魔王城、雨漏りにつき
雨が嫌いだ。
正確に言えば、打設直前に降る雨が、心の底から嫌いだった。
空気に混じる湿った土の匂い。風に運ばれてくる、アスファルトを叩く微かな水音。そのすべてが、佐藤健の神経を逆なでする。
コンクリートは生き物だ。
水分量、気温、練り時間、そして養生――そのどれか一つでも狂えば、完成後に必ず牙を剥く。ひび割れ、剥離、沈下。目に見えない不具合は、数年後に致命傷となって現れる。
だからこそ、佐藤は現場を走り回っていた。
胸ポケットから取り出したスマートフォンには、雨雲レーダーが映し出されている。赤や紫に染まった不穏な雲が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくるのが分かった。
額を伝う汗が、ヘルメットの縁から頬へ落ちる。
それが汗なのか、空から落ちてきた最初の雨粒なのか、もはや判別はつかない。
サトウ「ポンプ!ポンプ回せ!」
佐藤の声が、重機の唸りに負けじと響く。
サトウ「シートもう一枚だ!風で煽られるぞ!」
作業員たちが慌ただしく動き回る。
クレーンが軋み、発電機が低く唸り、コンクリートミキサー車が不満そうに回転を続ける。
サトウ「……クソ、あと三時間で流さなきゃ、全部やり直しだぞ!」
怒号と機械音が入り混じる、いつもの建設現場。
白いヘルメットの内側で、佐藤は奥歯を強く噛みしめた。
安全も、品質も、納期も。
どれか一つを切り捨てるくらいなら、現場監督なんてやっていない。
足元を確認しながら走り出した、その瞬間だった。
露出した鉄筋に靴先が引っかかり、身体が大きく前のめりになる。
サトウ「――っ!」
転倒を覚悟した、その刹那。
地面が、光った。
コンクリートの打設予定地、その中心に――見覚えのない幾何学模様が、ゆっくりと浮かび上がってきたのだ。
円と三角、複雑に絡み合う線。まるで設計図をそのまま魔法陣にしたような、異様な文様。
サトウ「……は?」
思考が追いつかない。
これは誰の悪ふざけだ?それとも、疲労による幻覚か?
だが、次の瞬間。
視界が、白に焼き潰された。
強烈な光。
身体を引き裂くような衝撃。
重力が消えたかのような、上下の分からない浮遊感。
サトウ「なっ――!?」
叫ぶ間もなく、世界が裏返る。
耳鳴りだけが、やけに鮮明だった。
そして――
佐藤健の視界は、強制的に切り替わった。
どんっ。
鈍く、腹の底に響くような音を立てて、佐藤健の身体は硬い床に放り出された。
受け身を取る暇もなく、背中から叩きつけられる衝撃。肺の空気が一気に押し出され、視界が一瞬だけ白く弾ける。
サトウ「っ……痛てぇ……。」
思わず漏れた声は、やけに広い空間に反響して、情けなく伸びた。
床は冷たい。アスファルトでも土でもない、無機質な硬さ。まるで何年も人の温もりを拒み続けてきたかのような感触だった。
佐藤は顔をしかめながら、反射的に身を起こす。
両手で床を押し、痛む腰を庇いつつ、周囲を見回した。
――広い。
いや、無駄に広い。
天井は異様なほど高く、視線を上げると首が痛くなるほどだ。黒紫色の尖塔がいくつも天に突き刺さるように伸び、構造的な意味を一切感じさせない。
壁には棘や骸骨を模した禍々しい装飾がこれでもかと施され、統一感という概念が置き去りにされている。
サトウ(意匠が死んでる……いや、それ以前の問題だろ)
床は一面、冷え切った石材。
だが目地は不揃いで、歩けば確実につまずく。排水勾配も怪しい。湿気が溜まり、空気は重く淀んでいた。
サトウ(換気計画どうなってんだ……?これ、長時間滞在したら普通に体調崩すぞ)
鼻の奥に、鉄と埃と、何か腐ったような匂いが絡みつく。
思わず顔をしかめた、その時だった。
正面。
視線の先に、二つの存在があった。
一人は、剣を構えた若い男。
煌びやかな鎧に身を包み、刃は淡く光を放っている。年の頃は二十前後だろうか。真っ直ぐな瞳と、やたらと気合の入った立ち姿。
そして、その背後。
玉座にどっしりと腰を下ろす、巨大な影。
角。マント。異様に誇張された肩幅。
誰がどう見ても――魔王だ。
魔王「……勇者よ……よく来たな……。」
低く、重々しい声。
間の取り方が妙に芝居がかっていて、無駄にエコーがかかっている。
勇者「魔王ッ!今日こそ貴様を討つ!」
若い男――勇者が、剣を掲げて叫ぶ。
剣身が光を放ち、空気が震えたような錯覚すら覚える。
魔王は立ち上がり、マントを大仰に翻した。
布が風を切る音が、やたらとよく響く。どうやら音響効果だけは無駄に優秀らしい。
芝居がかった台詞。
様式美としか言いようのない構図。
――だが、佐藤の視線は、勇者にも魔王にも向かなかった。
彼が見ていたのは、天井だった。
異様に高く、やたらと装飾ばかりが主張する天井。
その装飾の隙間に走る、わずかな影。
継ぎ目。
石材の合わせ。
色の違う充填材。
(……これ、仕上げ雑じゃねぇか?)
胸の奥で、嫌な感覚がざわつく。
長年、危ない現場を見てきた人間だけが持つ、説明不能な違和感。
――ぽたり。
音は小さい。
だが、広すぎる空間のせいで、やけに鮮明に響いた。
一滴の水が、冷たい石床に落ちる。
弾けるような音。乾いた反響。
サトウ「…………。」
佐藤は、その雫から目を離さなかった。
目で追い、耳で聞き、感覚で確かめる。
(音が……違う)
地下から染み出す水じゃない。
床下配管でもない。
(上だ。天井から落ちてきてる)
次の瞬間。
白いヘルメットの内側で、現場監督としての警鐘が一斉に鳴り響いた。
嫌な予感ではない。
「もう起きている事故」を見つけた感覚だった。
サトウ「――おい」
低く、通る声。
怒鳴らずとも、自然と人の動きを止める声音。
サトウ「この建物、雨漏りしてるぞ。」
空気が、一瞬で冷えた。
勇者「なに――」
勇者が振り向くより早く、佐藤は立ち上がり、迷いなく天井を指差す。
サトウ「ほら、あそこ。」
尖塔の付け根。
装飾に紛れた、わずかにズレた石材の継ぎ目。
サトウ「目地の処理が甘い。中まで水、回ってる。」
床に落ちた水滴を、靴先で示す。
サトウ「中で何焚いてるか知らんが、あんな熱源入れたら余計にダメだ。」
仕組みは分からない。
だが結果は、嫌というほど知っている。
サトウ「温度差できたら、水分は必ず内側に回る。結露して、見えないところから腐る。」
淡々とした口調。
現場で事故を止めるときと、まったく同じ声。
サトウ「そのまま使い続けたら、いずれ梁が持たなくなる。」
沈黙。
勇者は剣を構えたまま、言葉を失っていた。
魔王もまた、玉座の前で固まり、何か反論しようとして口を開き――閉じた。
魔王「……は?」
間の抜けた一言が、だだっ広い玉座の間に響く。
さきほどまで張り詰めていた勇者と魔王の決戦の空気は、完全に消え失せていた。
その張りつめた沈黙を破ったのは、佐藤自身だった。
サトウ「っていうかさ、今から必殺技とかやめてくれ。」
剣を構えた勇者と、玉座の魔王が同時にこちらを見る。
サトウ「こっちは今、構造計算してる最中なんだ。」
勇者「な、なにを――」
勇者が困惑したまま、反射的に剣を振り上げた、その瞬間だった。
サトウ「――危ねえっつってんだろ!」
叫ぶと同時に、佐藤は前に飛び出した。
ヘルメットを被った頭を前に突き出し、全体重を乗せて――
ドンッ。
鈍い衝撃音。
勇者の腹部に、白いヘルメットがめり込む。
勇者「ぐっ――!?」
勇者は大きくよろけ、剣先が床を削って火花を散らした。
勇者「お、おいお前!戦闘中だぞ!」
サトウ「戦闘以前の問題だ!」
佐藤は息を荒げながら、床を踏み鳴らす。
サトウ「ここ、床下シロアリ食ってる!揺らすな!」
次の瞬間だった。
佐藤の視界が、わずかに歪む。
現実に、何かが重なったような感覚。
――世界に、線が走った。
柱の輪郭。
床下の構造。
壁の内側。
それらすべてが、半透明の赤いラインとして浮かび上がる。
文字情報が、勝手に脳裏に流れ込んできた。
【建築聖眼】
サトウ「……なんだこれ。」
仕組みは分からない。
魔法かどうかも知らない。
だが――見えてしまう。
柱の歪み。
床下で進行する腐食。
用途不明の管から滲み出る、正体不明の漏れ。
(……欠陥のオンパレードじゃねえか)
サトウ「……梁、完全に腐ってる。」
佐藤は赤いラインを追いながら、淡々と告げる。
サトウ「床、空洞だらけ。この玉座――地震来たら一発で倒壊するぞ。」
勇者が絶句する。
魔王の肩が、わずかに揺れた。
サトウ「よくこんな欠陥住宅で、最終決戦とかやろうと思ったな。」
魔王「き、貴様……!」
魔王が怒号を上げかけ――
だが、その声は途中で止まった。
佐藤が、玉座を指差したまま、何気ない調子で言ったからだ。
サトウ「……腰、痛いでしょ?」
魔王「――――っ!?」
魔王の顔が、目に見えて引きつる。
魔王「と、トゲ……刺さるのだ……!長時間座ると……!」
思わず漏れた本音。
勇者が、ゆっくりと魔王を見る。
サトウ「ほらな。」
佐藤は深くため息をついた。
サトウ「人間工学ゼロ。座面角度最悪。クッション性皆無。」
玉座を見上げ、首を横に振る。
サトウ「威厳以前に、体壊す設計だぞ、これ。」
玉座の間に、再び沈黙が落ちた。
――その瞬間だった。
ディアドラ「我が主を侮辱するなァァァ!」
裂帛の気合とともに、赤い影が前に躍り出た。
赤髪の女騎士。
漆黒の角が額から伸び、金色の瞳が鋭く光る。
全身を覆う重装鎧は威圧感に満ち、その剣閃は一直線に佐藤健を捉えていた。
空気が切り裂かれる。
殺意に迷いはない。
魔王「――ディアドラ!」
制止の声は、半拍遅れた。
だが――
佐藤は、逃げなかった。
腰袋に手を伸ばし、慣れた動作で小さな棒状の機械を取り出す。
現場で何度も使ってきた、ただの測定器具。
ピッ。
乾いた電子音とともに、赤い細線が空間に走る。
サトウ「……ちょっと待て」
低く、落ち着いた声。
ディアドラ「なに――」
女騎士の動きが、ほんの一瞬、止まった。
殺気が消えたわけではない。だが、剣先がわずかに揺れる。
佐藤は、床を指差した。
サトウ「君、真っ直ぐ立ってるつもりだろ?」
赤い線が、床をなぞる。
その線は、明確な傾きを示していた。
サトウ「この床、三度傾いてる。」
淡々とした指摘。
戦場には似つかわしくない、現場の口調。
サトウ「それが原因で、重心がズレてる。構えが歪むのは、技量の問題じゃない。」
ディアドラ「……な……。」
女騎士の喉から、かすれた声が漏れる。
佐藤はさらに、彼女の鎧へと視線を移した。
サトウ「あと、その鎧のトゲ。」
廊下の壁に残る、無数の擦り傷を顎で示す。
サトウ「完全に内装、削ってる。修繕費――請求するよ?」
冗談めいた言い方。
だが、内容は極めて現実的だった。
剣先が、ゆっくりと下がる。
女騎士――ディアドラは、言葉を失っていた。
これまで感じていた、戦いにくさ。
踏み込みの違和感。
いつも、ほんのわずかにズレる間合い。
それらすべてを、彼女は自分の未熟さだと思っていた。
だが今、それが――
建物の欠陥だと言われた。
初めての、指摘だった。
ディアドラ「……私が……悪いのでは……?」
金色の瞳が揺れる。
困惑と動揺が、隠しきれない。
佐藤は、赤い線を消し、測定器を腰袋に戻した。
サトウ「違う。」
即答だった。
サトウ「君はちゃんと立ってる。ちゃんと構えてる。」
床を、天井を、壁を見回す。
サトウ「悪いのは、ここだ。人が動く前提で作られてない。」
その言葉は、
騎士の誇りを否定するものではなく――
守るための断言だった。
ディアドラは、しばらく黙ったまま、足元を見つめていた。
剣を握る手が、わずかに震えている。
そして――
彼女は、ゆっくりと剣を下ろした。
――そこへ。
勇者「ふざけるなァァァ!」
怒号とともに、勇者が聖剣を振り上げた。
剣身が強い光を放ち、玉座の間の空気が一気に張り詰める。
殺意。
もはや理屈も、空気も、何も聞く気はない。
佐藤は、短く舌打ちした。
サトウ「チッ……。」
次の瞬間。
彼の目の前、何もない空間に――光の画面が開いた。
半透明の板。
文字と図面が、勝手に流れていく。
【異世界マテリアル・カタログ】
サトウ「……なんだこれ。」
一瞬だけ眉をひそめる。
だが、表示されている内容は――見覚えがありすぎた。
サトウ「工事用伸縮ポール……防炎シート……っと。」
指を動かすと、項目が切り替わる。
理屈は分からない。
だが、「使える」と直感した。
次の瞬間。
勇者の進路上に、簡易バリケードが展開された。
伸縮ポールが瞬時に組み上がり、防炎シートが張られる。
即席だが、力の逃げ場を計算した、完全に“現場仕様”の構造。
勇者「なっ――」
聖剣が振り下ろされる前に、勢いが殺される。
その隙を、佐藤は見逃さなかった。
視界の端。
床下に、赤い表示が浮かび上がる。
(……ここだ)
腐食率。
空洞。
荷重限界。
佐藤は、腰に下げていた棒――測定用の杖で、床を強く叩いた。
バキリ。
嫌な音が、はっきりと響いた。
勇者「うわあああああっ!?」
勇者の足元が、抜ける。
腐りきった床板が耐えきれず、崩落したのだ。
悲鳴とともに、勇者の姿が――下へと消える。
その先は。
――スライムが蠢く、
――排水も換気も死んでいる、
――衛生状態最悪の厨房。
湿った音と、遠ざかる叫び声。
やがて、静寂。
玉座の間に残ったのは、
呆然と立ち尽くす魔王とディアドラ、
そして、ヘルメット姿の佐藤だけだった。
サトウ「……。」
佐藤は、崩れた床を一瞥し、深くため息をつく。
サトウ「だから言っただろ。揺らすなって。」
沈黙の中――
魔王が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
そして。
重々しい音を立てて、頭を下げた。
魔王「……頼む。」
そこに、威厳はなかった。
虚勢も、魔王らしい傲慢さもない。
魔王「我が城を……世界一、快適な要塞に作り変えてくれ……。」
切実な声だった。
佐藤は、数秒だけ黙り込んだあと、ヘルメットを直す。
現場に立つときの、いつもの仕草。
サトウ「……条件があります。」
真顔で、はっきりと言う。
サトウ「納期と予算。必ず守ってもらいますよ。」
魔王「う、うむ……!」
即答だった。
こうして。
勇者不在。
欠陥だらけの魔王城。
異世界に召喚された、一級建築士。
魔王軍直営・凸凹工務店は――
この瞬間、正式に誕生した。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「続きが気になる」「面白い」と思っていただけましたら、評価欄からポイントを入れて応援いただけると、執筆の大きな励みになります。 感想やブクマも心よりお待ちしております!




