第六章 回答
医務院の朝は、昔から季節感が薄い。
外が晴れていようが雨だろうが、ここへ入ると光の質が変わる。白い照明が均一に落ち、廊下の床は乾ききった反射だけを返し、空調の音が時間の流れを平らにする。人間の身体がどんな形で運び込まれても、この建物の側は驚かない。驚かないまま受け取り、驚かないまま開いていく。真壁彰はその無機質さを嫌ってはいなかった。現場で乱れたものが、ここへ来るとようやく順番を取り戻すことがあるからだ。
だが、その順番の中に九条雅紀が載ることだけは、どうしても理屈として受け入れにくかった。
搬送台から解剖台へ移されるその動作は、毎日どこかで行われている。布の擦れる音、器具の配置、記録の確認。無駄のない手つきの連続だ。九条自身も、いつもはその段取りの中に立っていた側だった。遺体の横ではなく、少し離れた位置。目線は低く、声は短く、所見を拾う順番だけがやけに明瞭な男だった。
今、その位置に九条はいない。
横たわっている。
それだけの事実が、真壁にはひどく残酷に思えた。
九条は、ここへ運ばれることの意味を誰より知っている人間だった。
だから真壁は、その知識が今はひどく嫌だった。
ただ死んだだけでは終わらないと、九条自身が一番よく知っている。
その知識ごと台の上へ載っているように見えた。
真壁は解剖室の定位置より少し後ろに立った。近づきすぎると、刑事としての視線と、そうではない視線とが混ざる気がしたからだ。だが距離を取っても無意味だった。九条の体は細い。肩の線は生前と変わらず薄く、腹部の創だけが、そこへ人為的な終わりを刻んでいる。顔は静かだった。現場で見た時よりさらに静かに見えるのは、ここでは構図が剥がれて、ただ身体だけになるからかもしれない。
ふと、昔の解剖室での九条の姿が一瞬だけ戻った。台の端に寄り、メスを持つ前にごく短く手首をならす癖があった。力を抜くためなのか、順番を頭の中で揃えるためなのかは知らない。ただ、その直後に九条は一度だけ低く言うことがあった。死体は急がない。読む側が急ぐだけだ、と。
その言葉が、今はひどく悪い冗談みたいに真壁の中へ刺さった。
記録担当が時刻を確認し、所見の読み上げが始まる。
真壁はその声を聞きながら、現場で感じたことを思い出していた。刺して終わりではない。口元のわずかな荒れ。顎下の乾いた汚れ。衣服前面にごく少量ついていた胃液様の痕。そして、現場外へ消えたナイフ。あの時点では全部ばらばらだった。ここで初めて、それらが一つの線になるかもしれない。
そう思った瞬間、真壁は気づいた。自分はいま、九条の死を悼む前に、九条の残した順番に乗せられつつある。腹立たしいほど九条らしかった。悲しむより先に、読まされる。そういう死に方を、あいつは知識として知っていたし、たぶん理解した上で、自分の体をそこへ置いた。
だったら読むしかない。
*
表層所見の整理は、最小限の言葉で進んだ。
致命傷は腹部の刺創。深達度、方向、周辺組織の損傷。致死性は高い。そこに異論の余地はない。問題は、その周囲に残る別種の痕だった。真壁はそれが先に読まれるのを待っていた。
「腹部前面に、刺創とは別系統の鈍的外力痕が複数あります」
所見を読み上げる声は落ち着いていた。
「局所的です。面で広く殴打した痕ではありません。押し込むような圧、あるいは狙った圧迫が繰り返された可能性があります」
真壁は目を上げた。
現場で見た打撲の違和感が、ここで初めて言葉になった。腹は死因のためだけに傷つけられていない。刺したあと、あるいは刺す前後に、別の目的で力がかかっている。
「致命傷との時間差は」
真壁が聞くと、法医が短く答えた。
「完全な断定は避けます。ただ、少なくとも同一の目的だけで説明する手つきではありません」
「どういう意味だ」
「殺害のために必要な外力にしては、分布が不自然です」
真壁は創周囲ではなく、そのさらに周辺の皮下所見へ視線を落とした。鈍く残った出血の広がり方が、刃物の一撃とは違う文法を持っている。九条の腹に、何かを出させようとするみたいな力が加わっていた。その仮説だけが、妙にすんなり入ってきた。
次いで口腔の確認に移る。
口角の擦過。口腔内の荒れ。舌根部の刺激痕。咽頭から食道上部にかけての異常。真壁は専門用語の一つ一つを記憶するつもりはなかった。必要なのは、身体がどんな反応を強いられたか、その意味だけだ。
「口腔から咽頭にかけて、吐瀉反射を誘発した可能性があります」
読み上げが続く。
「少量の胃内容逆流を示唆する痕があります。ただし、大量に吐出した形跡ではありません」
「吐かせようとした?」
「その読みは立ちます」
法医は断言しすぎない速度で言った。
「舌根部への刺激、咽頭部の損傷、腹部への圧迫痕。組み合わせると、体内から何かを出させようとした行為として整合します」
真壁は無意識に手を握っていた。
現場で見えたわずかな吐瀉痕は偶然ではなかった。吐いたのではない。吐かされたか、吐かせようとされた。その違いが、ここで初めて立った。
「殺害だけが目的の手つきじゃありません」
法医が低く言った。
「体内に何かがあると考えた者の行為とも読めます」
刺して終わりではない。
その考えは現場の時点であった。
だがここで、それは感覚ではなく所見になった。
腹は死因のためだけに傷つけられていない。
喉もまた、呼吸を奪うためだけに荒らされてはいない。
犯人は、九条の身体から何かを出させようとしている。
何かを探したのか。
何かを出させたかったのか。
九条が残すと、犯人は思っていたのか。
問いは一つではない。だが向いている先は同じだった。犯人は、九条が体内に何かを残した可能性を、かなり早い段階で読んでいる。だから死後すぐ、あるいは死の前後で、それを奪おうとした。
真壁の胸の奥に、別の冷たさが生まれた。
そこまで読む相手なら、九条もまた、そこまで読んでいた可能性がある。
*
杉浦征司の死体が脳裏に戻ってきたのは、誰かに呼ばれたからではなかった。
所見の並びそのものが、真壁の頭の中で最初の死体へ接続した。喉に飲ませた痕があるのに、中身がなかった男。あの死体は空白を押しつけてきた。何かがあったはずだと読む側に思わせ、その空白に視線をぶら下げるように作られていた。
こちらは逆だ。
九条の口腔と咽頭には、吐かせようとした痕跡がある。腹部には、それを補助するような圧迫痕がある。現場には少量の吐瀉痕もあった。つまり犯人は、体内の何かを外へ出させようとした。しかし、本命は出ていない。少なくとも、そこまでの所見はそう語っている。
最初の死体は、喉に痕を残して中身を消していた。
こちらは逆だ。
吐かせようとした痕があるのに、犯人が欲しがった本命はまだ出ていない。
問いと答えが、どちらも身体の中で向かい合っていた。
この往復は、偶然ではない。
杉浦は「飲ませた痕があるのに中身がない」死体だった。そこには、読む者へ空白を押しつける構造があった。九条は「吐かせようとした痕があるのに、本命が出ていない」死体だ。ならこの死体は、守られた中身を持っているはずだ。犯人が欲しがって、取り切れなかった何かを。
真壁はそこまで考えて、ようやく吐き気に似た怒りを覚えた。九条は殺されるかもしれないと知っていた。知った上で、相手が死後すぐに何をするかまで読んでいた可能性がある。そこまで読んでなお、止まらなかった。
どうして先に言わなかった、という怒りと、言えば止めたはずだという理解が、同じ場所でぶつかった。胸の奥が熱いのに、口の中だけはまだ乾いていた。
*
ナイフの鑑識結果が解剖室へ届いたのは、所見が一段落したあとだった。
真壁は廊下に出て資料を受け取り、その場で目を落とした。柄からは複数の血液成分が出ている。犯人のものと断定できる段階ではないが、少なくとも九条由来の成分が混じっていた。問題はそれだけではなかった。
「一瞬触れた付き方じゃありません」
鑑識担当の神明が説明する。
「保持しています。しかも一度ではない」
「どういうことだ」
「把持位置が一様じゃないんです。左の順手で握った痕と、右の逆手に近く持ち替えた痕、さらに左の順手に持ち替えた跡、その両方が出ています」
真壁は顔を上げた。
「争っただけでは?」
「説明しにくいですね。滑った程度ではなく、握り直しの痕です」
「投げた可能性は」
「あります。自分で投擲した可能性も含めて」
奪った。
握った。
持ち替えた。
投げた。
鑑識の言葉を順に並べると、九条の最後の数秒が、静止画ではなく動作になって立ち上がった。
真壁は写真の上にある柄の痕跡図を見た。もし九条が一度凶器を奪い、それを握り直し、投げたのだとしたら、意味はいくつか考えられる。再使用の防止。最後の抵抗。単純に手元から遠ざけたい衝動。どれもあり得る。だが解剖所見を知ったあとでは、それだけでは足りなかった。
「九条が投げたのか」
真壁は自分でも聞き取れないほど低く言った。
鑑識担当は即答を避けた。
「可能性としては、かなり高いです」
「犯人が持ち替えた可能性は」
「排除はしません。ただ、柄に残った九条先生由来成分の位置が、受動的な接触より能動的な保持に近い」
能動的な保持。
その言い方が、真壁の頭の中で所見と結びつく。犯人は体内に何かあると疑った。吐かせようとした。その場で出なければ、次に考えるのは別の手段だ。腹をさらに荒らす。胃内容を探る。少なくとも、解剖医見習いの知識を持つ相手なら、その程度の発想はする。
九条はそこまで読んでいたのではないか。
*
真壁は解剖室へ戻る前に、廊下の壁へ一度だけ背を預けた。
頭の中で、現場と所見と鑑識結果が並び始めている。犯人は中身を疑った。九条もそれを読んだ。刃物がその場にあれば、腹を開けることも、荒らすこともできる。なら最初にやるべきことは一つだ。凶器を、その場から遠ざける。
英雄的な動作ではない。ほんの一瞬の、苦し紛れに近い物理行為だ。だがその一瞬が、致命的に重要だった可能性がある。刃物が手元になければ、相手はすぐには腹へ入れない。吐かせようとするしかない。あるいは別の手段を探す。その遅れが、そのまま解剖へ繋がる。
九条は、ただ刺されたんじゃない。
刺されたあと、相手が何をするかまで考えていた。
腹を荒らされる。
胃の中を探られる。
そう読んだからこそ、最初にやるべきことがあった。
刃物を、その場から遠ざけることだ。
「その場で腹を荒らさせないために?」
声に出した瞬間、その仮説は自分の中でさらに具体的になった。
確定ではない。まだ一段階早い。だがもう、それ以外の意味は考えにくかった。九条は犯人がそこまでやると読んだ。だから凶器を奪い、持ち替え、投げた。逃げるためではない。勝つためでもない。たった数分、数十秒でもいい。解剖までの時間を守るためだ。
その読みの冷たさに、真壁は怒りを覚えた。九条らしい。九条らしすぎて、腹が立つ。自分の死を前提にして、何を守るかだけを決めている。
そういうやつだと知っていたくせに、止められなかった。
*
体内証拠の回収は、派手な出来事ではなかった。
むしろ地味だった。解剖という行為そのものが、派手さを嫌う。必要な順序で開き、必要な順序で確かめ、必要な順序で拾う。その積み重ねの中に、ごく小さな異物が紛れていた。
「ラミネート片です」
法医の声がわずかに高くなる。
真壁は近づきすぎないようにしながら、そこへ視線を向けた。胃内容の確認過程で、小さな保護処理された片が回収されている。ラミネートに近いが、単なる事務用品の加工ではない。防水と耐時間を意識した処理。偶然体内へ入るものではなく、意図しなければ成立しないサイズと作り方だった。
「本人の意図がなければ成立しません」
法医が言う。
「偶然ではありえない。守る前提の処理です」
守る前提。
その言葉に、真壁はほんの一瞬だけ目を閉じた。守ったのは命ではない。情報だ。読む順番だ。そこまで見込んでいたのかと、怒りと理解が同時に胸を刺す。
慎重に開かれた片には、文字があった。小さい。だが読める。犯人名を一つ書けば済む話だった。誰それがやった、と。そうすれば真壁も警察も迷わない。だが九条はそんな置き方をしなかった。
答えではなく、答えへ届く順番を残した。
それがいちばん九条らしくて、いちばん腹が立った。
記された断片は短かった。
真壁へ。
先に杉浦。
喉は空白。
図面を逆順。
最初に口を出した者。
それだけだ。
名前はない。断定もない。だが十分だった。九条は答えを置かなかった。答えを読むための順番だけを残した。順番を間違えれば、見えているものまで見えなくなる。そういう考え方を、九条は最初からしていた。
「あいつは本当にやったのか」
真壁は誰にともなく言った。
戻れない前提で、ここまで。
吐かせようとされても、守り切る前提で。
しかも犯人の妨害込みで。
法医は黙っていた。答える必要のない問いだと知っている顔だった。真壁もそれ以上は言わなかった。怒っているのか、呆れているのか、自分でも分からない。ただ一つだけは明確だった。読むしかない。九条がここまでして残した順番を、途中で放り投げることだけは許されない。
*
二階堂へ共有したのは、全部ではなかった。
だが必要なところだけで十分だった。最初の死体との対称性。吐かせようとした痕跡。体内証拠があったこと。そしてそこに名前ではなく順番が残されていたこと。
二階堂は電話の向こうで少し黙り、それから静かに言った。
「最初のは、読む前に意味を立たせてた」
真壁は答えずに聞いた。
「九条の方は逆だ。外から意味を閉じてる」
「……ああ」
「つまり、向こうの一手に対して、文法ごと書き返してる」
二階堂の声は平坦だったが、その平坦さの奥にわずかな震えがあった。感傷を削りすぎた時にだけ出る種類の震えだった。
「これ、勝負してるよ」
真壁は解剖室のガラス越しに、まだ台の上にある九条の体を見た。
勝負。
その語がいまさら遅れて腑に落ちる。
犯人が何をやっているのか、まだ断定はしない。だが少なくとも、最初の死体は単なる殺人ではない。読み手を指定し、読み方を誘導する一手だった。九条の死体は、それに対する返手だ。しかも相手の妨害込みで守り抜かれた返手。
「最初の死体を読み直せってことだな」
二階堂は少しだけ息を吐いた。
「そういうことだと思う」
「口を出した者、ってのは」
「まだそこで飛ぶな」
二階堂の声が少し硬くなる。
「九条は順番まで書いてる。だったら、その順番どおり行く方がいい」
真壁は無意識に口元を押さえた。九条ならそうする。いちばん見たい名前を最後まで遅らせる。先に構造を読ませて、逃げ道を塞いでから名前へ行く。悪趣味なほど理屈の男だった。
「分かった」
「分かってない顔してるな」
「うるさい」
「うるさく言う。今回ばかりは」
それで電話は切れた。短い会話だったが、十分だった。二階堂は構図の整理役として、必要なだけの言葉を残した。
*
解剖室の外で、真壁は回収された断片の写しをもう一度見た。
真壁へ。
先に杉浦。
喉は空白。
図面を逆順。
最初に口を出した者。
九条は答えを残していない。
残したのは、間違えないための順番だった。
順番があるということは、最初の死体はまだ正しく読まれていないということだ。杉浦征司の死体。喉の空白。病棟の図面。発見順。視線の誘導。そして最初に口を出した者。そこまで辿って初めて、名前が意味を持つ。逆に言えば、その順番を飛ばして名前だけを掴んでも、九条はそれを正答と認めないのだろう。
面倒なやつだ、と真壁は思った。死んでからまで、読む順番を動かしてくる。
だが、それが救いでもあった。犯人の名を探すだけなら、別の捜査でもできる。九条が残したのは、単なる指名ではない。読み違えないための足場だ。そこには真壁に対する信頼も、苛立つほどはっきり入っている。
真壁なら読む。
そう思って、ここまでやった。
その事実が、ようやく少し遅れて胸に落ちてきた。悲しみではない。まだその順番ではない。先に来るのは責任だった。九条が動かした読む順番を、こちらが途中で止めるわけにはいかない。
「次は最初の死体だ」
真壁は誰に聞かせるでもなく言った。
九条は死んでからも、読む順番を動かしていた。
なら真壁が次にやるべきことは、犯人の名を探すことではない。
最初の死体を、もう一度最初から読むことだった。




