山岡秀治
(元)恋人の山岡秀治に捨てられた日。中野坂上で暴漢達に襲撃された日。
リサにとってその一日は大きな意味を持ちすぎた。
この日以来、リサの日常が戻らないのは想像に容易い。
学校に戻れば日常に戻れると思っていたのは、甘い考えだった。
例えば通学時間の駅のホーム、電車を待っている時間でも、電車から降りてきた人間がまた自分に危害を加えないか気が気ではなかった。
そしてそれを相談できる相手もいない。
おそらく、誰もが銃を持っている。電車に乗る人間も、自分が相談する相手だって。
講義を受けても、友人や家族と会話をしても、自分の耳に聞こえてくるそれは、記憶の中で意味をなさない記号的なものになってしまっていた。
多分、自分の人生に価値がないと思ってしまっているのだろう。
それはおそらく一過性の感情で、そんな長い間続くとも思えないのだが、一過性を過ぎるには何か、きっかけが必要だと感じていた。
そして、何度も忘れようとした恋人……元恋人の事を思い出した。
山岡秀治。
リサより5つ年上の男性で、リサが大学に入学した年に出会った。
頼りないし、嘘はつくし、だらしない。
だけど彼から感じたのは本当の愛だった。
……
……別れた今、それは本当の愛では無かった事がわかってしまったのだが、この喪失感こそが答えだったのだろう。
良性の依存でも、悪性のそれでも、依存なのには変わりないのだ。
ここ数日、何回秀治に返ってこないメールを送っただろう。
でないとわかっていて電話をかけただろう。
リサは、すでに去った秀治の面影を探して抜け殻になる日々を送っていた。
戻ってくる見込みもない人間に、もう一度会えたところでそこになんの生産性があるだろう。
しかし、会わないことには前に進めないと、自分の心に楔を打ってしまっていた。
そして何度目かの寝れない夜に、リサは思い出したくもない記憶の一片を思い出してしまった。
「お前、山岡の女か」
中野坂上で襲撃された時に、男たちに言われた言葉だ。
少なくとも、この時点でリサはまだ、『山岡の女』だったことになる。
そして、秀治と連絡がつかなくなった日にあんなことがあったのは、
どうにも偶然には思えないのだった。
* * * * *
そして気がついたらまた新宿にいた。
あんなに怖くて嫌な思いをしたのにまた来てしまった。
なんでこんなことをするのか、自分でも理解ができない。
もう二度と近づいてはいけない、と思えば思うほどその場所に引き寄せられてしまうものなのかもしれない。
夜に行くのは流石に馬鹿な女すぎる。
だから明るいうちに、比較的人が多い場所を選ぶことにした。
……そういえば昔こんな歌があった気がする。
いないとわかっていても、街のあちこちを体が探してしまうのだ。
そして案の定見つからず、貴重な時間が無駄に過ぎてしまう。
ああ、何をやってるんだ私は、と、人混みの中で泣いてしまいそうになった時である。
後ろから、軽く頭を小突かれた。
驚いて振り返ると、一度見たらなかなか忘れられない、まん丸い少女が立っていた。
「オマエ、ここで何してるアルか」
「あ……」
確か、『角屋』の前にいた女の子だ。新宿に来ると、必ずこの子に怒られる。
「また怖い目に会いに来たか。心死んどるのか!!」
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなくて……」
「じゃあなんでくるか!」
他人事なのに、とんでもない剣幕だ。 お母さんにもこんなに怒鳴られたことないかもしれない。
周囲の視線が痛い。
「さっさと帰るアル! ここには、オマエの探してるものなんか何も『ないアル』!」
「……『アル』の『ない』の?」
「フザっけんな!!」
そこそこいいローキックを食らった。
結局探していたものとは違ったけれど、なんとなく満足したので、
この子の言う通り退散することにした。
京王線のホームは、この時間にしては妙に混んでいた。
飛田給でサッカーの試合でもあるのだろうか?
そんなことを考えて、やってきた高尾山口行きの電車に乗ろうとした時である。
自分の周りの一角だけ、乗車口のドアが開いているのに人間が動かない。
不思議に思い、目の前の人たちの隙間を縫って乗車しようとした時に……
ようやく気がついた……。
この人たちは自分を電車に乗せる気はないのだと。