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死体の胃の中からラミネート片出てきた  作者: 綾見 恋太郎


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第一章 閉鎖病棟の死体

 古い病院には、使われなくなってからの時間がそのまま溜まる。

 南棟のエントランスで点検票に署名したとき、長谷部修司はそう思った。再開発前の設備確認。仕事としては珍しくもない。潰れる建物はいくらでもあるし、潰れる前に確認しなければならない設備も山ほどある。ただ、病院は少し違う。人が長くいた場所は、空になってからも妙な癖を残す。学校なら子供の声が消えた感じがするし、工場なら機械音の名残が耳の奥にこびりつく。病院はもっと質が悪い。使われていた目的が、壁の内側に染みついている。

 旧都立中央病院。五年前に機能移転し、以後は閉鎖。解体計画は二転三転し、再利用案も流れ、いまは最低限の保全だけが続いている。長谷部たちが今日入るのは、その保全のための事前点検だった。立入りが許可されているのは一階から三階の一部と、配管系統の確認に必要な廊下だけ。四階北病棟は原則封鎖。書類にもそう書かれていた。

 だが、エレベーターホール脇の鉄扉を押した瞬間、長谷部は眉を寄せた。

 空気が違った。

 埃っぽいのは当然だ。乾いた消毒薬の匂いも、病院なら残る。だがそこに、湿ったリネンを長く押し込めたような鈍い匂いが混じっていた。カビほど生々しくないのに、なぜか喉の奥にへばりつく。

「嫌な感じですね」

 後ろから来た若い作業員が言った。長谷部は返事をしなかった。言葉にすると余計に実体を持つ気がしたからだ。

 廊下の壁紙はところどころ剥離し、下地の灰色がむき出しになっている。病室扉の小窓は塞がれていたが、枠だけが残り、そこに人の目がはまっていた時間を想像させた。窓はどれも開き幅が制限されていて、金具の位置が一様に古い。昼間なのに光は細く、病棟全体が夕方みたいに沈んでいた。

 壁の低い位置には、車椅子やストレッチャーが何度も擦ったらしい跡が帯のように残っていた。廊下の角には、養生テープを剥がしたあとの黄ばんだ四角がいくつもある。酸素配管の口は塞がれ、ナースコールの受け口だけが空しく口を開けている。使うための設備は死んでいるのに、見張るための形だけがまだ残っていた。

 四階北病棟へ上がる予定はなかった。だが配電盤の位置を確認していた長谷部は、図面と現況が微妙に合わないことに気づいた。古い病棟側に迂回しないと、目的のダクトスペースに辿り着けない。警備担当に無線で確認し、北病棟の外廊下までならいい、内部には入るな、と曖昧な許可を取った。

 そこから先は、いやに静かだった。

 床のビニール材は乾いて白く波打ち、壁には剥がされた患者番号の跡が四角く残っている。看護記録ボードが掛かっていたらしい場所だけ、日焼けせずに色が薄い。扉脇のプレートは外されているのに、粘着の跡だけが均一に並んでいた。人を診る場所だったはずの空間が、いまはただ人を管理した痕跡だけを並べている。治療の名残ではなく、分類と観察の残骸。その感じが、長谷部には妙に冷たく思えた。

 奥に進むと、病室というより個室に近い部屋があった。扉の外側に鍵穴の補強板があり、内側には何かを剥がした跡がある。昔の保護室か、観察室か。詳しいことは知らないが、普通の病室とは違う。半開きの扉を見たとき、長谷部は足を止めた。

 誰かが先に入っていると思った。

 開き方が中途半端だった。人が通れるだけの幅を残し、それ以上は開けていない。風で動いた角度には見えない。

「誰かいますか」

 声は、思っていたより低く出た。

 返事はない。

 長谷部は肩で扉を押した。蝶番が鈍く鳴り、細い光が床を舐めた。最初に見えたのはベッド柵だった。古い病院用ベッド。片側の柵が上がり、もう片側が下がっている。位置が、妙だった。壁との間隔が均等ではなく、ベッドそのものが部屋の中央から少しずれていた。掃除や搬出のために寄せたという感じではない。見せる方向を決めて置いたようなずれ方だった。

 その次に見えたのは腕だ。

 男がいた。

 ベッド脇に落ちたのでも、寝ているのでもない。ベッドの横に半ば凭れるような形で、上体だけを起こされた姿勢になっていた。両腕が左右へ開いている。助けを求めたにしては開きすぎているし、拘束されたにしては何もない。なのに、自然な力の抜け方ではなかった。

 長谷部はそこで初めて死体だと思った。顔色や皮膚の色で判断したわけではない。姿勢が、生きている人間の失敗ではなく、終わった身体の置き方に見えたからだ。

 顔は右を向いていた。顎が少し上がっている。目は半分閉じ、口がわずかに開いている。喉元の皮膚が、何となく湿って見えた。汗ではない。水でもない。照明がないせいで確信は持てなかったが、そこだけ質感が違った。

 足は床についていた。だが膝の角度が変だ。片脚だけ外に開き、もう一方はそれに追従しきれていない。上半身と下半身が別々の考えで置かれているようだった。

「うわ」

 後ろの若い作業員が息をのんだ。

 長谷部は携帯を取り出し、通報しながらもう一度室内を見た。争った跡らしいものはない。薬瓶も、コップも、吐いたような汚れもない。ただ男だけがいて、その男だけがこの部屋の古さに妙に馴染んでいた。現代の服装をしているのに、姿勢だけが昔の病棟の規則に従っているように見える。

 そのことが、気味悪かった。

 怖いというより、噛み合わない。目の前にあるもの全部が、同じ意味を向いていない。

 長谷部は警察が来るまで、二度と部屋の中を見ないようにした。それでも視界の端には、開かれた腕と、少しだけ濡れて見える喉元が、いつまでも残った。

     *

 現場に着いた時点で、真壁彰はこの部屋がもう半分ほど誰かの解釈で汚されていると分かった。

 規制線の張り方で分かる。入口から一直線に張られていれば、人は一番見やすい位置に集まる。集まった位置が、そのまま最初の意味になる。所轄の若い刑事たちの立ち位置も同じだった。扉の正面に二人、やや斜め後ろに鑑識が一人。皆、同じ角度から死体を見ている。

 それが気に入らなかった。

「誰が最初に室内入った」

 真壁が言うと、所轄の係長が前に出た。

「写真班の前に、うちと鑑識が一度。接触は最小限です」

「最小限でいい。意味は足すな」

 係長が一瞬口を閉じた。真壁は扉の前で立ち止まり、まず廊下側から室内の配置を見た。ベッド、壁、窓、死体。視線の流れが一方向に誘導される。入口から見た時に、まず腕が目に入る。その次に顔、その後で喉元。足元は最後だ。そういう並びになっていた。

「拘束死体っぽいですね」

 若手の刑事が小声で言った。

「儀式系かも」

 別の声も重なった。

 真壁は室内に入る前に振り返った。

「先に答えを欲しがるな」

 それだけ言って、足を踏み入れた。

 古いリノリウムが靴の下でわずかに鳴る。窓の開き幅は制限され、換気は死んでいた。部屋には看護のための設備も、治療のための設備も残っていない。残っているのは管理の形だけだ。ベッドの位置、扉からの視認性、内側から壊せない窓。それらが今、死体の置き方と一続きになっている。

 男は三十代後半前後。服装は現代的で、汚れも極端ではない。外傷がないわけではないが、見た瞬間に死因と断定できるものは見当たらない。むしろ引っかかるのは、身体の開き方だった。

 真壁はまず足元に回った。入口から見た像と、ここから見える像が違う。入口側からは、両腕を広げられた見せ物だ。足元から見ると、肩のラインと骨盤の向きが合っていない。生前にこの姿勢を取ったのなら、もう少し全身に連続した力の流れが出る。だがこれは、どこかの時点で固まりかけた身体を、別の意図で開かせた感じがある。

「硬いな」

 鑑識の神明が頷いた。

「上肢、頸部ともにかなり進んでます」

「で、この姿勢か」

 真壁は死体の左手を見た。指はゆるく丸まりきらず、途中で止められたみたいに固まっている。肩関節の角度も嫌だった。自然に左右へ広がったのではなく、いったん抱え込むように縮んだあと、無理に開かされた気配がある。

「これが何に見えるかより、どう置かれているかを拾え」

 若手に向けて言うと、皆が黙った。

 真壁はしゃがみ込み、顔の向きを確認した。顎が不自然に上がっている。そのせいで喉の正面が見えやすい。見せたいのは顔ではなく喉だ、と一瞬思った。

「口腔内、見たか」

「軽くです。吐瀉なし。異臭も今のところは」

「吐いた形跡もないですね」

 若い鑑識の言葉に、真壁は返事をしなかった。

 口角の脇に小さな裂け。舌の奥はここからでは見えにくいが、咽頭側に何か擦ったような荒れがあるらしい。無理に飲ませたか。あるいは飲ませようとしたか。だが部屋にその痕跡がない。コップも、薬包も、ボトルもない。まして吐瀉物が一つもないのは、かえって目立つ。

 死後移動。工作。そこまでは普通だ。だがこの現場の嫌らしさは、工作そのものより、その工作が見えやすい角度で置かれていることだった。

 真壁はベッド柵を見た。片側だけを上げる意味。死体を支えるためか、それとも身体の開き具合を制御するためか。古いベッドの構造を知っている人間なら、どの位置でどこが支点になるか分かるはずだ。

「ベッド、最初からこの位置だったと思うか」

「壁の痕とズレてます。清掃や管理で多少動くことはありますが」

「多少じゃないな」

 真壁は部屋全体をもう一度見渡した。壁際の擦れ跡とベッド脚の位置が噛み合っていない。死体を置くために動かした可能性が高い。つまり犯人は、まず部屋を舞台として使い、その上で身体の見え方を決めている。

 そこへ、背後で足音が止まった。

 真壁は振り向かずに分かった。九条だ。

 現場での九条の入り方を、真壁は知りすぎていた。顔からは見ない。まず部屋の縁を拾う。ベッド柵の高さ、床との距離、死体の重さがどこへ落ちているかを見てから、ようやく身体の連続へ入る。顔だけを先に取ると、身体が嘘をつくことがあると、前に一度だけ言っていた。咽頭を見る時だけ沈黙が長くなるのも知っている。喉は、死因より前に経過を残すことがあるからだ。

「遅い」

「呼ばれた場所が場所だからな。うちも段取りを食う」

 いつもの声だった。抑揚が薄く、乾いていて、聞き流すと素っ気ない。だが真壁は、その声の奥にいつもより少しだけ細い緊張があるのを聞いた。

 九条雅紀は手袋を嵌めながら室内に入ってきた。最初に死体の顔は見ない。ベッド柵を見て、次に身体の向き、そのあと顎の角度を見た。そこで一度だけ動きが止まる。

 あ、今止まった、と真壁は思った。

 ほんの一拍だが、真壁にはそれで十分だった。九条が嫌なものに触れた時の、身体の浅い止まり方だった。驚いたわけではない。何かを掴んだ時にだけ出る停止だ。

 所轄も鑑識も死因や拘束の有無を見ている。九条だけが、そこへ辿り着くまでの順番を見ていた。

「どうだ」

 真壁が聞くと、九条は死体の右肩の位置を覗き込みながら言った。

「開かされている」

「死後か」

「たぶんな。少なくとも、この形で固まったんじゃない」

 九条は指先を見た。次に顎先をそっと支え、舌根の沈み方を確かめるように視線を落とす。咽頭の奥を小型ライトで照らし、喉の内側をかなり長く見た。長い、と真壁は思った。通常の確認より、一段深く潜っている。

「何がある」

「傷」

「だけか」

 九条は返事をせず、肩関節の開きと胸郭の角度を見比べた。それからベッド柵に触れ、身体の支え方を頭の中でなぞるように視線を動かした。

「これ、死因を隠しているんじゃない」

 真壁は眉を寄せた。

「じゃあ何だ」

 九条は喉から顔、顔から腕、腕からベッド柵へと視線を戻した。

「読ませる順番を壊している」

 所轄の刑事が息を止めた気配がした。真壁は言葉の意味をすぐには追わなかった。追っても仕方がない種類の言い方だと知っていたからだ。

「日本語で言え」

「入口から入ると、腕に引っ張られる。で、顔。次に喉。足元から見ると別の死体に見える。硬直の読みもズレる。死因じゃなく、読む順番に罠をかけている」

「誰にだ」

 その問いに、九条は少しだけ目を細めた。

「それ、俺も今考えている」

 真壁は死体を見下ろした。確かに嫌な現場だった。ただ死んでいるのではなく、読む人間の視線をいじられている。だがそんなことをする理由は、まだ見えない。

 九条は喉元をもう一度見た。

「口腔から食道入口まで、どこか無理がある。飲ませたか、飲ませようとした痕だな」

「でも残ってない」

「そう。そこが一番変だ」

 九条の声が、ごくわずかに低くなった。

「喉だけ残して、中を消している」

 真壁が何か言う前に、廊下から係員が呼んだ。広報から照会。マスコミが現場に来始めているという。真壁は舌打ちし、九条から目を離した。

「先に身元と搬送だ。続きは医務院でやれ」

「ああ」

 九条はそう言ったが、視線はまだ喉に残っていた。

     *

 二階堂壮也は、現場写真の一枚目を開いた瞬間に、嫌な種類の頭痛が来るのを感じた。

 旧都立病院、閉鎖病棟、不審死。単語の並びだけで十分に危ない。過去の虐待疑惑、患者拘束、行政の管理不備、何でもくっつく。記者は事実より先に、つながりやすい言葉を探す。だから広報の仕事は、事実を隠すことではなく、最初に流通する言い方を誤らせないことだった。

「閉鎖病棟」は駄目だ、と二階堂は思った。正確でも、先に意味が立ちすぎる。「旧病棟」か、「旧病院建物内」が限界だ。「変死体」も強すぎる。「遺体発見」。そこから先は、確認中に落とす。

 そうやって文言を整理しながら写真を拡大したとき、二階堂の指が止まった。

 法医学のことは分からない。だが、絵としておかしい。

 死体そのものが異様なのではない。見られ方が設計されている。入口側から見た時に、何を先に見て、何を後から見るかが決められている。説明しにくい写真ではない。説明が先に立ってしまう写真だった。

「これ、隠してないんじゃないな」

 独り言のつもりだったが、隣の部下が顔を上げた。

「主任」

「いや」

 二階堂は画像を一度閉じてから、また開いた。

「死体そのものより、見られ方が設計されてる」

 部下は困ったように黙った。もっと単純な指示が欲しいのだろう。だが二階堂に必要なのは、まさにその違和感だった。これをそのまま出せば、見る者は勝手に意味をつける。拘束、虐待、儀式、病院の闇。そういうラベルが、死因より先に流通する。

 真壁に電話をかける。二コール目で出た。

「いま立てる文言、閉鎖病棟は使わない方がいい」

『現場はそうだ』

「言葉が先に現場を決める」

『こっちは言葉の問題じゃない』

「そっちがそうでも、外は違う」

 数秒、間があいた。真壁の向こうで人の声と足音が交差している。

『……あとで写真回す。勝手に先行させるな』

「してない。だから止めてる」

 電話が切れたあと、二階堂は手元のメモに単語を並べた。旧病棟、廃院施設、発見経緯確認中、身元確認中。どれも必要だ。だが必要な言葉だけでは足りない。見方を決めてしまう構図そのものが、この件にはある。

 その時、九条の名前が頭をよぎった。

 連絡を入れるか迷い、やめた。あいつは現場に行っている。余計な言葉を足すべきではない。そう思ったのに、二階堂はもう一度写真を開いてしまった。喉のあたりに視線が吸われた。

 そこに何かがあるからではない。

 あるはずのものが、ないように見えた。

     *

 搬送の立会いを終え、真壁が病院の裏手で煙草も吸わずに立っていると、九条が遅れて出てきた。白衣ではなく、いつもの黒に近いコートを羽織っている。夕方の光が弱くなり、病院の壁が急に冷えて見えた。

「お前、何か見えてるだろ」

 真壁は前置きなく言った。

 九条は車の鍵を指で回しながら、しばらく答えなかった。

「見えているってほどじゃない」

「じゃあ何だ」

「引っかかっている」

「それを聞いてる」

 九条はわずかに笑った。笑ったというより、口元の筋肉が一瞬だけずれた程度だ。

「死因を読むための死体じゃない」

「さっきも言ったな」

「喉に飲ませた痕があるのに、何も残してない。普通は逆だろ。入れたなら入れたものを消したくなる。けどこれは、消した結果じゃなくて、そこに何かあったはずだって思わせるための空白に見える」

「そんなことして何になる」

「読む側が勝手に埋める」

 真壁は苛立った。

「だから誰が、誰に」

 九条は答えず、旧病院の上階を見上げた。四階の窓はどれも細くしか開かず、夕方の空を切り取っている。

「誰に読ませるつもりだったんだろうな」

 独り言みたいに言ってから、九条は視線を戻した。

「明日、解剖で見る」

「それで終わると思うか」

「思わない」

「なら全部言え」

 九条は少しだけ黙った。その沈黙は、迷いというより選別に近かった。何を言って、何をまだ飲み込むかを決めている顔だと、真壁は知っている。

「まだ確信がない」

 それだけ言って、九条は車に乗り込んだ。

 テールランプが見えなくなったあとも、真壁はしばらくその場に立っていた。最初の死体は、まだ死因すら確定していない。なのに九条だけが、その死体に呼ばれているように見えた。


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