
「腹も狙った」
「……出せなかったら、次を考えるしかないでしょう」
その言葉が出た瞬間、真壁の中で最後の歯車が噛み合った。堀島にとってそれは、罪の告白ではなく手順の説明だった。そうするものだ、という職能の側から出てくる言葉。九条はまさにそこを読んだのだ。
*
「お前の一手目は、確かに九条に届いた」
真壁は静かに言った。
堀島の視線が上がる。
「杉浦の喉の空白は、九条なら放っておけない。閉鎖病棟の配置もそうだ。お前はあれを先生に読ませたかった。そこは成功した」
堀島は答えない。その沈黙には、初めて小さな安堵が混じった。せめてそこだけは認めてほしい、という安堵だ。真壁はそれを見て、だからこそ次の言葉を外してはいけないと思った。
「でも九条は、そこで終わらなかった」
堀島の表情が固まる。
「自分が死ぬことも、お前が何か残されると読むことも、そのために吐かせ、腹へ行こうとすることも、全部読んだ。その上で自分の死体を書き返した」
真壁は机の上の順番メモの写しを指で押さえた。
「答えじゃなく、順番を残した。俺が間違えないように」
そこで少しだけ間を置く。
「お前の最初の死体は九条に届いた。だが九条は、自分の死体で、お前の文章を真壁の読める順番に組み替えた」
堀島の喉が細く動いた。
「最後に読んだのは九条じゃない。俺だ」
その一文が部屋に落ちた瞬間、堀島の顔から、これまで辛うじて残っていた芯が消えた。崩れるというほど派手ではない。ただ、目の奥に支えていたものが静かに抜けた。笑いそうになって失敗したみたいに、口元が一度だけわずかに動き、それきり何も形にならない。
「お前は最後の読者になれなかった」
真壁は言い切った。
それがいちばん痛いことを、真壁はもう知っている。逮捕でも、自白でもない。九条へ届いたはずの自分の死体が、最後には真壁に読み切られて終わること。堀島にとっての敗北はそこにしかない。
長い沈黙のあと、堀島はほんの少しだけ顔を伏せた。
「……そうですね」
それだけだった。
泣きも、叫びも、取り乱しもなかった。その短い肯定だけで十分だった。勝負として負けた人間の声だったからだ。
*
手続きが動き始めると、部屋は急にただの部屋へ戻る。
書類が入り、担当者が交代し、椅子が少しだけ擦れる。堀島はもう何も言わなかった。最後まで後輩の顔で通そうとするでもなく、悪役の顔になるでもなく、ただ静かに連れて行かれた。その背中に、九条へ届きたかった人間の残像だけが薄く残っていた。
真壁が部屋を出ると、廊下の先に二階堂壮也が立っていた。壁に寄るでもなく、歩き回るでもなく、ただ待っていた感じの立ち方だった。
「終わったか」
「一応な」
二階堂は少しだけ目を細めた。
「あいつ、届きたかったんだろうな」
真壁は答えず、代わりに短く息を吐いた。
「でも最後に読んだのは九条じゃなくてお前だ」
二階堂の声は低い。
「それがいちばん堪える負け方だよ」
真壁は壁の白さを見たまま、少しだけうなずいた。九条がいない。そこにいるはずの三人目がいないまま、この事件の文法だけがようやく閉じようとしている。その欠け方が、いまさら遅れて現実感を持った。
「勝った気はしない」
真壁が言うと、二階堂はすぐに返した。
「するわけない」
それで会話は終わった。余計な慰めも、正義めいたまとめも要らなかった。
*
実務としての事件は、そこで閉じ始めた。
証拠は整理され、供述は束になり、手続きは制度の順番に従って進んでいく。杉浦征司の死体も、九条雅紀の死体も、もう検案不能ではない。少なくとも書類の上ではそうなる。死因、経過、関連性、犯行の流れ。言葉に直せば、すべては一定の枠へ収まっていく。
だが真壁の中では、まだ二つの死体が向かい合っていた。
杉浦の喉の空白。
九条の体内に残された順番。
最初の死体は、何かが通ったと告げながら中身を消していた。
九条の死体は、外を閉じて内側にだけ答えを残していた。
問いと答えは、どちらも死者の身体に置かれていた。
読むのが遅すぎたことだけは、どうしても変わらない。九条が何を考えていたか、どこまで読んでいたか、もっと早く追いつけた可能性はある。あの夜、止められたかもしれない。そんな仮定に意味はないと分かっていても、完全には切れない。
それでも真壁は知っていた。
九条雅紀は、死んでからも順番を動かしたのだ。
だからあの最初の死体は、もう検案不能ではなかった。
杉浦はもう、ただ条件に合う素材としてだけ置かれた死者ではない。九条の順番によって読み直され、ようやく正しく読まれた死者になった。そこに救いがあるとは言わない。誰も戻らないし、九条もいない。だが少なくとも、堀島が書いたつもりだった文章は、そのままでは終わらなかった。
最後に残ったのは、犯人の名前でも、勝敗の言葉でもなかった。
順番だ。
喉の空白から始まり、図面を逆順に読み、守られた中身へ辿り着き、最後に書き手の欲望が露出する。九条はその順番を、自分の死後まで伸ばしていた。そして真壁は、それを最後まで読み切った。
廊下の窓の外は、もう夕方に傾いていた。白い建物の壁に、薄い影が伸びている。九条がいれば、たぶんこの時間帯の光を嫌っただろう。輪郭が曖昧になるからだ。喉の傷も、皮膚の色も、細い誤差も、夕方の光は都合よく隠してしまう。だから解剖室では人工の白さが必要になる。そういうことを、九条は何でもないことみたいに言ったかもしれない。
真壁は窓から目を外した。
事件は終わる。制度の上では閉じる。だが閉じ方まで含めて、九条が先に順番を置いていたと思うと、妙な静けさが胸の底に残った。勝利ではない。納得とも違う。ただ、ちゃんと読めたという一点だけが、遅れて重さを持つ。
最初の死体は、喉だけを覚えていた。
九条の死体は、内側に順番を残していた。
問いと答えは、どちらも死者の身体に置かれていた。
読むのが遅すぎたことだけは、どうしても変わらない。
それでも真壁は知っていた。
九条雅紀は、死んでからも順番を動かしたのだ。
だからあの最初の死体は、もう検案不能ではなかった。
白い廊下に足音だけが響いた。
それ以上の結末は、たぶん要らなかった。
(了)




