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死体の胃の中からラミネート片出てきた  作者: 土屋 拓真


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第七章 再読

 九条雅紀が残したものは、小さすぎて、最初は遺言の形をしていなかった。

 防水処理された片。体内に残す前提で作られた、文字より先に執念を感じる異物。そこに書かれていたのは、犯人名ではない。日時でも、場所でも、直接の告発でもなかった。順番だけだった。

 真壁へ。

 先に杉浦。

 喉は空白。

 図面を逆順。

 最初に口を出した者。

 真壁彰は、その写しを机の上に置いたまましばらく動けなかった。読みづらい字ではない。癖も少ない。仕事で残す時の九条の字だ。余計な感情を混ぜず、必要な情報だけを置く時の字。だからこそ腹が立った。あいつは最後まで、自分の思いついた答えを他人へ渡す人間ではなかった。答えへ届くための順番だけを置いていく。そこまで含めて、読める相手を選んでいた。

 名前を一つ書けば済む話だった。

 それをしなかったのは、九条が最後まで九条だったからだ。

 答えじゃなく、答えへ届く順番を残す。

 その順番を辿れる相手として、自分を選んだ。

 腹が立った。

 遅すぎる信頼の置き方だった。

 それでも読むしかない。

 真壁はメモの最初の一行に指を置いた。

 先に杉浦。

 ここから先は、自分の勘や刑事としての嗅覚で飛んではいけない。九条がわざわざ順番を残したのは、その方が早いからではなく、その方が間違えないからだ。思いつきで名前へ飛べば、読みはきっとどこかで歪む。堀島へ辿り着くだけなら、もう半分ほど足場は見えている。だが九条が残したのは犯人の名ではなく、死体の読み方だった。

 真壁は杉浦征司の写真、解剖記録、現場所見、旧病棟の図面、発見者の供述、初動でのメモを机へ並べた。順番に従うということは、単に手順を踏むことではない。最初にどこを見るか、どこで立ち止まるか、その呼吸まで変えることだ。九条はたぶん、そこまで含めて残している。

 先に杉浦。

 なら最初の死体からやり直す。

     *

 杉浦征司の死体は、最初に見た時から不可解だった。

 ただしその不可解さは、読みようのない混乱ではなく、何かを読ませるための妙な整い方をしていた。今になって思えば、真壁も現場でそれを感じていた。死因を隠そうとしているというより、読む順番をずらそうとしている感じ。だがあの時はまだ、そこへ言葉が追いつかなかった。

 真壁は写真を一枚ずつめくる。閉鎖病棟の病室。古いベッド。入口から見た時に最初に目へ入る柵。開かれた腕。少し持ち上がった顎。喉。肩。顔。発見者の視線がどこを滑るか、その順番だけが妙に作為的だった。

 だが九条のメモは、まず喉を見ろと言っている。

 喉は空白。

 真壁は杉浦の解剖記録を開き、口腔、舌根、咽頭、食道上部の所見を追った。何かを飲ませた、あるいは飲ませようとした痕跡がある。擦過、局所的な荒れ、通過を示すような反応。そこまでははっきりしている。だが胃内容には決定的な異物がない。何かが通ったと告げる喉と、何も持っていない腹。その不一致が、当初はただ不気味だった。

 今の真壁には、その不気味さの質が少し違って見える。

 隠したのではない。

 そこを空けて置いている。

 もし犯人が本当に何かを飲ませ、それを証拠隠滅のために取り除いたのなら、もっと別の痕が残るはずだ。処理の乱れ、回収の痕跡、あるいはそこへ至る現実的な操作の痕。しかし杉浦の死体が押しつけてくるのは、そういう現実感ではない。何かがあったはずだ、という思考そのものだ。

 喉は、何かが通ったと告げている。

 だが腹は、何も持っていない。

 隠したのではなく、最初からそこを空けて置いている。

 読める相手が、その空白を気にせずにいられないと分かっている置き方だった。

 真壁はそこで初めて、九条があの時なぜ喉に引っかかったのかを、自分の身体で追体験した。喉が先に記憶し、腹が沈黙している。その食い違いは、法医学の読み手には無視しがたい。何かあるはずなのに、そこだけ抜けている。その空白自体がメッセージになる。

「飲ませたんじゃない。飲ませた形だけ残した」

 真壁は小さく言った。

 それは九条の言い方に近い。近いことが、また少し腹立たしかった。あいつの順番で考えると、思考の手触りまで寄っていく。だがそれでいいのだとも思う。いま必要なのは、自分の流儀ではなく、九条が最初の死体に引っかかった理由へ追いつくことだからだ。

 杉浦の死体は、不可解な死体ではない。読者を選ぶ死体だ。喉の空白は、答えの欠落ではなく、読む者へ向けた最初の一文だった。

     *

 次のメモは、図面を逆順、だった。

 真壁は閉鎖病棟の図面と現場写真を机の中央へ引き寄せた。以前も何度も見た。入口の位置、窓、観察窓跡、ベッドの位置、壁との距離。通常の図面読みなら、入口から室内へ視線を進める。人がどう入るか、物がどこにあるか、動線はどうか。それで大半の現場は足りる。だが九条は逆順と書いた。死体から入口へ戻せと言っている。

 最初は意味が掴みにくかった。だが写真と発見者の供述を重ねるうちに、ようやく分かってくる。

 入口から部屋を見る図面では遅かった。

 死体の位置から入口へ戻していく。

 逆に読む。

 その順番で見たときだけ、喉が最初に立ち上がる。

 九条が図面を逆順に読めと残した意味は、そこにあった。

 死体の向き。肩の開き。顎の角度。ベッド柵の位置。ベッドそのものの数十センチのずれ。全部が死体単体の情報ではなく、入室者の第一視線を制御するために配置されている。死後硬直と体位の不一致も、ただの死後移動ではない。見せるための固定だ。抱え込むように硬直し始めた身体を、左右へ開いて、喉へ視線が行くように直している。

 発見者の供述を読み返す。最初に見えたのはベッド柵。次に腕。顔。喉。あの順番だ。だが犯人が作っているのは、発見者の印象だけではない。その先に来る検案、所見、法医学者の視線まで織り込んでいる。

 もしベッドがあと数十センチだけ壁際に寄っていたら、入口から見た時に先に立つのは喉ではなく胸元だったかもしれない。あるいは顔だった。肩の角度が違えば、喉の荒れへ視線が行く速度も変わる。だが実際には、喉が最初の違和感になるように作られている。

「そこまでやるか」

 真壁は吐き出すように言った。

 そして、そこまでやる相手なら、誰に読ませたいかも当然選ぶ。一般の発見者に気味悪さを与えるだけでは足りない。その先で喉の空白に気づき、それを放置できない相手でなければ、この設計は成立しない。

 九条にだけ届くように作られている。

 その結論が、もう仮説ではなく、構造として立ち上がっていた。

 これは不可解な死体じゃない。読者を選ぶ死体だ。

 その言葉は、真壁の中でようやく重さを持った。あの時の違和感は正しかった。ただし浅かった。死体を見せるために動かしたのではない。九条の読解を起動させるために、舞台ごと整えたのだ。

     *

 杉浦征司という男について、真壁はすでに何度も資料を読んでいる。それでも改めて並べ直すと、最初の見え方とは違ってくる。

 廃院や閉鎖施設から流れ出る備品、図面、管理記録、更新履歴。そういうものに値段をつける半端なブローカー。大きな犯罪者ではない。裏社会の中心にもいない。だが小さな抜けを拾うのがうまい。記録の穴に鼻が利く。閉鎖病棟へ出入りしていても不自然ではなく、医療と管理の匂いを同時にまとわせられる。しかも死んでも世間の騒ぎは大きくなりにくい。

 条件が揃いすぎていた。

 あの日までは、それを被害者の背景として読んでいた。いま読むべきなのは、犯人がどう選んだかだ。杉浦は恨みで選ばれたのではない。偶然でもない。九条へ届く死体を書くために、条件で選ばれている。

 九条へ届く死体を書くために、条件の合う人間を選んだ。

 そんな選び方があるか。

 真壁は資料の端を指で押さえた。雑居ビルの三階にあった机の上を、ふとそのまま思い出す。安いライター。減りかけの胃薬。犬の写真が印刷されたポイントカード。何度も書き直した電話番号。余白へ潰れた「来週返す」の走り書き。前夜、喉を気にしながら何度も水を飲み、それでも誰かに電話をかけ直そうとしていたという証言。翌日も続くつもりの手つきだけが、あの男には残っていた。

 善人ではないかもしれない。だからといって、読みの都合で選ばれていい理由にはならない。

 人間を動機ではなく、読みの精度で選ぶ。そこに強い嫌悪があった。殺意や利害ではなく、届くかどうかの条件で被害者を選ぶ。その冷たさが、真壁には耐え難かった。

 杉浦はただの素材ではない。そう思った瞬間、真壁は九条の順番のもう一つの意味に気づいた。先に杉浦、と書いたのは、堀島へ辿り着くためだけではない。杉浦征司をもう一度、人間として読み直すためでもある。最初の死体を正しい順番で読むことは、最初の死者をようやく素材から取り戻すことでもあった。

 九条はそこまで分かって、この順番を残したのかもしれない。

 そう考えると、怒りの形が少し変わる。堀島の冷たさへ向いていた怒りが、九条の不器用な優しさへも触れてしまう。それがまた、別の種類で腹立たしかった。

     *

 真壁は杉浦と九条、二つの解剖記録を横へ並べた。

 喉。胃。腹。吐瀉。空白。守られた中身。語として並べると単純だが、それぞれの死体が持っている重さはまったく違う。杉浦は喉に痕を残して中身を消している。九条は吐かせようとした痕があるのに、本命は出ていない。

 杉浦は喉だけを覚えていた。

 九条は中身だけを守っていた。

 最初の死体が問いなら、こちらは明らかに返事だった。

 しかも返事は、死んだあとではなく、死ぬ直前からもう書かれている。

 ここまで来ると、二つの死体の対称性は偶然ではあり得ない。最初の死体は外へ空白をぶら下げ、読み手を内側へ引きずり込む。九条の死体は逆に、外から見える意味をひとつずつ閉じて、最後に中だけを守る。問いと回答が、どちらも身体の内部をめぐって向かい合っている。

 それならナイフの位置も、もう単独では読めない。

 真壁は鑑識の写真を引き寄せた。順手と逆手、両方に近い把持痕。九条由来成分。現場外の位置。逃走投棄にしては不自然で、その場からまず遠ざけることを優先したような座標。

 奪って、握り直して、投げる。

 致命傷を負った人間が最後に選ぶには、あまりに遠回りな動作だった。

 逃げるためじゃない。

 反撃のためでもない。

 その場で自分の腹を荒らさせないためだと考えれば、ようやく全部が繋がった。

 九条は犯人が何をするかまで読んでいた。体内に何か残されると疑えば、吐かせる。それで足りなければ、次に腹へ行く。医療の知識を持ち、解剖の順番を知っている相手なら、その発想は現実的すぎるほど現実的だ。だからこそ凶器を遠ざけた。逃げるためではない。今すぐ触らせないため。ほんの数十秒でも、腹を荒らす手を遅らせるため。

 真壁はその発想に、静かな戦慄を覚えた。九条はただ死後設計が巧かったのではない。死に際の数秒まで使って、死後の読解を守っている。堀島が吐かせようとし、腹へ行く可能性まで読んだ上で、その先を遮っている。

「そこまで読むかよ」

 真壁は呟いた。

 だが、そういう人間だとも知っていた。自分の身体に起きることを、最後の最後まで読み物として捉えてしまう。そこに感情を挟む前に、順番を考えてしまう。嫌になるほど、九条らしい。

     *

 犯人の名前を、真壁はまだ口に出さない。

 だが資料の上では、もう何度も視線がそこへ戻っている。九条が残した順番は、先に構造を読ませる。構造を読めば、言葉の履歴も別の顔を見せ始める。

 真壁はこれまでのやり取りを一つずつ書き出した。記録に残っているもの、記憶にあるもの、他の人間の前で口にしたもの。並べてみると、異様さははっきりしていた。

 「飲ませた形だけ残したんですかね」

 「読ませたい感じがする」

 「読める相手がいない死体って意味ないですよね」

 「届いたかどうか、分かる瞬間があるんでしょうか」

 「先生なら分かると思って」

 全部堀島岳斗の言葉だ。

 一つずつなら、優秀な後輩の踏み込みすぎた観察に見える。法医学に強い関心を持ち、九条の読み方に憧れている若手。そう思えばぎりぎり通る。だが時系列で並べると違う。堀島は最初から死因や犯人像で話していない。どう読まれるかばかり気にしている。しかも誰に読まれるかですらない。九条に届くかどうかだけを気にしている。

 死因じゃない。

 犯人像でもない。

 堀島が最初から気にしていたのは、どう読まれるかだけだった。

 しかも、誰に、ではない。

 九条に、だ。

 そこへ気づいた瞬間、いままでの違和感がひどく明瞭になった。堀島は死体を被害結果として見ていない。文章として見ている。どう書けば九条の目に引っかかるか。どんな空白を置けば、どんな順番で読めば、九条が自分のところまで来るか。そればかりを考えている。

 それは隠蔽ではない。単純な挑発とも違う。勝負に近い。だが勝ち負けだけの勝負でもない。もっと歪んでいる。九条の隣に立ちたい、その位置へ届きたい、補助者や後輩ではなく対になる側へ行きたい。そういう敬意と競争心が区別できなくなった時、人間の視線はこういう形になるのかもしれない。

 まだ堀島はそう言っていない。供述も取っていない。だが死体の設計思想そのものから、その言葉が漏れ始めている気がした。

     *

 二階堂壮也を呼んだのは、そこで言葉が必要になったからだった。

 真壁一人でも構造は読める。だが二つの死体の文法差を、一度外から切ってもらいたかった。二階堂は身体を読まない。代わりに、意味がどう流通するか、見せ方がどう立ち上がるかを読む。その役割が、ここでは必要だった。

 真壁が必要な部分だけを共有すると、二階堂は少しだけ黙り、やがて短く言った。

「最初のは、読む前に意味が立つように作ってる」

 真壁はうなずく。

「喉に空白をぶら下げて、そこを見ろってやってる」

「九条の方は逆だ」

 二階堂の声が低くなる。

「外からは意味を立たせない。口元も腹もナイフも、全部引っかかるのに、それだけじゃ読めない。中まで行かないと開かない」

「つまり」

「文法ごと書き返してる」

 真壁はその言葉をそのまま受け取った。たしかにそうだ。最初の死体が外へ問いを掲げたなら、九条の死体は外を閉じて、内側に答えを隠す。単なる対抗ではない。相手の一手と同じ土俵で戦わず、文法そのものを変えて返している。

「これ、勝負してる」

 二階堂は言い切った。

「しかも勝ちたいんじゃない。届きたい側の勝負だよ」

 その一言で、堀島の動機はほとんど輪郭を持った。九条に勝ちたいのではない。九条に届く自分になりたい。補助者ではなく、読まれる側、書く側、対になる側へ行きたい。その歪みが、最初の死体と九条の死体の両方に刻まれている。

 真壁はしばらく黙っていた。届きたい側の勝負。二階堂の言葉は鋭すぎて、余分な説明が要らなかった。堀島がやったことを、単なる劣等感や逆恨みで片づけられなくする言葉だった。

「届くために人を殺したのか」

 真壁は低く言った。

「そういうことになる」

「杉浦も九条も」

「たぶん、本人の中では同じ文章の続きなんだろ」

 二階堂はそこで一度だけ声を切った。

「だから気持ち悪い」

 それ以上の説明はなかった。必要もなかった。

     *

 夜が深くなるにつれ、机の上の資料は散らかるのではなく、逆に揃っていった。

 喉の空白。図面の逆順。杉浦という選ばれた死体。九条の守られた中身。吐かせようとした痕跡。現場外のナイフ。順手と逆手の把持痕。堀島の言葉の履歴。どれも単独なら異様な点にすぎない。だが九条が残した順番に従うと、それぞれが勝手に場所を見つけていく。

 証拠はもうかなり堀島を指していた。図面への接続、杉浦との短時間接触、九条への連絡文面の距離感、所見に対する過剰な言及、読ませることへの執着。警察的には十分に線が引ける。だが九条が残したのは、犯人名ではない。そこが重要だった。

 真壁はようやく理解した。九条は、最後に問うべきことまで含めて順番を残している。もしここでただ「なぜ殺した」と聞けば、堀島はたぶんありふれた動機で逃げる。嫉妬、衝動、事故、口論の延長。そういう言葉で、死体に刻まれた設計思想を全部薄めることができる。九条はそれを嫌ったのだろう。だから先に、死体そのものの文法を読ませた。

 最後に聞くべきことは、もう決まっている。

 なぜ殺した、ではない。

 お前は九条に何を読ませたかった。

 その問いだけが、最初の死体と九条の死体を一本の往復書簡として開く。堀島が何を書いたつもりでいたのか。何を届かせたかったのか。九条にどんな位置で読まれたかったのか。それを言わせなければ、この事件は終わらない。

 真壁はメモの写しをたたみ、上着の内ポケットへ入れた。そこに入れた瞬間、九条の順番がようやく自分の仕事になった気がした。読める相手として選ばれたことへの怒りは、まだ消えていない。たぶん消えない。だが怒りの向きは変わった。遅すぎる信頼の置き方への怒りから、その信頼を途中で折るわけにはいかないという責任へ変わっている。

「最後に聞くのは、なぜ殺した、じゃない」

 真壁は小さく言った。

 ここまで来ると、犯人の名前はもう半分どうでもよかった。

 問題は、あの最初の死体と九条の死体に、何を書いたつもりだったのかだ。

 その答えを開かせるために、真壁は次に堀島と向き合う。

 机の上には、最初の死体と次の死体の記録が並んでいる。問いと回答。空白と守られた中身。外へぶら下げた意味と、外から閉じた意味。その往復の先に、ようやく一人の書き手が浮かんでいた。

 堀島岳斗。

 まだ声にはしない。だが次に会った時、聞くことは決まっている。

 お前は九条に何を読ませたかった。


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