08 ルノーの蛮行
「はぁ……ヴァルター様はまさに雄々しさと美しさを兼ね備えているわ……」
リーゼロッテはうっとりと呟いた。
その手には棒が握られており、頬には粉がついていた。
「本当によろしいのですか?」
厨房を任せられているコックが言った。
彼はルノーという名前の若手のコックだ。
「ええ、勿論です。すみません、無理を言ってしまって」
「いえ、それは……構いませんが」
「まさか、ご自分でパンを焼かれるとは」
ルノーは驚いたように、少し目を見開いた。
垂れ目がちの目には泣きぼくろがあってやけに色気があった。
ヴァルターほどではないが背も高く、引き締まった体は女性に人気だろう。
ささやき混じりにも聞こえる、甘いテノールボイスは戸惑いを含んでいた。
しかし、ヴァルター一筋のリーゼロッテには、ルノーの色気も美しさも何の意味も持っていなかった。
(ヴァルター様のお役に立ちたい)
リーゼロッテは粉ひき工場での経験を活かして、ヴァルターのためにパンを焼くことを決意していた。厨房に向かってコック長に直談判したところ、昼の後の休憩時間ならばいいと許可してもらったのだ。
監視のためか、今はこの綺麗なコックが横についている。
(見られているのは少し緊張するけれど……仕方ないわ。よし)
リーゼロッテは黙々とパン作りに取り掛かった。
これだけはそれなりに自信があった。
粉ひき工場で雇われていたときは、雇われ先の主人のために焼かされていたのだ。うまくできたときには報酬として、自分用にもパンを一つ貰っていいということになっていたから、必死で美味しいものができるように覚えた。
あれだけ厳しくて口うるさかった女将さんも、パンや菓子に関してだけは、文句を言わなかった。
ということは、それなりに美味しいということではないだろうか。
(あのこわーい女将さんに自信を持たせて日が来るなんて思ってもみなかった)
心を込めて作ったパンは絶品だった。
ヴァルターだけでなく使用人たちもその味に感動し、リーゼロッテを称賛するようになった。
「これほど美味しいパンは初めてだ」
とヴァルターが笑顔で言った。
その言葉に心の中で小さな達成感を覚えたリーゼロッテは、それを期にパンを焼くようになった。
その日も、リーゼロッテは厨房でパンを焼いていた。
(今日は白パンにしようかしら……)
すると、一人のコックが彼女に近づいてきた。
美貌のルノーだった。
「リーゼロッテ様、その美しい手で作るパンは格別ですね」
「え? ああ、どうもありがとう」
「もしよろしければ、お手伝い致しましょうか」
ルノーはパン生地を捏ねているリーゼロッテの手に、自分の手を重ねた。
そして誘惑の目をリーゼロッテに向けた。
リーゼロッテは一瞬驚いたが、すぐに冷静になった。
彼女はその手をぴしゃりと払いのけた。
「申し訳ありませんが、そういう誘いには応じられません」
と冷たく言い放った。
「これ以上近付くと、頬を殴りつけますよ」
「嫌なふりをしているのではなく?」
ルノーは重ねた手を離さなかった。
リーゼロッテはふう、とため息をついた。
どこか官能的ななまめかしい吐息に、ルノーの目が怪しく光る。
リーゼロッテはパン生地から手を離し、付着した粉を払う。
そして、握り拳を作り、渾身の力でルノーの傷一つない美しい頬を殴りつけた。
「ぶっ……ぐふ!?」
「警告はしました。このことはヴァルター様に申し上げます」
リーゼロッテは冷たく言い放ったが、最期にぼそりと付け足した。
「とても残念です。貴方の作るカボチャのスープはとても美味しかったのに」
次回最終回(予定)です。




