ある易者の日常
「――時々、本当の自分が分からなくなるんですよ」
自嘲気味な口調で、隙なくスーツを着こなした女性は呟いた。年のころは三十代前半。いかにもキャリアウーマンといったその顔には、疲労の色が浮かんでいる。
「ほら、よくAB型は『二重人格』って言われてるじゃないですか? 職場とそれ以外で無意識のうちに使い分けているらしいんですよ、私」
女性の向かい側、右手に持った拡大鏡で手相を確認しながら、男は聞いているという態度を示すために何度か頷く。男は、若者とも老人とも言えない年齢不詳な顔立ちをしていた。
「そうして、こんな年になるまで過ごしてきて、ふと気付いたんです。――親しい人の前でさえ、私は私じゃないな、って……」
女性が俯いたと同時に、短く切り揃えられた髪がほつれかかってきたが、彼女はそれを気にするでもなく話し続ける。
「そうなると、何にもやる気が起きなくて……ずっと前からやりたかった仕事のはずなのに――」
そこで言葉を切った女性は、慌てたように顔を上げる。
「ああ、でも、仕事をないがしろにしてるわけじゃないですよ。この不況の中、そんな理由でクビになりにいくなんて愚か者のすることですから」
勢いよく言い放った後、再び女性は視線を下げる。
「そんな感じで悩んでいたら、なんだか眠れなくなっちゃって……市販の薬も試してみたんですけど、効果がないのでやめちゃいました。何かやろうにも、身体は疲れているんですから、質が悪いですよね。だから最近は、目を閉じていても一睡も出来ないまま朝を迎える、なんてことがよくあるんです。ただ……時間があると人間って余計なことを考え出すんですね」
苦笑する女性の顔は、先程よりも幾分明るくなったようだった。
「私――自分じゃない誰かが死ぬのが、どうしようもなく怖いんです。もちろん、自分が死ぬのも怖いですけど、他人が死ぬくらいなら自分が死んでやろうって、随分前から本気で思ってました」
ふぅ、と深い溜め息をついて、女性は続ける。
「昨日まで知っていた人がいないのが怖い。その人がその人でなくなるのが怖い。――怖くて、一晩中毛布を被って震えていたこともありました。きっと、他人から見たら馬鹿みたいですよね」
女性の口調は、答えを求めているわけではなさそうだった。ただ、煮詰まってしまった思いを吐き出しているだけ。彼女の中ではもう答えが出ているのだろう。それはまだ漠然とし過ぎているのかもしれないが、語る彼女の表情は、内容に反して明るかった。
「多分、幼い頃に祖父が亡くなった時からだと思うんですよ。まだ私は幼稚園生で、ある朝起きたら、制服を着た知らない親戚のお姉さんがいて、しばらく遊んでもらった後に前の晩祖父が亡くなったことを知りました。――ショック、でした……」
女性は表情を曇らせる。もう二十年以上前の出来事のはずなのに、まるで今その光景を見ているかのように。彼女にとって、それがいかに衝撃的だったかわかる。
「だって、入院していたことは知ってましたけど、それ以外大人は何も教えてくれないんですもん。私はきっと治ると思っていたのに、まさか末期のガンだったなんて……。心の準備をする時間もなく、私はあの日『死』というものを知りました」
男が手を離すと、何も言わなくても女性は慣れた様子でもう片方の手を出した。男は女性の話を聴きながら、黙って作業していく。
「触れた祖父の、『生』ではない冷たさ。読み上げられるお経。三晩、祖母と一緒に祖父の遺体が置かれている隣の部屋で眠りました。告別式の後の火葬場で、最後に見た祖父の顔と冷たく閉まった銀色の扉が、今でも忘れられなくて――骨と灰になった祖父を見て、『死』というものの本質を知ってしまったような気がします……」
目を閉じて、女性は深く長い溜め息をついた。そのまま、口を開く。
「それ以来、誰か知っている人の死に出くわす度に、手先や足先から血の気が失せるような感覚に襲われるんです。……でも、不思議なものですよね。それから何年かした曾祖母のお葬式の時には、当時永遠に続くように感じられた火葬場での待ち時間も案外短かったし、全てを飲み込んでしまいそうなくらい大きかった鉄の扉も、驚くくらい小さかったんですから」
女性の表情は、懐かしんでいるかのようでさえあった。
「今では、忘れたくなくて自分で勝手にあがいていたのかとも考えたりして……本当、月日が経つのは早いですね。――記憶を留めておく暇もないくらいに……。きっと私はそれがどうしようもなく嫌だったんです」
男が手相を見終わって手を離すと、女性は顔を上げ、先程とは比べものにならないくらいの清々しい表情を浮かべていた。
「今日は私の愚痴に付き合ってくださってありがとうございます。迷惑、でしたよね……?」
言いながら、男が返事をするより早く、女性は鞄から上品なピンク色をした財布を取り出した。
「私からのお礼です。お釣りはいりませんので。……本当に助かりました」
そう言った女性は、一万円札を机の上に乗せると、結果も聞かずに去っていく。
「………」
男は慌てるでもなく、いつも通り緩慢な仕草でお札をしまっていった。
本当の料金は二千円なのだが……。
様々な悩みを抱えた人が歩くこの街では、今晩のようなことは決して珍しいことではない。占いをしているはずが人生相談にのってしまう、なんてこともよくあった。
「………」
人混みの中に消えていく女性を見届けた男の顔には、珍しく微笑がたたえられている。
しかしそれもほんの一時のことで、再び表情を隠した男は、次の客が来るまで通りを往来する人々を眺めているのだった。
―fin―
未熟な文章をここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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