決壊寸前! 魔国ダムの水を止めるのは、勇者の剣ではなくブルーシートだ
現地は、まさに阿鼻叫喚だった。
耳をつんざくような――
轟音。
視界を覆い尽くす――
水飛沫。
喉が裂けるほどの――
悲鳴。
それらが混ざり合い、空気そのものが震えている。
大地は揺れ、足元の岩盤は不安定に軋み、湿った土の匂いが鼻腔を突いた。
グラビティ・ダム――
魔国の治水を数百年にわたって支えてきた巨大構造物。
その名は“重力によって水を抑え込む”ことを意味していたはずだった。
だが今、その名は皮肉に変わっている。
重力に、耐えられなくなった壁。
ダムの中央部、もっとも水圧が集中する箇所から、白濁した濁流が噴き上がっていた。
それはもはや「漏水」などという生易しいものではない。
圧縮された水が、壁を内側から抉り、押し広げ、破壊しようとしている。
数百年前――
このダムは、土属性魔導師によって築かれた。
即興で練り上げられた「魔法の粘土」。
魔力を流し込み、岩よりも硬く、水を通さぬ奇跡の素材。
当時は、確かに奇跡だったのだろう。
設計図も、検証も、長期耐久試験もない。
それでも魔法は、すべてを解決してくれた。
――その“つもり”だった。
だが、今は違う。
壁面を走る無数のひび割れ。
髪の毛ほどの細いものから、指が入るほどに広がった亀裂まで、縦横無尽に走っている。
内部で剥離した層。
魔法の粘土は、何層にも重ねられていたが、その結合はすでに失われ、内側では層と層がズレ、空洞を生んでいた。
そして――
水圧に耐えきれず、不自然に膨らむ腹。
平面であるはずの壁が、わずかに、しかし確実に前へと張り出している。
それは構造物として、致命的な兆候だった。
逃げ場のない圧力が、行き場を求めて壁を押し出している。
限界は、すぐそこまで来ている。
構造が、完全に死んでいる。
水属性魔族「凍らせろ!ここを全部、氷で塞げ!」
切羽詰まった叫び。
指揮官格の魔族が、必死に腕を振り上げる。
詠唱。
空気中の水分が一気に凝結し、温度が急激に落ちていく。
冷気。
皮膚を刺すような寒さが広がり、足元の水が瞬時に凍り始める。
分厚い氷の壁。
噴き出す濁流の前に、巨大な氷塊が形成され、水の流れを真正面から受け止めた。
――一瞬。
現場に、期待が走る。
これで止まる。
魔法なら、きっと。
――だが。
バンッ!
乾いた破裂音が、轟音を切り裂いた。
次の瞬間、形成されたはずの氷は、内側から粉砕され、無数の破片となって宙を舞った。
氷片は刃のように飛び散り、地面や壁に叩きつけられる。
水属性魔族「ぐあっ!?」
悲鳴とともに、魔族が吹き飛ばされる。
氷を打ち破った濁流は、さらに勢いを増し、白い獣のように暴れ狂った。
水圧が、魔法を“押し返した”。
力ではない。
技でもない。
ただ純粋な、圧倒的な物理の暴力が、そこにあった。
佐藤健は、その光景を一目見ただけで理解した。
理解してしまった、という方が正しい。
白濁した水が噴き上がる位置。
壁面のひび割れの走り方。
不自然に膨らみ、わずかに震えるダムの腹。
それらが、彼の中で即座に一本の線として繋がる。
サトウ「……水圧、読めてない。」
吐き捨てるような呟きだった。
だが声は、不思議なほど冷静だった。
サトウは一歩、前に出る。
足元のぬかるんだ地面を、強く踏みしめた。
――ずん。
鈍い振動が、靴底を通して足に伝わる。
さらに、骨を通じて、体の奥まで響いてきた。
水が壁を叩いている振動ではない。
壁そのものが、揺れている。
サトウ(来てる……内部から、完全に。)
これは“漏れ”じゃない。
補修でどうにかなる段階は、すでに過ぎている。
構造体が、耐えきれずに悲鳴を上げている状態だ。
――決壊の前兆。
その言葉が、嫌な重さをもって脳裏に浮かぶ。
ディアドラ「サトウ!どうすれば――」
ディアドラの声には、明確な焦りが混じっていた。
普段は冷静な彼女ですら、この状況が異常だと理解している。
下流には、魔族の街がある。
このダムが崩れれば、すべてが流される。
サトウ「止水。応急じゃなく、工事です。」
即答だった。
迷いも、言い淀みもない。
魔法で塞ぐ。
一時的に凍らせる。
穴を埋める。
そんな発想は、最初から彼の選択肢にない。
サトウは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
肺の奥まで空気を入れ、意識を研ぎ澄ます。
そして――
【建築聖眼】を起動した。
視界が、切り替わる。
現実の色が薄れ、情報が浮かび上がる。
ダムの壁面が、半透明の断面図として重なって見えた。
外殻。
中間層。
基礎部。
それぞれが色分けされ、応力の集中箇所が赤く点滅している。
サトウの眉が、わずかに寄った。
サトウ「……中、スカスカ。」
低く、静かな声。
怒鳴る必要すらない。
事実を確認しただけの、技術者の声だった。
あるはずの充填材が、ない。
密に詰まっているべき魔法粘土の層が、途中で途切れている。
サトウ「これ、当時の業者が中抜きしてますね。」
淡々とした指摘。
だがその言葉は、重かった。
詰めるべき場所に、空洞。
層と層の接着不足。
内部応力を逃がす設計もない。
表面だけを魔法で固めた、張りぼて構造。
見た目は立派。
だが中身は、時間と水圧に耐えられる代物じゃない。
ガンツが、歯を噛みしめて唸る。
ガンツ「監督……これは、魔法じゃ無理だ。」
悔しさと怒りが、声に滲んでいた。
自分たちが信じてきた“魔法建築”の限界を、突きつけられた瞬間だった。
サトウは黙って、断面図を見つめ続ける。
水圧は、正直だ。
嘘をついた分だけ、
手を抜いた分だけ、
確実に、容赦なく押し返してくる。
このダムは、長い時間をかけて“請求書”を溜め込み――
そして今、その支払い期限を迎えようとしていた。
サトウは、はっきりと頷いた。
サトウ「ええ。だから――」
【異世界マテリアル・カタログ】。
【異世界マテリアル・カタログ】
薄暗いダムの上空で、紙のページが光を帯び、まるで魔法の本のように情報を浮かび上がらせる。
建材の名前、特性、硬化時間、耐圧、粘度……数百種類の素材が、リアルタイムで現場に“解答”を提示している。
サトウ「物理で、止めます。」
言い切ったその声には、魔法や奇跡に頼らない確信があった。
まず展開されたのは、水中硬化コンクリート。
袋が開き、粘度の高い灰色の塊が空中でゆっくりと形を成す。
触れると、どろり、と重い感触が手に伝わる。
サトウ「流し込みます。触手、貸してください!」
応じたのは、水棲魔族たち。
巨大な腕のような触手が、亀裂の奥へとゆっくりと伸びる。
膝まである水に潜り込み、先端でコンクリートをすくい、内部の空洞へ押し込む。
ぐちゅ……
水中でも分離せず、亀裂を埋めるコンクリート。
触手が動くたび、空洞が満たされ、灰色の塊が広がっていく。
その重さと粘度に、水棲魔族は顔をしかめた。
水棲魔族「……重い……だが……固まっていく……!」
塊は、まるで魔力の糸を引くように内部で絡まり、流れを押さえる支柱になる。
サトウ「いい!そのまま奥まで!」
噴き出していた水が、少しずつ勢いを失う。
壁面に沿って流れる白濁の波が、触手とコンクリートの支えで、目に見えて弱まった。
だが――まだ足りない。
サトウ「次!」
振り返り、声を張り上げる。
指示が飛ぶ。その声は、水飛沫と轟音の中でも確実に届く。
サトウ「ディアさん、ブルーシート展開!」
ディアドラ「了解!」
合図と同時に、巨大な耐圧ブルーシートが宙に広がった。
水圧に耐える特殊素材。
引き裂きに耐え、摩耗にも強い。
ただの布ではない。建築資材としての“面”としての圧倒的強度を持つ。
シートは、ダム壁面を丸ごと覆い尽くす。
水面を滑るように広がり、まるで巨大な生き物が壁に貼り付いたかのようだ。
サトウ「そこ!シワ伸ばして!」
魔族たちが必死に引っ張る。
押さえる手に力が入る。
壁面に沿わせ、噴き出す水流を逃さず、布を密着させる。
サトウ「水圧は“点”じゃなく“面”で受けるんです!」
物理の理屈を叫ぶ。
魔法ではなく、力学で抑える。
見た目には地味だが、効果は絶大だ。
水流が、シートの上を滑るように流れ始めた。
噴き出していた穴は、ほぼ塞がり――
止まった。
だが、油断はできない。
端部がまだ甘い。
ここを抜けられたら、応急処置は水の中に消えてしまう。
サトウ「テープ!」
取り出されたのは、防水ブチルテープ。
分厚く、粘着力の塊のようなそれを、シートの継ぎ目に叩き込む。
ベリィ……ギチッ……
貼り付いた瞬間、二度と剥がれる気配はない。
水の力に耐え、壁と一体化した。
ディアドラ「……これ……」
驚きの声が、噴き出す水の音にかき消されそうになる。
ディアドラ「伝説の封印札より、剥がれません……」
サトウ「当たり前です。封印札は“気合”で作る。」
一拍置いて。
サトウ「これは、“仕様”で作ってる。」
その言葉には、圧倒的な現実感と、揺るぎない自信が込められていた。
魔族たちが戦慄する中――
「邪悪な兵器を止めに来たぞ!」
やたらと通る声が、ダム上空に響いた。
振り向いた先。
仮設足場のさらに上、完成途中のダム頂上に――
白マント。
聖剣。
無駄に決めたポーズ。
――勇者レオが、誇らしげに立っていた。
その瞬間、現場の空気が一瞬凍る。
轟音と水飛沫の中、異質な“勇者オーラ”だけが、妙に目立った。
サトウ「そこ立ち入り禁止!!」
腹の底から絞り出すような叫び。
この声は、魔族の誰よりも遠くまで届いた。
サトウ「生コン養生中だって言ってんだろ!!」
現場の空気が、ピンと張り詰める。
赤白バリケード。
ロープ。
でかでかと書かれた【立入禁止】の札。
全部、無視。
勇者レオ「ふん!魔王の兵器など――」
胸を張り、踏み出す――その足が、まさかの生コンに沈む。
――ズブッ。
勇者レオ「ぬおっ!?」
聖剣を構えたまま、片足が膝下まで埋まった。
まだ固まりきっていない生コンクリート。
絶賛・養生中。
サトウ「……あ」
その場にいた全員が、同時に理解した。
――終わった。
勇者レオ「な、なんだこれは!?沼か!?」
足を引き抜こうとする――
――ずずず。
余計に沈む。
足元の灰色が、勇者の力を吸い込むかのようだ。
スケルトン作業員「足跡つけるなぁ!!」
即座に怒号が飛ぶ。
白骨の腕が、バシッと勇者の肩を掴んだ。
スケルトン作業員「今、表面仕上げの一番大事なとこだぞ!!」
勇者レオ「は、離せ!勇者だぞ私は!」
スケルトン作業員「知るか!!現場じゃ全員作業員だ!!」
別のスケルトンが、無言でコテを差し出す。
スケルトン作業員「ほら。ならした跡、直せ。」
勇者レオ「……え?」
無言で手に握らされたコテ。
逃げようにも足は抜けない。
聖剣を振れば、生コンが跳ね、周囲に被害が及ぶ。
完全に、詰み。
サトウ「……」
佐藤は深く息を吸った。
現場監督としての冷静な呼吸。
怒りと呆れと、使命感が混じった、長く低い吐息。
サトウ「レオ。」
勇者レオ「な、なんだ……」
サトウ「今から言うこと、よく聞いてください。」
静かな声。
だが、その声には絶対的な権威があった。
サトウ「そこ、一平方メートル」
指差す。
サトウ「あなたの責任範囲です。」
勇者レオ「……は?」
サトウ「左官、手伝ってもらいます。」
スケルトン作業員が無言で頷く。
スケルトン作業員「均し、水平。気泡残すな。」
勇者レオ「ちょ、ちょっと待て!私は敵を――」
サトウ「生コンは待ちません。」
一刀両断の宣言。
数分後――
勇者レオは、汗だくで前屈みになり、コテを滑らせていた。
灰色の液体を均し、わずかな凹凸も逃さずに埋める。
足を動かせばまた怒鳴られる。
聖剣は足元に封印され、武器としての威力は封じられた。
スケルトン作業員「そこ!コテ立てすぎ!」
勇者レオ「うわっ!?す、すまない!」
スケルトン作業員「謝る暇あったら均せ!!」
魔族たちは、遠巻きにその光景を見つめる。
「……勇者……」
「……左官してる……」
「……怒られてる……」
ディアドラがぽつりと呟いた。
ディアドラ「……現場に入った者の末路だな。」
ガンツ「監督、強ぇ……」
日が傾く頃、ようやく生コンは均され、表面は美しく仕上がった。
足を引き抜かれた勇者レオは、その場にへたり込む。
泥だらけ。
誇りもマントも、灰色に染まった。
勇者レオ「……なぜ……私は……」
佐藤はヘルメットを直しながら言った。
サトウ「現場は戦場じゃありません。」
一拍。
サトウ「仕事場です。」
その日、魔国では一つの教訓が広まった。
――立入禁止は、勇者にも適用される。
数時間後、応急止水を終えたダムは、低く唸りながらも水を受け止めていた。
濁流は制御され、下流へ穏やかに流れ出す。
ゼノン「……美しい。」
魔王ゼノンは言葉を失ったように、打ちっぱなしコンクリートの壁面を見上げていた。
装飾も紋章もない。
ただ無駄を削ぎ落とした直線と曲面。
だが――崩れないという信頼が、そこにはあった。
足元では、作業を終えた魔族たちがその場に座り込み、息をついている。
触手は垂れ、翼は畳まれ、誰もが泥だらけだ。
ディアドラも例外ではなかった。
鎧は汚れ、角の根元には生コンの粉。
威厳は、どこにもない。
サトウは無言でポータブルシャワーを展開。
ノズルから温水が噴き出し、ディアの肩にかかる。
ディアドラ「っ……!」
泥が流れ落ち、赤い鱗が少しずつ元の色を取り戻す。
ディアドラ「……ありがとう。」
小さな声。
ディアドラはシャワーの中でぽつりと言った。
ディアドラ「現場は……戦場より厳しいですね。」
サトウはホースを調整しながら答える。
サトウ「命がかかってますから。」
一拍。
サトウ「敵味方も、立場も関係ない。間違えれば、誰かが死ぬ。」
水音だけが響く。
ディアドラは、しばらく黙っていたが――やがて静かにうなずいた。
ディアドラ「……だから、あなたは怒るのだな。」
サトウ「ええ。」
サトウは、ダムの方を見た。
サトウ「守るために、怒ります。」
その夜。
城下町では、水が戻った井戸の前で魔族たちが列を作った。
誰も騒がず、誰も押さない。
ただ、静かに水を汲み、感謝する。
ダムの上では、勇者レオがまだ生コンの匂いを落とせずにいた。
スケルトン作業員「……均し、悪くなかった。」
勇者は、なぜか少し誇らしげに胸を張った。




