『姫』
渋谷駅、歩道橋の上。 羅 英龍は、まだ昼間の熱気が残る雑踏を、まるで冷房の効いたガラス越しに見るような表情で眺めていた。 その視線の先、交差点の向こうで信号待ちをしているのは、小野山リサ――先ほど、角屋から逃れた女だった。
彼の右手のポケットの中で、スマートフォンがわずかに震える。 羅には、個人的に所持しているスマートフォンがない。
部下たちしか知り得ない特殊な回線の物を用いている。
それが、今まで聞いたこともないキテレツな着信音を奏でている。
不審に思いながら、羅は歩道橋の端へ歩を進め、周囲を警戒したのちに端末を取り出した。
画面には、「姫」とだけ書かれている。 発信元不明。暗号化された通信ルートから、強制的に割り込まれている。
そこから考え出される答えは一つ、ハッキングである。
羅は平常心を取り戻し、落ち着いて電話に出た。
「……どちら様かな」
羅が呟くように問うと、スピーカーから、聞き慣れぬ穏やかな声が流れた。
『ご機嫌よう。……“将軍”、いや、羅 英龍とお呼びすればいいのか。あまりこうして直接、お話しすることはないね』
男の声――『姫』とやらは、どうやら中年男性だ。やけに礼儀正しく抑揚のある口調だった。だが、背後に潜む知性と毒気は隠しようもない。
「……誰だ」
『羅 英龍という男のマニアを自称させていただいている者だよ』
「……?」
『貴方のことはなんでも知っている。羅 英龍。
物心ついてすぐ四川省を亡命、移住。
アメリカで孤児として育ち市民権を得る事を条件に極秘枠で軍に入隊。
出世してからは大陸に残してきた同胞や台湾人を扇動してデルタ内部で外人部隊を結成。
アフガニスタンやベンガジに従軍。その後に仲間を引き連れて中国に帰化すると今度は日本にやってくる。
アジア人が嫌いなのかな? それとも自分が何者なのかを、地平線の彼方まで探して帰ってきたのか。
ともかく貴方の波瀾万丈な人生を評するに、
貴方は自意識の強いナルシストで、向かい風の中でも己の言葉をカンフル剤にして立ち上がれる。
しかしそういう男性に多い傾向であるのが『男性機能障害』だ。
私に言わせれば、貴方のタフネスは、ベッドで活躍できない自分のコンプレックスから来てると言う事だね』
羅は一瞬、言葉を失った。 露軸の証人――この混乱の背後に存在する、もう一つの巨影。
彼らが「こちらの端末」にアクセスできること自体、通常ではあり得ない。
『安心なさい。この通信は、貴方の“任務用端末”を一時的にジャックしているだけです。記録も、履歴も、残ることはない。
……後世に残すものが何もない貴方と一緒だよ』
「何の用だ」
『何を怒ってるんだインポ君。失礼。あなた方が“角屋”を捕獲したと聞いてね』
「……それが」
『“角屋”という名の兵器。それは私たちが長年、火にかけ、煮込んできたレシピ。 ……それを、出来立ての一杯ごと持ち逃げされてしまったわけだ。あなた方の胃袋で、果たして無事に消化できるのか、心配でならない』
羅の瞳がわずかに細くなる。 姫川 文郁の声は、あくまで柔らかく、しかしその内容は、明らかな忠告――否、警告だった。
『数と銃に物を言わせて小山の大将を気取るのは自由だが、
我々を甘く見ないことだ。必ずお礼は返すよ』
そして、次の瞬間、通信はブツリと切れた。 スマートフォンの画面は真っ黒に戻り、履歴も一切残っていなかった。
羅 英龍は、無言のままスマホをポケットへ戻し、 その場で一度、深く息を吐いた。
その呼吸の先に、リサの姿はもうなかった。
* * * * *
国道15号線を、川崎方面に走る4トントラックが「角屋」の屋台を輸送している。
トラックの前後には、『新青龍』の護衛車が数台追走している。
京浜運河沿いの道、青物横丁に差し掛かるあたりで、
エンジン音を野生動物のように荒ぶらせるバイクが、護衛車を一瞬で追い越してトラックに並んだ。
黒いライダースーツに黒いヘルメット姿の何かが、黒いバイクに跨って、トラックに擦るかの距離でピッタリくっついて走っている。
後方を走る護衛車から男が身を乗り出し、空めがけて威嚇射撃を行うが、ライダーは見向きもしない。
無言の圧をかけながらトラックと並走する。
前方を走る護衛車がバイクの前で速度を落としてトラックから無理やり引き剥がそうとした。すると……
ライダーはバイクの前輪を持ち上げ、護衛車に乗り上げて真上を走って行ったのである。
後方についていた護衛車から男たちが身を乗り出し、攻撃を開始する。すると今度はバイクは速度を上げてトラックの前についた。
運転手を煽るように目の前で蛇行をして見せたかと思うと、大森東の交差点を右に曲がった。
それを数台の護衛車が追跡する。
バイクを引き剥がしたトラックだが、道の脇にあるマンションを通過しようとした時である。
大きな火の玉がトラックのフロントガラスに突っ込んできたのだ。
ボンネットは歪み、運転手からは炎で視界が遮られ、思わず左側のガードレールにトラックをぶつけて停止する。
次の瞬間である。火の玉が、のそ……っと立ち上がったのだ。
それの正体は自らに火を放ち燃え上がった兎的である。
炎の中で運転手を虚に睨み、フロントガラスを踏みつけた。
運転手は、すでにパニックに陥っており、運転席から拳銃を乱射するが、炎の中の男は全く動じない。
そして兎的の足がフロントガラスを突き破ると、運転手に向けて……
「降りろ」
と一言だけ言い放つ。
運転手は恐ろしさのあまり観念して逃げていった。




