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死体の胃の中からラミネート片出てきた  作者: 土屋 拓真


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第二章 空の喉

 医務院の朝は、いつも温度が一定だ。

 真壁はその無機質さが嫌いではなかった。人が死ぬことそれ自体には、どこにも温度の保証などない。せめて扱う側の環境だけでも揺れない方がいい。廊下は清潔で、照明は白く、時間の進み方まで均一に感じられる。だがその均一さの中で、今日の九条だけはわずかに違って見えた。

 遺体搬送袋が解かれ、記録の手順が静かに進む。九条はいつも通り無駄がない。確認事項を短く伝え、助手に視線だけで合図を送る。だが視線の配り方が少し深い。死体のどこをどれだけ見るか、その配分が昨日の現場から続いているようだった。

「現場の姿勢、やっぱり合ってないか」

 真壁が言うと、九条はうなずいた。

「かなりな」

 肩の可動、頸部の硬直、指の固まり。いくつかの要素を拾っていくうち、昨日の違和感が錯覚ではなかったことがはっきりしていく。死体は発見時の形で固まったのではない。別の姿勢で進んだ硬直に、後からかなり意図的な操作が加わっている。

「開かされてる、って昨日言ったな」

「ああ。抱え込む側の流れが先にある。そこから肩を割っている」

「見せるためか」

「たぶん」

 真壁は黙った。見せるために死体を開く。その発想自体は珍しくない。恨み、見せしめ、撹乱。だがこの件の嫌らしさは、喉の痕と結びついた時に、ようやく輪郭を持ち始める気がした。

 九条は喉の確認に入った。真壁は必要な距離を保ちながら、その視線の順番を追う。口腔、舌根、咽頭、食道入口部。まるでその順番自体が何かを解く鍵みたいに、九条は急がない。

「あるな」

「何が」

「擦過。圧もある。飲ませたか、押し込んだか、その系統」

「残ってるか」

 九条は一度だけ目を上げた。

「そこだよ」

 その先は、解剖所見が物語った。

 咽頭から食道入口部にかけて、明らかに無理がある。だが胃内に、決定打になる異物はない。毒物の匂いも、固形物の残片も、この段階で即座に指せるものは見つからない。あるのは微量の水分、粘液、曖昧な溶出痕だけ。喉は何かを覚えているのに、胃は覚えていない。そこに、九条は強く引っかかっていた。

「何かを入れたかったんじゃない」

 九条が独り言のように言った。

「飲ませた、っていう傷だけ残している」

 真壁は腕を組んだ。

「そんなことして何になる」

「読む側が、そこに何かあったはずだって考える」

「考えさせてどうする」

「空白を作る」

 九条は淡々としていたが、その淡々とした言い方が逆に真壁を苛立たせた。

「空白は証拠にならん」

「でも、読む人間は勝手に埋める」

 九条は喉の写真を確認しながら続けた。

「異物が出れば、それで終わる。毒でも、薬でも、紙でも、何でもいい。名前がついた瞬間に、読む順番は一つになる。でも何もないと、そこにあったはずのものを皆が考え始める。喉だけが覚えていて、胃が覚えてない。その変さが残る」

 真壁は死体を見た。法医学の用語ではなく、その不気味さだけは理解できる。無理に飲ませた痕があるのに、飲ませたものがない。つまりこの死体は、何かを隠すより前に、何かがあったと読ませるために作られている。

「誰に向けてだ」

 九条は手を止めずに言った。

「そこがまだ見えない」

 そのとき、助手の一人が記録を読み上げた。堀島だった。昨年から九条の下についた解剖補助員で、真面目で、手際がいい。年齢は二十七。必要以上に口数は多くないが、九条の言ったことをよく覚えている。

「先生、これ、死因を隠したいならもう少し別のやり方がありますよね」

 堀島は記録票から目を上げた。

「むしろ読ませたい感じがします」

 真壁はその言い方に一瞬だけ引っかかった。昨日、九条が口にしたのと近い。だが優秀な補助なら、それくらいの推測をしてもおかしくはない。

 九条は堀島を見た。ほんの一秒ほどだが、妙に静かな視線だった。

「そうかもな」

 それだけ言って、また手元へ戻る。

 堀島はそれ以上踏み込まなかった。手袋を替え、器具を整え、必要な項目だけを確認する。動作に無駄はない。だが真壁は、彼が遺体を見ているというより、九条がどこを見るかを見ているように感じた。

 九条が咽頭へライトを入れる。その角度に合わせて、堀島の呼吸が一瞬だけ浅くなった。記録の返答が早すぎる。器具名を言われる前に、次に必要なものがもう手の中にある。しかも視線は遺体の全体ではなく、九条の目線の落ちる場所を先回りして追っていた。他の補助員が所見そのものを拾おうとしているのに対し、堀島だけが九条の読み筋を写し取ろうとしているようだった。

「写真、ここもう一枚」

 九条が言うよりわずかに早く、堀島は位置を変えた。

「ここですか」

「……そこ」

 九条の声が、ほんの少しだけ遅れた。

 真壁はそれを見た。熱心な後輩、と言ってしまえばそれまでだ。だが熱心さにも温度の種類がある。あれは所見を学ぶ目つきではなく、答えに辿り着くまでの順番ごと欲しがる目つきだった。

     *

 被害者の身元は昼前に固まった。

 杉浦征司、三十八歳。建物管理関連の雑務請負を表向きの肩書にしていたが、実際には廃業施設から出る備品や旧書類の横流しにも関わっていた形跡がある。再開発前の整理案件に潜り込み、正規の廃棄と非正規の持ち出しの境目を曖昧にする。そういう仕事を何度かやっていた。

「厄介だな」

 資料をめくりながら真壁は言った。

 ただの通行人ではない。廃院病棟にいても不自然ではなく、しかも身元が即座に固まりにくい。医療備品にも旧記録にも接点があり、現場に多少の細工があっても違和感が薄れる。偶然にしては、条件が良すぎる。

 杉浦の携帯履歴には、医療関係者でも警察関係でもない曖昧な接点がいくつかあった。使い捨て回線に近い番号、名義の怪しいメールアカウント、そして旧病棟図面のデータ受信履歴。送信元はすでに消えているが、直前数日にやりとりがあったことだけは確かだ。

「図面まで触ってたのか」

 部下が言う。

「金になると思ったんだろう。あるいは呼び出しの餌にされたか」

 押収品の一覧には、安い使い捨てライター、擦れた名刺入れ、コンビニのレシート、胃薬のシートがあった。レシートは前夜のものだった。ミネラルウォーター二本、缶コーヒー、胃薬。ついでに買ったような小さなガム。机上メモの写真も回ってくる。何度か書き直したらしい電話番号、途中で潰れた名字、余白に小さく「来週返す」と走り書きがある。金の流れに関わる男の持ち物としては妙に半端で、逆に生活が途切れていない感じだけが残った。

 杉浦の周辺を洗うと、前夜に喉を気にしていたという曖昧な証言も出た。酒を飲んでいた席で、何か引っかかったように何度も水を飲んでいたという。だが帰るつもりではいたらしい。会計のあとで誰かに電話をかけ直そうとして、発信履歴を二度開き直していたという証言もある。途中だったのだ、と真壁は思った。大した人生の証拠ではない。だが、翌日まで続くつもりの手つきだけは残っている。

 そこまでで、真壁は一つの像を作りかけて、すぐ壊した。喉の違和感を死因に直結させるのは早い。現場がすでに、そういう早さを誘っている。

「先に答えを欲しがるな」

 自分で言った言葉を、真壁は頭の中でもう一度なぞった。

 この被害者は、単に殺されただけではない。舞台に馴染むよう選ばれている。そう思わせる材料が揃い始めていた。

     *

 午後、真壁が再び医務院へ顔を出すと、九条は所見写真を整理していた。モニターには咽頭周辺の拡大画像が並び、どれも決定打には見えないのに、どれも妙に嫌な情報量を持っている。

「杉浦の背景、出た」

 真壁が言うと、九条は椅子を回さずに聞いた。

「聞く」

「横流し屋だ。旧施設の備品と記録に出入りしてた。病棟にいても不自然じゃない。図面データも触ってる」

 九条の手が一度だけ止まった。

「図面か」

「気になるか」

「気にはなる」

「お前も取り寄せる気だったろ」

 九条はようやく振り向いた。否定もしない。

「喉の傷と病棟の構造が、別々じゃない気がする」

「何でだ」

「まだ言語化しきれてない」

「その言い方やめろ」

 真壁の声に、わずかに苛立ちが混じる。九条はそれに気づいていたが、正面から受けずに視線を落とした。

「これ、俺に読ませたいんだと思う」

 その一言で、部屋の温度が少しだけ下がった気がした。

「思うなら全部言え」

「だから、まだ確信が」

「確信がなくても出せるとこまで出せ」

 真壁は机に手をついた。

「お前一人で抱えるな」

 九条はしばらく黙っていた。その沈黙に、拒絶より迷いが多いことを真壁は知っている。巻き込みたくない時の黙り方だ。

「喉の傷が、俺の見方を前提にしている感じがする」

「どういう意味だ」

「異物を探す読み方を、逆に利用している。見つからないこと自体がメッセージになるように」

「それがお前向けだって?」

「他の誰でもなく、法医学の読み手向けではある」

 その時、資料棚の脇から堀島が現れた。コピーを抱え、二人の会話が耳に入っていない顔をしている。だが真壁には、そのタイミングが少し良すぎるように思えた。

「先生、旧病棟の管理記録、保管先に照会かけておきました。図面も一緒に拾えるかもしれません」

 九条が目を上げる。

「早いな」

「必要かと思って」

 堀島は穏やかに言った。その目には熱があった。教えを乞う弟子の熱というより、答案を差し出して採点を待つ側の緊張に近い。

「先生なら、これ、どう読みます?」

 その問いが、少しだけ深すぎた。

 九条は堀島を見た。やはり一秒だけ長い沈黙がある。

「まだ途中だよ」

「ですよね」

 堀島は笑わなかった。だが満足したようにも見えた。

     *

 二階堂は会見資料の下書きを赤で修正しながら、何度も同じ単語を消していた。閉鎖病棟。拘束。異物。どれも記者が好きそうな言葉だ。好きそうな言葉ほど、先に現場を奪う。

 問い合わせの中には、過去の虐待疑惑や患者拘束問題に絡めたものがすでに混じっていた。まだ死因も身元も確定しきっていない段階で、記事は勝手に走り出す。二階堂はそれを止めるために仕事をしているが、ときどき自分が止めているのは情報ではなく、見方そのものではないかと思う。

 真壁に短く電話を入れる。

「記者が勝手に旧病院の負の歴史と繋げ始めてる」

『分かってる』

「写真の構図が悪い」

『お前またそれか』

「言葉が先に決めるんじゃない。今度は絵が先に決めてる」

 真壁は一拍置いた。

『こっちでも似たようなこと言うやつがいる』

「九条?」

『名前は出してない』

 二階堂はそこで黙った。聞かなくても分かる。あいつも何か見ている。法医学の層から。自分は構図の層から。それぞれ違う場所に立ちながら、同じ違和感の縁に触れている。

「九条、変なことしてないか」

 つい口から出た。真壁はすぐには答えなかった。

『変なことはいつもしてる』

「今はそういう意味じゃない」

『分かってる』

 電話が切れたあと、二階堂は現場写真を見返した。やはり喉に目がいく。そこに何かがあるからではない。そこが、見る者に何かを探させるように作られているからだ。

 写真だけでは足りず、照会文面の草案まで読み返した。匿名提供者の文面は簡潔なのに、妙に具体が薄い。場所は示す。だが、何があるかは言い切らない。情報を出したい人間の文章ではなく、気づく相手を待つ文章だった。普通のリークなら、もっと説明する。伝わることを優先する。これは違う。具体を削って、読みの早い相手だけを前提にしている。

「こいつ、情報を出したいんじゃないな」

 二階堂は独り言のように言った。

「読まれたいんだ」

 そう口にした瞬間、嫌なほど腑に落ちた。現場の構図も、喉の空白も、文面の薄さも、全部同じ方向を向いている。大勢に知らせたいのではない。正しく届く相手を選びたいのだ。

「先に見方を決めてる」

 昨日、自分で書きつけたメモを見て、二階堂は小さく舌打ちした。嫌な予感が形を持ち始めていた。

     *

 夜、医務院の執務室に残ったのは九条だけだった。

 所見写真を一枚ずつ見返す。咽頭の荒れ。食道入口部の細い損傷。胃内の曖昧な痕跡。何もないことの強さ。喉だけ残して、中を消す。そういう死体を作った人間は、普通の隠蔽とは違うものを狙っている。

 九条は杉浦の写真を閉じ、旧病棟の図面データを開いた。四階北病棟。保護室に近い個室。ベッド位置。入口からの見え方。足元からの見え方。死体はただ置かれていたのではない。部屋ごと使っていた。

 机の端には、昼に届いた小さな封筒があった。中身はまだ開けていない。私物として頼んだものだ。九条は一度それに目をやり、またモニターへ戻した。

「これ、俺に読ませたかったんだと思う」

 昼間、真壁に言いかけた言葉を、今度は誰もいない部屋で最後まで口にした。

 確信はない。だが予感だけは、もう十分すぎるほどある。最初の死体は、ただの被害者ではない。次の死体へ続く文章の最初の一行だ。そしてその文章は、法医学の読み手にしか届かない書き方で綴られている。

 九条は喉の写真を保存先とは別の場所に複製した。個人用の暗号化フォルダ。普段ならしないやり方だった。

 それから病棟図面を印刷し、折り目をつけずにクリアファイルへ入れる。手元のメモには、ベッド位置、視線誘導、開排、喉、空白、とだけ書いた。どれもまだ仮の言葉だ。だが仮のままでも、もう無視できない。

 封筒を開ける。中に入っていた小さな品を見て、九条は数秒だけ手を止めた。それが必要になる未来を、想像しないようにした。

 廊下の照明が一段落ちる。終業時刻を過ぎた合図だった。

 九条は最後にもう一度、最初の死体の喉を見た。

 その視線は、まだ他人の死体の内側に向いている。けれど次に向かう先が、すでに自分の死体の内側であることを、彼だけは薄く知り始めていた。


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