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菅原正人が死んだ日

 新宿薔薇戦争。その言葉から連想されるエピソードは人の数ほどある。

 彼、菅原正人にとっての薔薇戦争は、それまでの人生を強制終了するものだった。

 

 それまでの彼は、病弱な双子の弟を母親に代わって面倒を見ながら大人になった。しかし、

弟も母親も、子供の頃いなくなった父親も、恨みもしなければ足枷だと感じたこともなかった。

 優しかったからだけではない。強かったのだ。

 家事全般を一人でこなし、弟を病院や学校に送り迎えしながらでも、近所の教会と道場に通い詰めた彼は躰道の世界チャンピオンになっていた。

 逆境と信仰が彼を強くし、階級がない過酷な躰道という競技の覇者となったのだ。無論、彼は自身の環境を『逆境』などと感じたことはなかった。


 曲がったことが嫌いで、やや気が短いというハンデはあったが、当時アナウンサーとして活躍していた山下愛莉……後に自分の婚約者となる女性との出会いは、

彼を一層強くした。

 大会二連覇。異種格闘技にも挑戦し様々な出会いの中で、彼は『最強』というものの輪郭を無造作になぞっていた。

 『試合』と付くもので、彼に土をつけるものは現れなかった。


 ……その日は突然やってきた。

 正人は婚約者と、自力で立てず車椅子生活を送っている弟、そして自分の母と四人で家族旅行に行こうと、車で首都高に乗るために新宿駅にきた時だった。

 運転中、お手洗いに行きたくなった正人は、新宿駅のトイレを借りようと家族を残した車を駅周辺に停めたのだ。 


 そして、唐突に『戦争』に巻き込まれた。

 

 戦争だった。銃乱射事件なんてものは見たことはないが、テロリストは訓練を受けている軍人で、作戦を持っていた。

 人々の断末魔の叫び、聞いたこともない『銃声』なるもの、それを正人はトイレの個室で聞いた。

 個室で一人、声を殺して震えていた。

 ……と、誰かの足音が響いてきた。どうやら女性だ。男子トイレに逃げ込んできたのだろう。


「開けてください!! 助けてください!!」


 閉じている個室にノックしている。正人は、鍵を開けることができなかった。そして……


「誰かくる!! 助けて!! 開け……いやああ!!!」


 次の瞬間、銃声が聞こえた。個室にも銃弾が打ち込まれている。

 正人は思わず息を殺して身を小さくして、じっと堪えた。

 ……隣の個室から……血液が流れ込んできた。

 正人は目を閉じて悲鳴を押し殺した。

 

「ファーザー!! ……ファーザー! お救いください!! 」


 最強の男がこの状況下でできたことは、震えながら胸元の十字架に口づけをすることだけだった。

 男の願いを、神は沈黙と試練で返した。


 そして悲劇がやってきた。


 なんとか車まで戻ってきた正人は、家族たちを探した。が、車の外からは何も見えない。

 ……ただ、車には夥しい弾痕が見えた……。


 車の中で隠れていた、母親は、弟は、婚約者は、全て頭を撃ち抜かれていた。

 なぜそんなことをするのか、わざわざ引っ張り出されて撃たれたのだ。

 正人は動かなくなった婚約者を抱きしめ、何もなくなった空を眺めた。


『菅原正人』という名前の男が消滅した瞬間である。

 残されたのは復讐心と、冷めるどころか強くなった信仰である。


 虚空の象徴、『白』

 あの日の空の色と一緒だ。

 己の内も外も、白で塗りつぶした彼を、いまさら神は、『ある意外な形』で救済の手を差し伸べた。

 ……復讐のために悪魔と契約をする機会を与えたのである。


 * * * * *


  埃の匂いが鼻を刺す。 台湾食品工場の中は、何ヶ月も人の気配がなかった。赤いH鋼が蜘蛛の巣のように頭上に張り巡らされ、ベルトコンベアや搬送レーン、冷却装置らしき筐体が雑然と並ぶ。電源は落ちており、すべての機械が不気味な静けさの中で眠っていた。 照明はなく、光は天井の破れたスレート屋根から、まばらに射し込む灰色の日光だけ。 


「お前は……通せん。悪いの」

 孫はそう告げ、音もなく床に降り立った。 小柄な体躯。短い手足。しかし、姿勢に一切の無駄がなかった。足元の埃が、周囲の空気が、彼の存在を避けるように沈黙していた。

 兎的は、無感情に笑っていた。 次の瞬間、兎的が動いた。機械の間を縫うように一気に接近し。孫に向けて大振りの拳を振り下ろす。

 ガッ――ン!

 手応えがなかった。 拳が、孫の頭蓋をとらえたにも関わらず、孫は微動だにせず、むしろ兎的の拳が弾かれていた。 返す刀のように、孫の掌が兎的の胸を軽く押した――ただ、それだけで兎的の体が吹き飛んだ。 後方の金属ラックに激突し、鉄製のトレイが派手な音を立てて飛び散った。

「お前の動き……重いのう。まるで、夢の中の動きじゃ」

 孫は首をわずかに傾けながら、靴裏で埃を巻き上げる。 兎的は崩れた棚の中から立ち上がった。 肩が脱臼していた。肋骨が四、五本、潰れていた。だが、彼は――笑っていた。

 筋肉が蠢き、骨が音を立てて再生する。

「夢の中じゃ、死ねないじゃないか」

「なるほどな」

 孫の輪郭が滲んだ――そう錯覚した直後、兎的の視界が跳ねた。 背後を取られていた。意識が追いつくより先に、膝の裏を正確に蹴られ、視線が床に吸い込まれる。

 ――だが、受け身を取らずに地面に突っ込んだのは、わざとだ。

 兎的は体ごと前転し、下から回し蹴りを放つ。孫の腰を狙った……が。

「甘いの」

 蹴り足を掴まれた。 そのまま、工場の柱へと叩きつけられた。

 ドンッッ!!

 鉄骨が歪んだ音がした。 兎的の背骨が砕ける音と同時だった。

「やっぱりじゃ」

 孫は跳ねるように飛び退き、間合いを詰めさせない。

「見様見真似の喧嘩……それでようやっと、喧嘩の入り口じゃ」

 兎的は、床に突っ伏したまま、嗤うように息を吐いた。 折れた肋骨が肺を貫いているはずなのに、笑っていた。

 ズルッ……と立ち上がる。血に濡れた床が、再生の証を刻んでいる。 孫は、眉一つ動かさずその様子を見ていた。

 再び、兎的が突っ込む。 拳を振る。蹴りを出す。物理法則を無視した肉体のリジェネレーションを使って、常人では不可能なリスクを冒してくる。 一撃一撃が命を削る前提で放たれる、「死なないからこそ使える技」。

 ――だが。

 そのすべてが、孫には当たらなかった。 鋼鉄のような皮膚を貫くどころか、触れることすらできない。 まるで“技”の意味が逆転しているかのようだった。 技術がある側が、痛みを負わせず。 技術がない側が、自分の肉体を潰して殴る。

 兎的は――理解した。

(……こいつは、“僕の逆”か)

 傷つかない肉体と、練り上げられた術理。 対する自分は、死ねない肉体と、無秩序な闘争心。

 勝てない。

 このままでは、どう足掻いても勝てない。

 だが、兎的は下がらなかった。腕の感覚も、足の感覚をも失っても、むしろ一歩、さらに前へ。

「しつこいのう」

 孫が跳び上がった。鉄骨から鉄骨へと足をかけ―― 次の瞬間、彼は垂直に落ちた。

 小柄な孫の体重はせいぜい60キロくらいである。しかし、10m近い位置から落下する人間の瞬間最大荷重は、二百キロをも軽く凌駕する。


 人間の質量とは思えない重さで。 兎的の背中を正確に踏み抜き、床へと叩きつけた。

 バゴォンッッ!!

 床に亀裂が走り、兎的の上に鉄骨が倒れる。 さすがの兎的も、一瞬、動きを止めた。意識が遠のいた――が、まだ死なない。 地面と鉄骨に挟まれ、動きを完全に封じられた中で再生が始まる。


 孫は、ポケットから火種を取り出した。 古びたジッポライター。 それを、コンベアの隙間に投げ込んだ。

 床には、かすかにオイルの染みが広がっていた。 食品工場で使われていた大量の可燃油。それが、経年で染み出していた。

 火は一瞬で広がる。

 孫は、兎的を見下ろして呟いた。

「心配すな。リサちゃんはワシが逃したる。お前はそこで寝とれ。一生な」

 孫は階下に消えていく。


 炎が、兎的の周囲を包み始めた。 それでも、彼は立ち上がろうとしていた。

 ……その時である、工場のドアを、黒い大型バイクが突き破ってきた。

 カワサキのZ1B、通称『ブラックゴースト』

 ……愛莉の『馬』であるが、乗っているのは白いパーカーだった。


(あ……に……き……?)


 燃え始めている兎的を、白パーカーが無表情に見下ろしていた。


「…… ……女を助けにきた。どこにいる」


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