新宿BLACK
「フフフフフーーー」
JR高円寺駅。気象神社前の、平日昼過ぎ。
ラーメン屋台「角屋」。
出汁郎が轍に、新作ラーメンの試食をさせている。
出来立てのはずだが、真っ黒なスープには、湯気が立っていない……。
轍は冷や汗をかき、引き攣った笑顔である。
割烹着姿の出汁郎は、そんな轍を、いつもの八重歯が見える笑顔で見つめた。
通常、『ふふふ』という笑い方は、口を窄めていないと出し難い発音だと思うが、
この出汁郎という男は、口を大きく開いてこの笑い方をするため、微妙に「ふ」と「へ」が混ざったような発音で笑う。
それがまた、不気味さを演出している。
轍は、何やら恐ろしいものを見るように、地獄よりも黒いラーメンを覗いている。
そして、そっと……蓮華をスープに差し込んでみ、一口すくってみた。
やはり、湯気が出ない。
轍は泣きそうな顔で出汁郎を見た。
「大丈夫ですよーー。出来立て『ホカホカ』ですのでーー」
しかしどう見たって黒い泥水なのだ。
清水の崖から紐なしでバンジージャンプをする覚悟を決めた轍は、思い切って口に運ぶ。……固まっている。
「温かいでしょー。不思議ですよねーーー。
……私にとってスープの究極はね、『熱を閉じ込める蓋』なんですよーー」
轍の頭は未だスープの情報量過多に混乱している。
「湯気が立たないのは、『少し多めのラード』を使用してましてー、スープの表面に油の膜ができてるんですねーだからですー。
ほら私たちってー基本外で提供するわけですからー、ラーメンが伸びやすいのが悩みだったんですよねー。
それに対する『解』がこれですねー。いやー手間かかったーー。
私は基本的に動物性の出汁しか信じていないのでー、出汁は鶏ガラ。そこに豚頭を使用した豚骨ですねー。そこに隠し味にあるものを入れました。なんでしょー。
ヒントー、『焦がし玉ねぎ』あ、答えを言ってしまいましたーーフフフフフフーーー」
轍の顔には、既に大量の汗が流れ出ている。
次に轍は、スープの膜に覆われた黒い塊を箸で掴み上げた。
それからも湯気が出ていない。
「チャーシューもこだわりましたよー。
豚バラ肉を、醤油、八角、そこにコーヒー液と黒砂糖で煮詰めましてー。炙ってから黒焼きしましたー。
どうですかー? 断面まで黒いでしょー?」
轍は、恐る恐る口に運ぶ。
出汁郎はそれを見届けると……
「まあ、チャーシューだけでも1日の摂取カロリーを超えちゃうんですけどねーー。
それがいいんですよーー」
轍は、そっと、黒い塊の残りをスープの深淵に隠した。
続いて、隣の野菜めいた物体を取り上げてみた。これも黒い。深淵より黒い。
「それはモヤシですねーー。黒豆もやしを、黒酢とごま油で漬けたナムル風モヤシです。シャキシャキしてるでしょー。
その隣にあるのが味玉ですねーー。醤油と甜麺醤とコーヒーで煮込みましたー。黄身まで黒くするの大変だったんですよー」
轍は、そっと味玉のような物体を、箸で遠ざけた。
流石に海苔はこれ以上『黒く』できないだろうと思う。轍は安パイを選んだ。
「その海苔もねー、コーヒーで一回漬けてからバーナーで炙ったんですよー。やっぱりコーヒーなんですよねーー。
カレーだってコクを出すためにコーヒーを入れるじゃないですかーー」
……轍は海苔だったものを、そっと深淵に沈めた。
「あ、いけないいけない。私としたことがトッピングを忘れてましたーー」
そう言って出汁郎は、轍が食べているラーメンに、ニンニクの発酵した匂いのする物体をふりかけた。これも黒い。世界中の何よりも、黒い。
「黒ニンニクですーー。高級なんですよーーー」
轍は、ラーメンの前で固まってしまった。
「あ、轍さん。そろそろ麺も手をつけてくださいよーー」
出汁郎の見ている前で、轍は暗黒の釜から重たい麺を取り上げた。
……黒い。
「すごいでしょー。自家製麺ですよー。
太ストレート麺に、黒胡麻と竹炭の粉末を練り込んだんでー、一度素揚げしてカリッとさせた後にスープで戻すんです。
表面はカリッとしていて、中はもっちりですよーー
命名、『新宿ブラック』」
轍は、麺をそっと置いて出汁郎を見た。その顔には、丸眼鏡のフレームを伝って涙が溢れている。
言葉は発しなくとも、何かを察してほしい顔だった。
「やっぱりーーー、健康と、美味しさって、トレードオフの関係じゃないですかーー。
早死にする覚悟のあるものだけが、美味しいラーメンを啜れると思っているのでーー」
『新宿ブラック』と名付けられたラーメンを、気合と根性で啜り切った後に、
轍はよく効く胃薬を3錠胃に押し込んだ。
完食後、轍はソワソワしていた。
「……あ、莉春の帰りが遅いって、思ってますーー?」
丸メガネ越しの目が、右に左に泳いでいる。
「なんかねーー、『友達に会いに行ってくる』って、言ってましたよーー?
……フフフフフーー」




