二つの沈黙
甲州街道、松原交差点。
井の頭通りとの分岐がある大型の交差点を、車がバリケードのように道路を塞いで壁を作っている。
首都高、松原和泉陸橋の真下、「角屋」の屋台をここで食い止める気である。
バリケードになっている車は、この辺りではあまり見かけないフォードのピックアップトラックが中心だった。
それは、このご時世でもアメリカから直接中国に輸出される例が多い車だ。
ここは新宿、吉祥寺、から調布方面、八王子に道がそれぞれ伸びている箇所であり、普段であれば交通量の多い交差点だが、
『薔薇戦争』以降銃を持った人間には逆らわないで、わざわざ遠回りをするというのが国風と化していた。
個人でも国でも、理不尽の前には沈黙するのが人間のようだ。
和泉陸橋の下のバリケード、十人ほどいる『新青龍』構成員を束ねる沈 澄光の姿がある。
無線で「角屋」の屋台がこちらに向かっているという情報を受け、構成員たちに指示を出した。
と、そこに……
「ガッ………!??」
と一瞬の構成員の悲鳴が響いたと思うと、百九十センチを越す轍の巨体が、
音もなく一人の背後に回り、肘で首を締め上げている。
その場にいた全員の視線と銃口を向けられる頃には、轍は一人の武装を解除して制圧し、盾にしていた。
轍は制圧した構成員の背後から、奪った拳銃を発砲し、近場にいた三人の肩を撃ち抜いた。
そして『新青龍』側から広がる混乱と動揺を察知すると、構成員を盾にしたまま別の男に近づく。
男からは、盾にされたまま恐怖と混乱で顔を歪めるばかりの味方の顔しか映らない。
轍は、締め上げている男の背中を蹴り、目の前の男にぶつけるとさらにその長い腕を伸ばし、
別の構成員の首に腕を巻き付けた。男は恐怖で銃を宙に乱射する。
思わず別の構成員達が姿勢をかがめるのを確認すると轍は、締め上げている首を後ろに投げ飛ばす。
そして目の前で屈んでいる男二人の肩を拳銃で撃ち抜く。あっという間に半数以上の構成員を鮮やかに手玉に取り、戦闘不能にした。
未だ立っている男達は、何が起きているのか理解できずにいるとさらに轍は音もなく、
もう一人の懐に走っていき、左肘を相手の首に当ててそのまま肩を掴み、右腕で武器を奪ってから無理やり屈ませる。
そしてその後ろに立っていた構成員に、たった今奪った拳銃を構え、相手に正対する前に発砲。肩に当てる。
轍は肩を掴んでいる構成員の顔面に膝を入れる。
唯一まだ立っていた構成員が轍に向けて発砲する。銃弾は轍の左肩を掠るが、轍はここで留まらず、
最小限の動きで発砲する構成員の目の前まで体を移動させ、長いリーチを生かした直突きを二発。顔面にいれて蹴り上げた。
このようにして轍は、二分とかからずに日本人が恐れている中国人マフィア十人を片づけたのだった……。
轍は無線を取り出す。
「出汁郎……こっちは片付いた。 来てくれ」
『はいーーご苦労様ですーー』
出汁郎からの返信を聞き、轍は無線機をしまった。そして倒れた男たちを一瞥した。
どの男も抜かれたのは肩である。動けないが命に別状はない。
『露軸の証人』グループは、殺しはやらない。そういう鉄則になっている。
倫理観ではない。
殺せば、それは復讐心を燃やす結果になるのと、
敵からしてみても、死人を増やされるより怪我人を増やされる方がアフターケアの負担や戦意の喪失につながり戦術的には優位なのだ。
ベトコン時の対人地雷のようなものだ。殺すのではなく、敵の負傷兵を増やす。
……屋台の接近に目を向けかけたとき――背後の気配が、空気ごと刈り取られた。
スッ――。
それは風ではなかった。音でもなかった。 “気配”が殺された、音のしない刃だった。
シュッ。
反射的に身体をひねった轍の肩口を、鋭い切っ先がなぞる。 ナイフだ――細く、沈黙のまま命を奪うための道具。 轍は跳び退きながら振り返る。
「……!」
そこに立っていたのは、沈 澄光だった。 いつからそこに居たのか……無表情のまま、しかし目だけが異様なまでに集中している。
ナイフは二本。一本は手の中。もう一本は逆手で隠し持っている。 いつのまにこの距離まで――そう思うより先に、沈が動いた。
刃が風を裂く。
沈の動きは速く、音がない。 轍が左にかわすと、沈の身体は逆らうように右に跳ねる。 ナイフの片方を囮に、もう一本を死角から――“喉”を狙ってきている。
ガンッ!
轍は腕で受ける。肉を裂く感触。だが致命傷ではない。 そのまま、沈の腹に膝を入れようとするが――沈はナイフを手放し、体を流すように後退。 わずかに距離が開く。
沈はこの状況で笑っていた。 まるで“呼吸のリズム”そのものを轍に見せているようだった。
二人の間、風が止まる。
再び沈が踏み込んだ。今度は地面すれすれの低い姿勢で飛び込んでくる。 轍はその動きに逆らうように、上から押しつぶすように拳を振るう。 だが沈は滑り込んで躱し、轍の背後を取った――
ガッ。
沈のナイフが轍の背中を裂こうとした瞬間、轍の肘が反射的に突き上がる。 沈はそれを読んでいた。肘をかわしつつ、そのまま背後にナイフを滑らせようと――
しかし、轍が動じない。
沈の身体が密着するその瞬間、轍は全体重を後ろに預けて沈を押し潰した。
ドガッ!!!
重さと膂力の暴力。下敷きになった沈の喉元に、轍の拳が迫る――
……だが、沈は笑った。
バシュッ。
懐から撒かれた粉末が、轍の目を焼いた。 粉――ではない、粉砕したカプサイシンと硝酸を混ぜた薬剤。 視界が滲み、肺が痛む。 その一瞬の隙に、沈は無理やり体を抜け出し、道路脇へと身を翻した。
「相変わらずだな。『沈黙の轍』」
距離を取った沈が、初めて言葉を口にする。 その声は、皮肉でも、憎しみでもなかった。ただ、事実としての評価である。
轍は視界の痛みを堪えながら、答える。
「……お前は、デルタの……!」
「“静殺”……私の流派だよ。名乗るほどのものでもないがね
お前の静寂と、私の静寂、どちらが鋭いか、手合わせ願えるかな?」
数秒間、二人は再び睨み合う。
そして――次の瞬間にはもう、沈の姿は街路の闇に消えていた。 轍は、目を擦りながら、小さく舌打ちをする。
「……すまん出汁郎。少し遅くなる」