第三章 呼ばれた監察医
杉浦征司のいた場所を辿ると、どこにも中途半端な匂いが残っていた。
大きな金の流れる場所ではない。かといって、完全に表の仕事でもない。真壁彰は雑居ビルの三階にある管理会社の看板を見上げながら、そういう種類の人間だと思った。会社名は立派だが、実態は電話と書類の受け皿に近い。机が三つ、椅子が四つ、プリンタが一台。壁際の棚に、解体前整理、設備搬出、残置物査定と書かれた古いファイルが乱雑に積まれている。建物に残ったものを片づける仕事は、最後の最後に、いちばん曖昧な人間を呼び込む。
「杉浦ですか」
対応に出た男は、真壁が名刺を見せる前から嫌そうな顔をした。
「でかいことはやらないです。大物でも何でもない。ただ、細かい抜けを拾うのは上手かった」
「抜け?」
「整理から漏れた紙とか、データとか。古い建物って、設備よりそっちの方が面倒なんですよ。捨てたことになってるのに残ってる台帳とか、患者番号が飛んでる記録とか。ああいうの、普通は誰も価値があると思わない。でも、欲しがるやつはいる」
「杉浦はそれを知ってた」
「機械より紙を漁るタイプでしたね。銅線や機材に食いつくような連中とは違う」
真壁は部屋を見回した。杉浦の机だったらしい場所には、コンビニのレシートとメモ帳と、使いかけの付箋が残っている。半端な几帳面さがあった。書類は積むが、完全には捨てない。どこかに換金できる情報が紛れているかもしれないと思っている人間の癖だった。
引き出しを開けると、安い胃薬の箱がひしゃげたまま入っていた。数粒だけ減っている。使い捨てライターの横には、犬の写真が小さく印刷されたドラッグストアのポイントカードが挟まっていた。家族写真の代わりにもならないような、どうでもいい景色だった。けれど誰かが可愛いと思って残したものだという事実だけは、妙に手に触れた。メモ帳の端には、何度も書き直したらしい電話番号と、余白へ潰れた字で「来週返す」と走り書きがある。金になる紙を漁る男の机にしては生活が弱すぎて、逆にまだ途中だったことだけが残っていた。
「病院関係も?」
「廃院とか閉鎖施設とかは好きでしたよ。好きって言い方も変ですけど。中身のない病院ほど高く売れる、なんて言って笑ってました」
「何が高い」
「何が残ってるか、ですよ。図面、管理記録、更新履歴、搬出漏れの一覧。建物そのものより、捨て切れてない情報の方が金になることがある」
その言い方が、真壁には妙に冷たく聞こえた。杉浦は死体になった今も、仕事の延長にいるようだった。閉鎖病棟に遺体があることより、この男がその場所に馴染んで見える方が嫌だった。誰かが現場を選んだのか、こいつが現場に入ったのか。その順番がまだ割れない。
別の関係先では、廃材買い取り業者が杉浦についてこう言った。
「大きく稼ぐ力はない。でも鼻は利くんですよ。金になる紙の匂いだけは嗅ぎ分ける。あと、病院の記録は妙に好きだったな。患者番号の抜けた書類とか、見ても何だか分からないような台帳とか。ああいうのに値段がつく相手を知ってたんでしょう」
「医療関係者か」
「そこまでは知りません。ただ、病院の裏口から出るものには詳しかった」
さらに前夜の足取りを洗うと、飲み屋の証言が少しずつ輪郭を持ち始めた。杉浦は途中からやけに水を飲んでいたという。酔っていたわけではない。喉の奥に何か引っかかるみたいに、会話の切れ目ごとにグラスを空けていた。それでも帰る気はあったらしい。会計のあと、スマートフォンを二度開き直し、誰かにかけ直そうとしていた。結局繋がらなかったのか、舌打ちして店を出たと店員は言った。
その日の夕方までに集まった杉浦像は、統一されていた。半端者で、抜け目はある。人を脅して大金を動かすほどではない。だが、整理漏れや記録の穴に潜り込むのが上手い。そういう人間は、消えても騒ぎが大きくなりにくい。一方で、閉鎖病棟のような場所にいる理由はいくらでも作れる。
真壁は杉浦の所持品一覧を見返した。財布、鍵束、安物のライター、折れたボールペン、旧病棟の簡易見取り図メモ。手書きのメモは雑だったが、単なる通路案内ではない。四階北病棟の一角に印があり、保護室に近い個室の位置が丸で囲まれている。誰かから渡されたのか、自分で写したのか。いずれにせよ、あの部屋を知っていた。
「前日に会ってる相手、まだ顔は出ないのか」
部下に聞くと、相手は首を振った。
「防犯カメラは横顔しか拾えてません。帽子かぶってて、短時間です。杉浦の方から近づいてる」
「通話は」
「使い捨てに近い番号です。もう死んでます」
嫌な線だった。だが嫌だから切るわけにもいかなかった。杉浦は偶然あの場所にいたのではない。誰かが舞台を与えたか、少なくとも舞台に入る扉を開いた。その相手が、病院の記録や図面に近い人間なら、話は自然に次へ進む。
真壁はそこで考えるのを一度止めた。自然に進む仮説ほど危ない。現場も喉も図面も、何かを早く読ませようとしてくる。そう感じる時ほど、歩幅を変えない方がいい。
*
夜の医務院は、昼より静かで、余計な音がない分だけ思考が前に出る。
九条雅紀は机の上に図面を広げ、現場写真と発見者の供述メモを並べていた。四階北病棟。入口、観察窓、古いベッドの位置、窓の方向、照明の落ちる角度。ベッドは最初からあの場所にあったのではない。壁の擦れ跡から見ても、数十センチずれている。その数十センチを、九条は繰り返しなぞった。
死体は、そこにあったのではない。そこから見られるために、置かれていた。
入口に立つ。最初に視界へ入るのは上がったベッド柵。その次に、左右へ開いた腕。顔はその流れの先にあり、顎が上がっているせいで喉へ目が滑る。足元から見た場合、印象は変わる。顔の向きより肩の開きが先に見え、喉の異常は鈍る。数十センチだけベッドがずれていたら、発見者の最初の視線は喉ではなく胸元へ落ちていたはずだった。あるいは腕ではなく顔へ。だが実際にはそうなっていない。
読む順番の設計だ、と九条は思った。
死因の隠蔽ではない。読解の入口をいじっている。しかもそのいじり方が、警察や一般の医師より、法医学の目に引っかかるように出来ている。喉に目が行く。目が行ったあとで、胃内容との不一致に頭が引っかかる。姿勢と硬直の齟齬が、そこで二度目の違和感になる。
――誰に読ませるつもりだった。
その問いを、九条はもう何度も頭の中で反芻していた。問いの形は同じでも、重さが変わっている。最初は現場への疑問だった。今は、自分の方へ向いている感覚がある。
図面の更新履歴も気になった。二階堂から回ってきた資料には、四階北病棟だけ改修記録の飛びがある。管理番号は続いているのに、レイアウト変更の履歴だけが抜けている。消されたのか、残されなかったのか。どちらでも構わない。問題は、そこに人の手つきがあることだった。
九条は発見者の立ち位置メモの上に透明シートを重ね、視線の角度をざっと書き込んだ。入口の位置、第一歩目の向き、肩の振れ。そこから喉へ目を引かせるなら、顔の角度はあれでいい。肩をあと数センチ閉じれば、印象は変わる。逆に言えば、あの形にする必要があった。
偶然じゃない。
そこまで考えたところで、九条は椅子から背を離した。怖さはまだ形を持たない。ただ、不快と興味が同じ場所に立っている。自分の職能の癖を前提にして書かれた文章を、死体で突きつけられたような感覚だった。
法医学の読み手を知っている。いや、もっと限定されている。一般論ではなく、自分の引っかかり方に近いところへ針を落としている。
誰が、という問いにはまだ名を与えない方がいいと、九条は思った。名を置いた瞬間、盤面が一段と具体的になる。それはつまり、自分がその盤面の上にいることも認めることになるからだった。
*
所見写真の整理をしていると、堀島が静かにファイルを差し出した。
「先生、昨日の咽頭所見、拡大した分です」
「ありがとう」
堀島はそのまま隣の机で必要な資料を揃え始めた。動きに無駄はない。九条が何を欲しがるかを先回りする癖が、最近ますます強くなっている。優秀な補助と言えばそれまでだが、今日はその気配が少し違って見えた。
「先生」
堀島は写真から目を離さずに言った。
「こういうのって、どこで作為って判断するんですか」
「何をもって、って意味なら一つじゃない」
「死因より先に、見せ方の方が気になることってありますよね」
九条は手を止めなかった。だが心の中では、わずかに間を置いた。そこへ行くか、と測るような間だった。
「ある」
「ですよね」
堀島は笑わなかった。
「前に先生、言ってましたよね。死体は、ときどき読者を持つことがあるって」
九条の指先が、写真の端でほんのわずかに止まった。
かなり前の話だった。地方の孤独死案件で、発見者にだけ向けた配置の癖が議論になった時、雑談の延長で一度だけ口にした言葉だ。覚えていても不思議ではない。だが、この正確さは少し違う。言い回しごと保存していたみたいに、堀島はそのまま出してきた。
「よく覚えているな」
「印象に残ったので」
返事が早い。用意していたみたいに早い。
「読ませたい相手がいる死体って、たまにありますよね」
そこで九条は初めて堀島を見た。真正面ではない。視線を滑らせるように、相手の顔の上を通す。仕事中の世間話にしては、言葉が一歩深い。
「何でそう思う」
「何かを隠したいだけなら、もっと単純にやれますから」
堀島は淡々としていた。
「杉浦さんの件も、何かを入れたんじゃなくて、入れた形だけ残した感じがします。空白を見せてるというか」
真壁なら聞き流すだろう。あるいは優秀な後輩の観察眼として受け取る。だが九条には、その言い方が妙に耳に残った。こちらの読みに寄り添っているのではない。どこまで届いたかを測っている熱がある。
「写真だけで飛ぶな」
九条は短く言った。
「すみません」
「想像は要る。でも先に形つけるな」
「はい」
堀島は素直に引いた。その引き方が、かえって気になった。踏み込みすぎたと気づいた人間の退き方ではない。必要なところまで届いたことを確かめてから手を離すような退き方だった。
ファイルを閉じる直前、堀島が軽く言った。
「先生なら、こういう死体、嫌いじゃないでしょう」
冗談めいていた。だが温度が少しずれている。九条は答えなかった。嫌いかどうかで処理できる話ではない。そのことを、相手も分かった上で言っている気がした。
こいつ、どこまで分かって言っている。
その問いを、九条は表情の裏へ押し込めた。まだ断定はしない。自分の読み方を強く受けた後輩が、たまたまそこへ届いているだけかもしれない。そうでなければ困る、という甘さがまだ少しだけ残っていた。
*
二階堂壮也は、過去の説明資料の束を机に積み上げたまま、四階北病棟の図面更新履歴だけを別に抜き出していた。
報道対策のために過去を洗う作業は、言葉の後始末に似ている。どこで何が言われ、何が消され、どの表現が残ったか。今回の件で厄介なのは、閉鎖病棟という単語だけで意味が勝手に増幅することだった。だからこそ、その単語の根拠になり得る記録の側を確かめておく必要がある。
四階北病棟だけ、更新履歴の飛び方が不自然だった。
番号は続いているのに、一部のレイアウト変更記録が抜けている。代替ファイルもない。単純な紛失とは違う。消され方が下手だ、と二階堂は思った。完全に消すなら番号ごと切るはずだ。中途半端に残っているから、人の手つきが見える。
真壁に電話を入れる。
「図面の履歴、北病棟だけ飛んでる」
『今は記録の穴より、被害者の足取りだ』
「記録の穴の方が、誰かの手つきが残ることがある」
『全部、見せ方に見えるのか』
「見せ方の下手なやつは、隠し方も下手だ」
向こうで真壁が一瞬黙る。こちらの言い方を面倒だと思っている時の間だった。
『九条にも回しとけ』
「もう回した」
『返事は』
「短い」
『何て』
「了解、だけ」
二階堂は電話を切ったあと、その短さが妙に気にかかった。九条は分かったことを全部言わない。自分も同じだ。だから余計に厄介だった。共有しないことが、相手への遠慮にも、自己防衛にも、悪い癖にもなる。
履歴の束に混じっていた照会文の控えも、二階堂は読み返した。そこに書かれているのは必要最小限の事実だけだ。場所は示す。だが、意味の核になる具体は置かない。普通の告発なら逆だと、二階堂は思った。伝えるためなら、もっと説明する。何があり、誰が悪く、何を見ろと書く。今回の文面は違う。気づく相手だけが気づけばいい書き方になっている。
「これ、情報を出したいんじゃないな」
独り言のように呟く。
「読まれたいんだ」
その言葉が出た瞬間、図面の欠落も、現場写真の構図も、喉の空白も、一本の線で繋がった。これは不特定多数へ向けた情報の投下ではない。選ばれた相手にだけ届くように削った文章だ。伝達ではなく接触。告発ではなく指名。
廊下ですれ違った九条に声をかけたのは、その数十分後だった。
「資料、見たか」
「見た」
「四階だけ抜けてる」
「見れば分かる」
「お前、驚かないな」
九条は立ち止まったが、返事は少し遅れた。
「予想の範囲だったから」
「その顔、嫌だな」
「どの顔」
「分かったことを飲み込んでる顔」
九条はわずかに目を細めた。
「お前もよくする」
「だから嫌なんだよ」
二階堂は言ってから、自分でも少し笑いそうになった。悪い共通点だった。
「何を読んだかは聞かない」
代わりに言う。
「でも一つだけ言う。これは告発文じゃない。選ばれた相手にだけ届く書き方だ」
九条の表情はほとんど変わらなかった。それでも二階堂には分かった。届いている。
「何を決めた」
その瞬間だけ、九条の表情が止まった。ごく短い静止だったが、二階堂には十分だった。怖がっているのではない。何かを決めた人間の静けさが、そこにあった。
「そう見える?」
「見える」
「気のせいでいい」
「よくないから言ってる」
九条は答えずに通り過ぎた。その背中を見ながら、二階堂は小さく舌打ちした。間に合わない時の背中だ、と理由もなく思った。
*
真壁が医務院の廊下で九条を捕まえたのは、その夜だった。
「お前、何を読んだ」
前置きなしに言うと、九条は足を止めた。
「まだ仮説だ」
「仮説でも出せ。こっちは死体が一つ出てる」
「だからだ」
「だから?」
九条は壁際へ体を寄せ、周囲に人がいないことを確認してから低く言った。
「下手に形を与えると、向こうの思う順番で読むことになる」
真壁は眉間に皺を寄せた。
「向こう?」
「……そういう書き方をしている」
「誰が」
「そこがまだ足りない」
「足りないなら余計に出せ。お前一人で抱えるな」
真壁の声は抑えていたが、怒気は隠れなかった。被害者が一人いる。その前で共有を渋る態度が許せない。九条の慎重さが理屈であることは分かる。だがその理屈が、現場の死を後回しにしているように見える瞬間がある。
「お前、狙われる側にいるんじゃないのか」
口にしてから、真壁自身が一瞬だけ黙った。形にすると嫌な線だった。九条は否定しなかった。ただ、目を逸らすこともしない。
「まだそこまでじゃない」
「まだ、って何だ」
「言い方が悪かった」
「悪い」
九条はそこでようやく疲れたように息を吐いた。
「死体が、自分で読者を選んでいる感じがする」
「それが何でお前になる」
「法医学の目に引っかかるように出来ている。警察より先に、検案より先に」
「法医学者なんてお前一人じゃない」
「そうだな」
九条はそう言ったが、その言葉に自分を納得させる力はなかった。
「それは分かっているけど、俺の引っかかり方を知っている人間の書き方に見える」
真壁はしばらく黙った。そこまで言うなら名前を出せ、と喉まで出かかったが、言わなかった。名前を出させるには材料が足りないし、何より九条の顔が、すでにそこまで考えている人間の顔だったからだ。
「……近い人間ほど慎重に当たる」
それだけ言うと、九条は少しだけ目を上げた。
「勝手に動くな」
「お前もな」
真壁は吐き捨てるように言った。だがその約束が守られないだろうことも、同時に分かっていた。
*
深夜、九条は一人で資料を並べ直した。
杉浦の喉所見写真。図面。発見者の立ち位置メモ。死後硬直の記録。死体の顔向きと喉の見え方は、入口に立つ読者にだけ最適化されている。喉の損傷位置も、検案医の視線の次の動きを前提にしている。偶然の作為ではない。法医学の読み手を知っている人間の書き方だ。
その言葉を、九条は頭の中でゆっくり置いた。
「……俺を呼んでいる」
声にすると、事実になった。
最初の死体は、死因より先に読者を選んでいた。自分がその読者に指名されているのだと認めた瞬間、視界の奥で何かが静かに定まった。怖くないわけではない。だが、いまさら引き返せる話でもない。
九条は端末を開き、誰にも見せないメモを新規作成した。件名は入れない。本文も、すぐには書かない。ただ、冒頭に一行だけ打つ。
――自分が死んだ場合。
その文字列を見たまま、しばらく手を止めた。
最初の死体は挑戦状だった。そしてその返事を書く順番が、いま九条の側へ回ってきていた。




