第四章 勝負
症例検討の場は、表向きいつもと同じだった。
白い照明、淡い消毒液の匂い、短い報告と必要な確認。杉浦征司の件も、その一つとして机上に置かれていた。だが九条には、今日は最初から空気の張り方が違って感じられた。理由は分かっている。相手が近くにいるかもしれないと知った状態で話すと、同じ言葉でも重さが変わる。
堀島はいつも通りに座っていた。記録を取り、必要な写真を出し、口を挟みすぎない。誰が見ても、真面目な若手法医にしか見えない。だからこそ厄介だった。
「咽頭の所見は前回のまとめ通りです」
九条が簡潔に言うと、堀島が補足資料を差し出した。
「先生」
「何」
「こういう死体って、読める相手がいて初めて成立するんじゃないですか」
場の空気は変わらなかった。別の補助員はただ資料を見ている。少し変わった言い方だと思っても、仕事の延長の質問にしか聞こえない。だが九条の中では、その一言が真っ直ぐ刺さった。
「誰にも届かない作為って、ただの自己満足ですよね」
堀島は続けた。
「届いたかどうか、分かる瞬間があるんでしょうか」
九条は相手を見た。堀島の顔には熱があった。悪意ではない。むしろ敬意に近いものが混じっている。それが余計に気味悪かった。憎しみの犯罪なら、もっと単純だ。これはそうではない。試したい、測りたい、追いつきたい、その先で隣に立ちたい。そういう種類の熱が、競争心と区別できないところまで来ている。
「仕事中に遊ぶな」
九条は冷たく切った。
「すみません」
堀島は素直に頭を下げた。それ以上は言わない。その引き方にも、妙な自信があった。必要なところまで届いたことを分かっている人間の引き方だった。
九条は資料へ目を戻したが、内容は半分しか入ってこなかった。届いたかどうか。その語だけが残る。最初の死体は、届くかどうかを試す第一手だったのかもしれない。そう考えると、いくつかの点がいやに綺麗に並ぶ。
検討が一段落したところで、堀島がもう一度だけ口を開いた。
「仮にですけど」
「何だ」
「犯人が何をしたかより、どう読ませたかったかの方に重心があるなら、最初の死体は中身より入口ですよね」
犯人当てではない。読み方の設計についてだけ尋ねてくる。
「入口で喉を見せて、次に空白で止める。そこまで届いた相手だけに次を渡す、みたいな」
九条は無言で相手を見た。
その瞬間、はっきり分かった。堀島は答えそのものを欲しがっていない。こちらがどういう順番でそこへ届くか、その順番の方を見ている。正解を教わりたい後輩ではない。自分の読みが、九条の読み筋にどこまで近づいたかを測り続けている顔だった。
こいつは、俺の答えじゃなく、俺の読み方に執着してる。
その認識が、九条の中で初めて言葉になった。
「そこまで考えるなら、考えた先の責任も持て」
九条は静かに言った。
「遊びで届く場所じゃない」
堀島は一瞬だけ目を細めた。怯んだのではない。採点を受けた顔に近かった。
「はい」
その返事が、九条には異様に乾いて聞こえた。
堀島の名前はまだ口に出さない。だが候補の中に、もう入っている。
*
真壁は杉浦の接触先を洗い直すうち、嫌な輪郭が現れ始めるのを見ていた。
使い捨て回線、短時間の接触、旧病棟図面のデータ受信。そこまでは不審人物の類型で片づく。問題は、その接点が医務院関係者、あるいは旧病院の記録に近い人物へ点で繋がり始めたことだった。まだ名前は出ない。出ないからこそ、線の引き方を誤れば全部を壊す。
「近い人間ほど慎重に当たれ」
部下にそう言いながら、真壁自身が一番その線を嫌っていた。九条の近くにいる人間。医療現場や法医学の読み方を知り、杉浦みたいな半端な男を舞台へ運び込める人間。条件が揃い始めるほど、考えたくなくなる。
「医務院に近い人物、非公開で当たり始めますか」
部下が言う。
「思いつきで線を引くな。足から行け。杉浦に渡った図面の元、旧病棟に触れた履歴、そこからだ」
「九条先生には」
真壁は少し考えた。
「まだ言い切れない」
嫌な線だった。だが嫌だから伏せるのも違う。問題は、今の段階で九条に伝えることが、守ることになるのか、逆に相手の想定通りに駒を動かすことになるのか、その判断がつかないことだった。
九条自身が、すでにその感覚を持っているのは分かる。だから余計に腹が立つ。共有しないくせに、危ないところだけは一人で嗅ぎに行く。昔からそういうところがある。被害が他人に及ぶと分かっていても、自分の身体だけは後回しにする。
真壁は資料を閉じた。遅れて本筋へ近づいている感覚があった。その遅さが、そのまま取り返しのつかなさに繋がる気がして、胸の奥に鈍いものが溜まった。
*
二階堂が九条と会ったのは、医務院から警視庁へ戻る途中の短い時間だった。資料の受け渡しを口実にしていたが、本当は顔を見たかっただけかもしれない。
「これ、北病棟の更新履歴の整理版」
封筒を渡すと、九条は礼も短く受け取った。
「助かる」
「助かってる顔じゃない」
九条は少しだけ笑った。
「仕事してる顔だろ」
「違う。決めた顔してる」
その言葉で、九条の目がわずかに止まる。
「そう見える?」
「見える」
「気のせいでいいよ」
「よくないから言ってる」
二階堂は歩幅を緩めた。真壁なら何を読んだと聞く。自分は違う。九条が何を決めたのか、その方が怖かった。
「何をする気だ」
「別に」
「その言い方、嫌いなんだよ」
「知っている」
「だったらやめろ」
九条は封筒の角を指で整えながら言った。
「まだ何も起きてない」
「起きる顔してるから言ってる」
数秒、沈黙が落ちた。人が行き交う廊下の端で、そこだけ空気が少しずれる。
「俺、そんなに分かりやすい?」
九条が低く言う。
「お前が思ってるよりは」
二階堂は答えた。
「真壁は」
「勘づいてる。でもあいつは止める方向で勘づく。俺は、もう止まらない側の顔だと思ってる」
九条は何も言わなかった。その沈黙だけで十分だった。二階堂は舌打ちを飲み込む。間に合わないと分かっている時ほど、人は余計な言葉を選びたくなる。
「全部は言わなくていい」
それでも言った。
「でも、死ぬ気で黙るな」
九条は目を伏せ、ほんの少しだけ首を振った。それが肯定なのか否定なのか、二階堂には分からなかった。
*
九条はその夜、誰にも悟られないように準備を始めた。
喉だけが覚えていて、腹は空だった。だったら逆にする。外からは何も分からないまま、内側だけが残るように。最初の死体が読み手を選んだなら、自分の死体は読み切る相手を選ばなければならない。
真壁なら読む。たとえ遅れても、必ず。
必要なのは、外側の派手さではない。解剖に入って初めて届くもの。表面の見立てや第一印象をすり抜けて、内側でだけ開く証拠。九条は紙袋を二つ持って帰宅した。一つは何でもない日用品に見える。もう一つは私費で買った小さな品で、レシートは別にして封を切らずに机の引き出しへ入れた。
端末には新しいメモを増やす。項目は簡素だった。購入、保管、時間、開封条件、回収優先。誰かに見せるためではなく、自分の頭の中の順番を崩さないためのメモだ。
それから予約送信の設定画面を開き、宛先だけを仮に入れて閉じた。本文はまだ書かない。書けば、気持ちが先に定まってしまう気がしたからだ。
体内に残す方法も考える。胃内か、口腔か、それとも別の場所か。確実性、発見順、分解の可能性。法医学的な条件が先に立つ自分に、九条は少しだけ苦笑した。死ぬ想定をしているくせに、やっていることは症例設計に近い。
だがこれは遊びではない。勝負に対する返事だ。最初の死体が「飲ませた痕だけ残して中身がない」死体なら、自分は「外からは読めず、中身でだけ開く」死体にする。相手が読者を選んだなら、こちらも読み切る相手を選ぶしかない。
真壁へ直接「気をつけろ」と言わないのは、悪い癖だと分かっていた。だが言葉で伝えた瞬間に、真壁は止める。止めようとして、盤面に正面から入る。それは相手の想定通りかもしれない。そう思うと、九条には言えなかった。
机の端に置いた封筒を見て、九条は一度だけ深く息を吐いた。準備を始めた時点で、もう半分は認めている。自分が死ぬ可能性を、かなり現実的に見ているということを。
*
真壁が九条を止めようとしたのは、理屈ではなく勘だった。
帰り際、医務院の外で九条を見つけると、そのまま言った。
「送る」
「大丈夫」
「大丈夫かどうかはこっちが決める」
九条は少しだけ肩をすくめた。
「それ、刑事の言い方」
「今さら何だ」
「今さらだからだ」
真壁は車のキーを握ったまま、相手の顔を見た。疲れているのではない。むしろ静かすぎる。覚悟を決めた人間の静けさに近い。それがたまらなく嫌だった。
「一人で動くな」
「動いてない」
「嘘つけ」
九条は否定も肯定もしなかった。その曖昧さが一番腹立たしい。
「飯でも食ってけ」
「今日はいい」
「家に寄れ」
「仕事が残っている」
「どれも理由になってない」
九条はそこでようやく少しだけ困ったような顔をした。昔から、真壁が本気で怒る一歩手前になるとこういう顔をする。正面から拒絶はしない。けれど、するりと抜ける道だけは確保している。
「明日また来る」
「約束になってない」
「来るよ」
九条はそう言って、半歩下がった。追えば止められる距離だった。だが真壁は、その一歩を出せなかった。論理ではなく勘で止めようとしている自分の曖昧さを、どこかで自覚していたからだ。今ここで無理に踏み込めば、九条はもっと巧く逃げる。そう思ってしまった。
「……連絡は切るな」
それが限界だった。
「切らない」
九条は答えた。
その返事が、もう半分ほど嘘を含んでいることを、真壁は見抜けなかった。あるいは見抜いていて、見ないふりをしたのかもしれない。
*
夜は静かだった。
九条が部屋に戻ってしばらくした頃、端末に短い通知が入った。見知らぬ番号ではない。だが、この時間にこの文面を送ってくること自体が、もう十分に異様だった。
――閉鎖病棟の件で、もう一つ見せたいものがあります。先生なら分かると思って
たったそれだけだった。
図面の元データが見つかった、とも書いていない。喉の件に心当たりがある、とも書かない。余計な言葉を削っている。読ませたい相手がいる文章の、削り方だった。
九条は画面を見たまま、しばらく動かなかった。驚きはない。むしろ、やっと来たという感覚に近い。最初の死体が挑戦状だったのなら、これは第二手だ。
机の上には、まだ開ききっていない資料と、途中までのメモと、封を切ったばかりの小さな品がある。返事を書く順番が、自分の側へ回ってきた。そのことだけは、もう間違いなかった。
九条は通知画面を閉じ、短く息を吐いた。
最初の死体は挑戦状だった。
そして今、返事を書く順番が九条の側へ回ってきていた。




