落葉歸根
かつて、東新宿は人が交差する地だった。 2020年まで、この地を貫く都道305号線と203号線は、常に渋滞と歩行者であふれていた。 新宿三丁目と職安通りのあいだ、タクシーのクラクション、記号的な人間と、記号的な車達。そして記号的な外国語の看板……。 ここには、『都市の騒音』が確かに存在していた。
それが2020年のロックダウン、感染症、そして爆破テロの後に発生した『新宿薔薇戦争』。
以後、ここは「静寂に支配された街」となった。 駅前の大型ビジョンには、銃社会を受け入れた日本を称賛する、大統領の演説が再生されている。 そして閑散としている。
人間は消え、光だけが残った。
そんな無人の街を見下ろすビルの一棟――その地下に、『まだ人間の声が響く場所』がある。
* * * * *
― 東新宿、台湾食品貿易株式会社 地下 会議室 ―
靖国通りに面したオフィスビルの地下。外から見れば、あくまで「台湾系の食品輸入会社」だ。 しかしその地下には、完全防音の会議空間が存在する。分厚いドアの内側には、円卓と八脚の椅子。 一脚は空いていた。そこが『山岡』の席である。
壁には中華の伝統を模した墨文字の掛け軸には「落葉歸根」と書いてある。
日本では馴染みの薄い言葉だがこれは、
「死ぬときは郷に帰るべき」というという、古典中国の思想である。
どっしりとした、重く冷たい印象の円卓の中央には、数枚の写真――その中には昨日、東京湾近郊で撮影されたものもある。
重厚な沈黙の中、口火を切ったのは、羅英龍だった。
「……連絡が途絶えて四日。 通信ルート全断。金融口座の凍結、移動履歴なし。……山岡は“消えた”と見て間違いないだろう」
軍人然とした佇まいに一切の無駄を省いた合理的な所作。
数万年もここに存在し続けるという意志すら感じられる
「『将軍』、それは逃げたことを意味しますか?」
低く呻くように言ったのは、馬宏。 手元のiPadに表示された財務帳簿を無造作に叩く。
「逃げるにはタイミングが良すぎる。あの男が米軍と繋がっていた可能性も視野に入れないといかん。 そして『消された』可能性もな。
要因を整理すべきだ。王芯蓮、君は『鼠達』をどこに派遣していた?」
すると、紅一点である王芯蓮が口を開いた。狐のように鋭い視線の先にあるのは、机上の一枚の写真―― 『角屋』の屋台を背景に、ラーメンを啜る青年。その後ろ姿には、どこか既視感がある。
「……『角屋』を見張らせていました」
「『角屋』とは?」
羅英龍が問うと、整った髭面の湯家燐が答えた。
「ジャパニーズ・ヌードルを車で販売する組織ですよ。僕も一回食べてます。味は、下の上くらいですね」
「その『角屋』がなんだというのだ?」
「山岡が最後にいたのは、その近辺ということになります。それとこの女性……
最近『角屋』に出入りしている女という報告を受けてます」
「……彼女の素性は?」
王芯蓮は眼鏡のフレーム位置を細い指で丁寧に整えて、答えた。
「さあ? 環境の変化に追いついてない、平和主義の日本人そのステレオタイプじゃないでしょうか?
ただ、山岡の関係者であるところまではわかりました」
「なぜそう言い切れる?」
「『罰天』が、2度彼女を襲撃してます」
『罰天』という言葉が出て、会議室はまた重たい沈黙が流れた。
「虎落平陽被犬欺……」
今まで沈黙していた、胡文江が静かにつぶやいた。皺だらけのその顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「で、我々はどうする? ジャパニーズヌードルの屋台を、偶然の屋台と見做して済ませる気か?」
そう言ったのは、財務担当・陳如生だった。
大きな体を、ぴっしりとスーツが包んでいる。スーツ越しにもその体躯が強調されている。
「山岡がいなくなれば、アメリカとのパイプが滞り、物流が止まる。
供給が止まれば、兵器の流通網に支障が出る。これは戦略的危機だぞ。
東欧ルートはテロ以降、ジャパンへのルートの信頼性に欠ける。
どうする? また青龍刀を振り回すスタイルに戻るのか?」
羅英龍が腕を組み、ため息をついた。
「一見、祖国の助けを借りるべきと見えるが」
それを聞いた馬宏が慌てて口を挟む。
「いえ、無理です『将軍』。新宿はもう、アメリカの武器に犯されてます。
祖国の武器で戦うのは、それこそ現実味がありません」
「その通りだ。同時にそれは、アメリカからすると我々の裏切りとも取れる。やめておくことだな」
陳加生が同調し、馬宏は何度も頷いた。
重苦しい沈黙が、地下の空間に広がる。
「埒あかんじゃろう。あってみんか?」
部屋に、素っ頓狂な子供の声が響く。
円卓を囲っている面々の中で明らかな最年少の男がそう口にした。
見た目は、子供のそれである。肌は浅黒く、瞳の色は翠、直毛は白に近い金髪に、首にはアジア圏内を彷彿とさせる金の首飾りが大量にかけられている。
中華民に囲まれた中で、どこの国の出身ともつかない少年が突然話に加わってきた。
昨日、自身の手で撮影した東京湾近郊での写真を眺めている。出汁郎、轍、兎的、そして露軸の写真である。
「ワシは興味あんねん。こやつらが敵だろうが、味方になろうが、
オモロい奴や思ねんな。何せ、3度も罰天を撃退しとる。なかなかよ? こやつらは」
少年は、日本のどこともつかない訛りの言葉を喋る。
羅英龍はため息をついた。
「孫童。今は君の遊び相手を探している状況にないのだ」
「ここで七人、腐って話し合っとる場合でもなかよ?
現状、一番ヤマオカに近いのがこやつらなら尚更……。
ええよ。ワシが行くけん」
「『角屋』と接触するのです?」
王芯蓮が尋ねると、髭面の湯家燐が胡散臭い笑顔を浮かべた。
「いいでしょう。童と僕で行きますよ。僕は過去に一度『角屋』に行ってますので。
それで将来的に、罰天よりも早くこの……『小野山リサ』の身柄を我々が確保する。どうです『将軍』。
この会議が陽を見たのではないですか?」
「ふむ……」
羅英龍は、小野山リサの写真を手に取った。
「変化に対応できない、平和主義のステレオタイプが……
国家にとっての重要な女になるとはな……」




