恋人に捨てられた夜
背中越しに、この人の体温を感じる。
変な眼鏡に、割烹着。
ああ間違いない。さっき、あった人だ。
二十年生きてきて、大人の殴り合いというものを目の前で見たのは、初めてだった気がする。
その人は、五人をたった一人でやっつけて、私の体を、まるで洗濯物でも取り込むかのように肩に担いで、
そのまま地上に通じる階段を駆け上がっていった……。
* * * * *
「畜生!!」
……と叫んだのは、若い女性だった。
令和に入って以降、現実として受け入れ難い不条理が立て続けに起きていて、今は人生の谷間にいるんだなと思っている。
新型コロナ感染症による一連の騒動で、日本は一時戒厳令に近いものを敷かれた。
それが落ち着いたと思ったら今度は、新宿区、世田谷区、品川、川崎エリアなどを中心に発生した同時多発テロによって、
日本は二度目の戒厳令が敷かれ、新しく就任したアメリカの大統領に、とんでもない習慣を日本に植え付けられ……。
そして今日、将来を約束した彼氏に一方的に別れを告げられた。
声の主、小野山リサは笹塚から渋谷の大学に通う二年生だ。
卒業後は、東京で一般企業に勤めながらも彼と結ばれて、東京で暮らしたいと思っていた。
「東京は(本当に)危ないから、働くならどこか地方の方がいい」などと親族、友人各位からは腐るほど言われているが、
リサは、いくら東京が五年前からは想像もできない地獄でも暮らしていくつもりだった。
今や日本一の治安の悪さである、東京都新宿区。都庁のお膝元であるにもかかわらず、国家の暴力装置たる日本警察は、
テロリストの鎮圧に事実上失敗した。
表面こそ、五年前と比べれば外国人の数が増えた程度にしか変化は感じないが、
女性が、まして一人で夜に出歩くなんてことは、命知らずな行為であるとしか言いようがない。
嗚咽を漏らして大泣きしているリサは、暗闇に聳える都庁に向けて中指を立てた。
危険地帯? 無法者の巣窟? もうどうだっていい。なんだって、もういいのだ。
リサは自暴自棄になり、危険な夜の新宿を彷徨っていた。
そして、泣きつかれた頃には暴力的に食欲が湧いてきた。
……ラーメンだ。こういう時人間は普通、ラーメンを食べるに違いない。リサは夜中の21時に空いているラーメン屋を探したが、
この辺りで開店しているラーメン屋はもう、一軒もなかった。
暴食も、許されないってか。
頭の中の、マイナスな言葉をいくら振り切っても、振り切ってもそれは湧いて出てくる。
そういえば、「こんな時代、あんな男はやめておけ」と、謎の五七調で『こんな』だの『あんな』だの忠告してきた人も、
いるには居たんだ。
なんでその声に耳を貸そうとしなかったのか。リサはもう、考えることにも疲れてしまっていた。
ともかくお腹が空いた。
人間が生まれて初めて泣く理由が空腹なら、人間が人生の最後に感じる絶望も空腹なのかもしれない。
中野坂上のあたりを彷徨っていると、温かい湯気が出迎えてくれた。
……あ、ラーメンだ。
あれは、屋台?
ラーメン屋の屋台なんて何年ぶりだろう? というより、初めて見る気がする。
温かい湯気の向こう側を見てみると、
ラーメン『角屋』の前には、
頭にバンダナを巻いて、丸メガネがラーメンの湯気で曇っているおじさんと、
尖りすぎな八重歯を覗かせ、目を見開いてニカ……と、笑っている不気味な店員さんが並んでこちらを見ている。
リサは引き寄せられるように屋台に向かって歩いていくが、
店員と思われる割烹着をきた男性二人は、「いらっしゃい」とも言わないでただ、リサを見ていた。
「……ラーメン、ください……」
屋台の前でリサが注文すると、
笑顔の男性は表情をそのまま、まる眼鏡の男性に首だけ動かして見、
しばらくして元の姿勢に戻って再びリサをみると、こう、言った。
「だーめー…… ……ですね」
「え?」
「お姉さん。ここは、非常に危険ですから。
早く帰った方がいいですよー」
八重歯の男が言った。
……何を言ってるのだこの男は。ラーメンを売る気はないのだろうか?
「我々の後に、ちょうど地下鉄の駅がありますから、今日はそこから帰った方がいいですー」
意味がわからない。ここに腹をすかせて泣いている女がいるのに、
そしてそこにラーメンがあるのに、食わせないというのだ。
流石に頭にきたリサは、ため息を一つだけこぼし、続きは家で泣くことにした。
屋台を通り過ぎようとしたその時である。
鳥みたいに目を見開いた八重歯の男が、リサを引き止めた。
「銃、持ってますかー?」
「…… ……持ってないです」
「あ……じゃあ、お貸ししますよー。
……リーシュンさん、P224出してあげてー。
……
……あ、大丈夫ですよ。モデルガンなんでー。でも何も持たないよりかわー。はいー」
すると湯気の向こうから丸い影が動いて、赤ん坊みたいにまん丸い手がニョ……っと伸びてきた。その手には拳銃が握られていた。
どうやら椅子にでも座っていたのか、屋台の影に隠れてもう一人いたらしい。
「……要りません!」
八重歯男から差し出された、黒い塊をリサは避けようとすると、
今度は丸太のような巨大な手に腕を掴まれた。
思わず睨み返すと、今度は湯気で丸眼鏡を曇らせた割烹着の男性が、申し訳なさそうにこちらを見ている。
「……あ……あ……」
いかつい見た目とは裏腹に、声は自信なさそうに小さい。子猫のような声だ。
「離して!」
リサが丸太みたいな腕を振り切ると、男はあっさり手を離した。
背中越しに声が聞こえる。
「行かせちゃっていいのお?……」
すると女性の声で……
「無理に渡すもんでもないアル。勝手に怖い思いすればいいアルよ」
と、昔の映画の中国人吹き替えみたいな声が聞こえてきた。
* * * * *
全くなんて日なんだろう。
ラーメンは食べられない上に、不愉快なものまで見せられて。
賑やかな街に出れば、気も晴れると思ったのに逆もいいところだった。
リサは自動改札に、交通用カードをかざず。ゲートが空いた。
さっき、物騒なものを渡されそうになり、正直なところ少しだけ不安になったが、
こうもあっさりと帰ることができそうだ。
何が治安最低の街だ。いや、もうなんでもいい。
早く帰りたい。
駅のホームにて、接近メロディーが流れ、地下鉄がやってくる。
涙もそのままに虚な顔で、地下鉄に乗り込もうとした時だった。
地下鉄から降りてきた二人、三人の男に阻まれ、乗車できない。
男達は明らかにわざと、進路を塞いでいる。
もうなんだよ、と、男達をみると、三人ともリサを見ていた。
そして……手には拳銃が握られている。
叫ぼうとしたが、今度は後から手が伸び、布で口を塞がれた。
そして耳元で、「ついてこい」と言われた。
五人の男に囲まれ、逃げる術もなく、周りも助けてくれるわけでもなく電車は行ってしまった。