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あれは春先の宵のことです。
わたしの足が夜具の中でヒソヒソと話し出すようになったのです。
「足?」
「ええ、右の足と左の足がお互いに」
男は父親としてどぎまぎした。
「それはお前、春の目覚めというやつかね。こうなにかを待ち望むようなどきどき感というか、むずむず感というか、いや気持ちはわかるが娘の場合は早まってしまうと色々と厄介がだね、」
「浮き名を流しているお父様の足の疼きとは全く別物ですわ」
しらりと娘が言った。
御簾の内で父親に向けている扇から覗かせた目は、情が干上がったように乾いている。
「お父様の新奇なものをお求めの疼きでお母様は嘆き暮らしておりますが、わたしの足たちの求めていたのは懐旧ですわ。よくよく耳を傾けてみると昔を懐かしんでおりましたの。もう一度子供の頃のように雨で水をはねちらかしたり、青草を踏みしめて駆け競べしたいとその事ばかり話して嘆いていたのです」
「それはお前──」
「断じて」
重ねて強調される。
「殿方が忍んでくるのを待つようなお父様向きのお話の内容ではありません」
「て、照や、そなたわたしに対して少し刺々《とげとげ》しくはないか。わしはただ陰陽師にでも相談したのかと思うて」
うふふ、と娘が笑う。
「刺々しいとはとんでもない。袴着(五歳で行う儀式)以来のお珍しいお父様のお出ましですのに」
「そ、そうか……?」
「そうですとも。目の前にいるのはやんごとなきお父様の、省みられることのない放置されっぱなしで世間知らずの娘ですのよ。言葉の表と裏を読みあって政争にかかりきりの殿方みたいな真似するはずないじゃありませんか、お疑いとは胸が痛みます」
「御簾ごしのそなたの目がくちなわ(蛇)のように怖い気がするぞ!? 真綿でじわじわ首を絞めるその言い様、そなた、奥に似て育ったな!? す、すまなかった」
「さて話を戻しますと」
娘が聞こえなかったように話を戻す。
「こちらは眠りたいのに夜中ひそひそされるのは耳障り。無論、昼日中に駆け回るわけにも参りませんので、夜中に散歩することにしたのです」
「なぜにその結論? そこは陰陽師に相談するところであろ。危ないではないか!」
「これこの通り、無事でしたわ。さすがに女の身でうろつくのはどうかと思って、一応狩衣の殿方の装いをしておりました。陰陽師は好きませんの、法師やら呪い女やら札売りと所詮は同類でこちらの足下を見てきますし」
「選り好みの問題ではなかろ、近ごろ都や宮中の空に怪異の現れて物騒なのを知らぬのか。現に鬼と行き逢ってこんな礼物までもらっておるではないか!」
「世情に合わせて性分を曲げぬのはお父様に似たのかも知れませんね。盗人が出没していた頃も父上は繁栄にお出掛けでお母様はお嘆きでしたし。賊が捕縛されるまで待ってもおなごはいなくならないものを」
「いやいや、賊と怪異や鬼は大分ちがうぞ」
「わたしには似たようなものですわ。それにたまたま行き逢ったのではなく、鬼を探しての散歩で巡りあったのですから、目的達成です。なんの当てもなく漫然として歩く散歩というのはわたくし苦手でして」
「な、な、」
男は口をパクパクさせる。
「なんのために、」
「文章博士の紀長谷雄様が鬼とすごろくを競った話を読みまして、わたくしも鬼から極上の美女を貰えまいかと」
「一体またなぜ!?」
娘がにっこりする。
「だって父上お好きでしょう、極上の美女。お父様に差し上げたら喜ぶかしらと思いましたのよ」
男は娘の幼い頃を思い出してじーんとした。
「お、お前……」
「長谷雄様は寝込まれたようですし、同じ目に遇えば浮き名を流すのに懲りて、ついでにお母様も落ち着かないかなーと。噂の度にお母様が不調を起こして、その度に家に風体怪しげな輩が新しく出入りするのはもううんざりしておりまして」
「ええ……、照や、お前考え方が少し過激に育ったのでは。父は別に、お前のことを、決して忘れたわけでは……」
取って付けたような嘘の言葉をふ、と鼻で笑って娘は話を続ける。
「それで鬼の現れそうなところを散策して探している折、井戸の底から泣き声が聞こえまして。覗いてみると、高貴なご様子の女性がおりましたの。まあお仲間がいたわ、と思ってどうにかこうにかして引き揚げて差し上げたのです」
「違ったろう!? 仲間ではなかったろう!? その女人は他に事情があったのだろう!?」
娘は多少むっとしたように頷いた。
「ええ、違いました残念ながら。なんでもつれなくしていた男に拐かされて井戸に投げ捨てられたのだとか。男って本当に最低」
「わ、わたしは女人にそんな非道な行いをしたことはないぞ!」
つん、と娘が横を向く。
「別にお父様のことは言ってはおりませんわ」
「そうか……!?」