エルフの里の「黄金」問題:聖なる川に流してはいけません
朝の森は、静寂という言葉そのものだった。
白く淡い霧が地表を這い、巨大な古木の根元から枝葉の隙間へと、ゆっくりと流れていく。
朝露を含んだ葉がかすかに揺れ、光を受けて宝石のようにきらめいていた。
――神話に描かれる理想郷。
それが、エルフの里だった。
だが。
サトウは、その幻想の只中で、ふいに足を止めた。
鼻先が、ひくりと動く。
無意識のうちに、現場で何百回と繰り返してきた動作だった。
森の匂い。
湿った土。
苔。
樹液。
花粉。
――そして。
サトウ「……ん?この里、風向き変わると、なんか嫌な匂いしません?」
ぽつりと落とされた一言。
それだけで、空気が変わった。
先ほどまで優雅に微笑んでいたエルフたちが、まるで示し合わせたかのように視線を逸らす。
鳥のさえずりが、なぜか一瞬だけ途切れた気がした。
耳まで真っ赤に染めた若いエルフの乙女が、もじもじと指先を絡めながら、一歩前に出る。
乙女「……そ、それは……その……自然に……還しているだけでして……」
語尾が、露ほどの勇気もなく霧散した。
その瞬間だった。
サトウの顔から、ふっと笑みが消えた。
いつもの飄々とした表情ではない。
現場監督が、「致命的な欠陥」を見つけたときの顔だ。
サトウは霧の向こう、川の流れをじっと見据える。
サトウ「……えっ。それ、下流で飲み水にしてる人、確実に体壊しますよ。地下水脈も……もう限界です。これ、汚染寸前です。」
言い切りだった。
遠慮も、婉曲表現もない。
ただの、事実。
エルフたち「ぎゃああああっ!?」
森の静寂を引き裂くような悲鳴が、四方八方にこだました。
枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、霧が揺れ動く。
長老格のエルフが青ざめ、若者たちは耳を押さえ、乙女は今にも泣き出しそうな顔で川を見つめた。
――聖なる森。
――清らかな水。
――永遠の自然循環。
その神話が、音を立てて崩れていく。
その横で。
ガンツが額に乗せていた溶接ゴーグルをぐいっと押し上げ、一歩前に出た。
重たいブーツが、湿った土を踏みしめる。
ガンツ「監督ゥ!樹上生活で土掘れねぇのは厄介ですがよ、魔導パイプ通しゃ何とかなりやすぜ!……ま、問題は“葉っぱが正義”の長老連が首を縦に振るか、ですがな。」
肩をすくめつつも、その目は真剣だった。
職人として、「解決策」が見えている目だ。
ディアドラは腕を組み、金色の瞳で森全体を鋭く見渡していた。
霧の奥、見えない場所に潜む“敵”を見据えるかのように。
ディアドラ「……くっ……聖なる森に便座を据えるなど……恥ずかしながら、戦場に等しい覚悟が要ります……」
一瞬、歯を食いしばる。
ディアドラ「……ですが……サトウの判断なら、私が前線を死守します。」
それは、剣を取る宣言と同じ重さだった。
サトウは、その言葉に一瞬きょとんと目を瞬かせ――
次の瞬間、いつもの“現場の笑み”を浮かべた。
サトウ「大丈夫です。ちゃんと“森を壊さない解決策”がありますから。」
霧の中で、その声は不思議とよく通った。
サトウ「むしろ……この里、もっと快適になりますよ。誰も川に罪悪感を流さなくて済むし、森も、水も、守れる。」
エルフたちは、互いの顔を見合わせる。
恐怖と戸惑い、そして――わずかな希望。
朝霧の奥で、聖なる川は何も知らぬ顔で流れ続けていた。
だがこの日、
エルフの里は初めて知ることになる。
「文明的トイレ」という名の、最大の文化衝撃を。
サトウが軽く手を上げる。
その仕草ひとつで、現場が動いた。
サトウ「じゃ、いきましょう。樹皮は傷つけないように。固定は枝間テンション、振動吸収忘れずに。」
魔王軍の職人たちが一斉に動き出す。
細身で銀色に光る管が、まるで蔓植物のように、枝と枝の間へと張り巡らされていった。
釘は使わない。
樹皮も削らない。
重力と空気圧、そして魔導制御だけで成立する――
――真空式汚物収集システム。
シュウウウウウ……。
低く、しかし確かな音が森に溶ける。
空気の流れが生まれ、里のあちこちから排泄物が一箇所へと集約されていく。
川は、汚れない。
土も、染まらない。
さらに。
根元の広場に設置されたのは、木目調の外装を施した小さな建屋だった。
中身は――
――コンポスト型・バイオトイレ。
内部では、魔法微生物が静かに目覚め、ゆっくりと活動を始める。
腐敗は起きない。
悪臭は生まれない。
残るのは、雨上がりの森と同じ、柔らかな土の匂いだけだった。
子供たちが、我慢できずに駆け寄る。
目を輝かせ、身を乗り出して覗き込んだ。
子供「すごい……!壊してないのに、森がきれいになってる……魔法みたい!」
子供「川、くさいって言わなくなった……!」
乙女たちも、恐る恐る鼻を鳴らし、驚いたように顔を見合わせる。
だが。
その様子を、遠巻きに見つめる影があった。
腕を組み、眉をひそめたまま、一歩も動かない存在――
エルフの長老たちである。
長老「……我らは葉を信じてきた……」
長老「自然は、すべてを受け入れ、還す……異物は認めぬ……」
その声には、長い年月が染みついていた。
誇りと、信仰と、変化への恐れ。
サトウは、その言葉を遮らなかった。
ため息もつかず、ただ穏やかに頷く。
サトウ「分かりました。」
そして、にこやかに続ける。
サトウ「じゃあ――これ、試してみてください。」
サトウが【異世界マテリアル・カタログ】を開くと、淡い光が広場を包んだ。
現れたのは――
森の景観を壊さない木調デザイン。
完全個室。
断熱・防音・防臭完備。
最新型・温水洗浄便座付きオールインワン個室。
長老「な……なにを……」
疑心暗鬼のまま、長老は仲間に押されるように中へ入る。
軋みはない。
冷たさもない。
恐る恐る、腰を下ろした――その瞬間。
ピュッ……ピチャッ。
長老「……!?」
背筋が、ぴんと伸びた。
長老「こ、これは……!?」
目を見開いたまま、微動だにしない。
長老「……聖なる水が……狙い澄ましたように……!」
声が、震えていた。
羞恥ではない。
感動だ。
長老「これこそ……真の浄化……!」
ゆっくりと、深く息を吸う。
長老「葉よりも……清い……!」
沈黙。
次の瞬間。
乙女「えええええええ!?」
子供「長老!?今なんて!?」
他の長老「な、なにを言っておる!?」
個室の扉が、静かに開く。
そこに立っていたのは、
どこか悟りを開いたような顔の長老だった。
長老「……我らは……長きにわたり……間違っていた……」
サトウは、腕を組まず、威張らず、ただ静かに頷く。
サトウ「自然を守るって、我慢することじゃないですから。」
サトウ「ちゃんと、仕組みを整えることです。」
朝霧の森に、
新しい価値観が、そっと根を張った瞬間だった。
その日を境に。
エルフの里には、これまで見たことのない光景が生まれた。
朝霧の中、静かに並ぶ――
いや、静かに並ぼうとして失敗している長蛇の列である。
老若男女、身分の差も誇りも関係ない。
目的はただひとつ。
――「ウォシュレットの聖水」。
乙女たちは頬を赤らめながら順番を待ち、
子供たちは「もう一回!」と無邪気に騒ぎ、
昨日まで腕を組んでいた長老たちですら、目を逸らしつつ列に加わっていた。
回収された排泄物は、
真空管を通じて一箇所へ集められ、
魔法微生物によるバイオ処理を経て、完全に無害化される。
臭いは、ない。
不快感も、ない。
残るのは、命を育てる力だけ。
それはやがて、
世界樹の苗木のための最高級肥料へと姿を変えた。
柔らかな土に混ぜられたそれを、苗木が静かに吸い上げる。
葉は瑞々しく輝き、幹は確かな強さを宿し始めていた。
少し離れた場所で、
ガンツが腕を組み、誇らしげにその光景を眺めていた。
ガンツ「監督ゥ!このスケルトン・パイプなら詰まりも即分かる!」
透明な管を、指でこんこんと叩く。
ガンツ「景観も壊さねぇし、換気にアロマ仕込んだら森全体が瞑想空間ですぜ!……完璧だ!」
森を吹き抜ける風が、ほのかに木と土の香りを運ぶ。
確かにそこには、かつて存在したはずの「不快な匂い」は、もうなかった。
乙女が、胸の前で手を組み、目を潤ませて呟く。
乙女「これで……森も、私たちの暮らしも……守られました……!」
誰かが、深く頷く。
誰かが、安堵の息を吐く。
里は、変わった。
臭いも、不安も、罪悪感も、
すべてが、霧とともに消えていく。
残ったのは、
清浄で、快適で、そして誇りを失わない生活空間。
サトウは少し離れた場所で、その様子を静かに見守っていた。
胸を張ることも、声を上げることもない。
ただ一言。
サトウ「……現場、収まりましたね。」
朝の光が、世界樹の苗木を照らす。
――こうしてエルフの里は、
「聖なる森」と「文明的快適さ」を両立させた、最初の地となった。
その帰り道。
朝霧はすっかり晴れ、森は柔らかな午後の光に包まれていた。
枝葉の隙間から差し込む陽光が、足元の苔を淡く照らし、風が静かに葉を揺らす。
整えられた里を背に、一行は森の小径を歩いていた。
そのとき。
ディアドラが、ほんの少しだけ歩調を落とし、
周囲に聞こえぬよう、声を落としてサトウに近づく。
ディアドラ「……あの……」
一瞬、言葉が途切れる。
普段、戦場で剣を振るう彼女とは思えないほど、ぎこちない仕草だった。
ディアドラ「……私の部屋にも……例の……“ピピッと水が出るやつ”を……設置していただけますか……?」
耳まで赤く染まり、視線は足元の地面へ。
それでも、勇気を振り絞った問いだった。
サトウは、迷わなかった。
サトウ「もちろんです。魔王城の個室、全部標準装備にします。」
あまりにも即答。
あまりにも自然。
ディアドラは、一瞬、きょとんとした顔をして――
次の瞬間、ぱっと頬を染めた。
無意識のうちに、手に持っていた釘をぎゅっと握りしめる。
金属が、きしりと鳴った。
ディアドラ「……ふっ……」
小さく、しかし確かな笑み。
ディアドラ「聖なる戦場に便座を守る……これぞ、私の新たな使命……!」
その言葉に、サトウは思わず苦笑する。
サトウ「命懸けで守るもの、増えましたね。」
ディアドラ「……はい。ですが……不思議と、誇らしいです。」
森を抜ける風が、二人の間をすり抜ける。
どこか清涼で、澄んだ空気だった。
かつて漂っていた不安も、匂いも、もうない。
森に、新たな清浄の風が吹き込んだ――
こうしてエルフの里は、
体も、心も、
そしてトイレも、
美しくなったのだった。




