伯爵令嬢は、“催眠術”で気になってる伯爵令息を落としたい
伯爵家の令嬢ベディネ・メイユは、16歳。一流の淑女を目指して貴族学校に通っている。
ふわりとしたセミロングの赤髪、ぱっちりとした眼、淡褐色の瞳を持ち、ひとたび笑えば周囲に向日葵を思わせる陽気さを振りまく。制服である白のブレザーとスカートが、彼女の明るさをより一層引き立てる。
学校の授業後、ベディネは友人のアリナ・ソーンと街を散策していた。アリナもまた伯爵家の令嬢であり、ベディネとは気が合った。長めの金髪を右手でかき上げるのが、彼女の癖である。
ベディネは人だかりを見つける。
「ねえねえアリナ、ほらあそこ……何かやってるみたい!」
「あー、どうせ大道芸でしょ? ボールの上に乗ったり、ダンスしたり……」
「ううん、違うみたい。『催眠術ショー』だって」
「催眠術……?」
「ちょっと見てみようよ!」
「ベディネったら……まあいいけど」
ベディネはアリナの手を引っ張り、人だかりに向かう。
催眠術ショーは始まったばかりだった。
術師を名乗るマントをつけた男が、相方となる大男に催眠術をかけるらしい。
「お前の右手はハンマーになる。ハンマーになる……」
すると、大男は右手を拳にして、木材に釘を打ち始めた。
見るからに痛そうな光景で、見物人からは「うわっ」という声も上がる。
しかし、見事釘を根元まで打ち付けてしまった。
その後も、「お前の頭は鉄球になる」と言われた大男が頭突きで大きな石を割ったり、「お前のお腹は鉄板になる」と言われた大男が、術師が振るった角材を腹筋で受け止めたり、痛そうなパフォーマンスが続いた。
そして、大男は怪我一つなくやり遂げてしまった。
催眠術師の男が、「さあさ、お代を」と言うと、見物人たちは見物料を差し出していく。
ベディネとアリナも自分の小遣いから、いくらかの料金を払う。
見終わった後、髪をかき上げつつアリナが言う。
「催眠術といってもあんなのウソっぱちよね。どう見ても、あの大きな人が術にかかったふりをしてただけよ。ものすごく体を鍛えてたし」
ベディネもうなずく。
「そうだよねー、あんなのインチキだよね」
催眠術は信じていないものの出し物自体は面白かった、という結論にまとまる二人。
しかし、ベディネの本心は違っていた。
あれは本物だったんじゃないかなぁ……。
アリナと別れた後、ベディネはすぐに街の本屋に向かう。
少し探すと、店の片隅に目当ての本があった。
『催眠術入門 ~これで君も催眠術マスターだ!~』
色褪せており、長い間売れていなかったと想像がつくが、ベディネはすぐさま本屋の主人に告げた。
「この本、ください!」
***
家に帰ると、ベディネは真っ先に机に向かった。
むろん、先ほど買った催眠術の本を読むためだ。
本には「一定のリズムで相手の前で両手を動かし、念を送り込むことで……」などと怪しげな文章が満載だった。
だが、ベディネはふむふむとのめり込んでいった。
彼女がなぜ催眠術などに興味を持ったのか、それには理由があった。
「この術を使えば、ハーベン君を落とせるかも……」
ベディネには気になっている異性がいた。
名はハーベン・シュラフ。同い年で、家柄としては伯爵家の令息となる。
さらさらの銀髪、切れ長の眼、琥珀色の瞳、整った鼻筋を持ち、学校の白い制服がよく似合う貴公子だった。
ハーベンとの出会いはこのようなものになる。
学校行事のダンスパーティーの数日前、ベディネはある男子からしつこく言い寄られていた。
「今度のパーティー、俺と一緒に踊ろうよ!」
「いえ、私は……!」
「どうせ相手いないんだろぉ?」
確かにいないが、ベディネとしてはこんな無遠慮な男とダンスをするなどまっぴらごめんだった。
いくら断っても断り切れず、もうOKするしかないのか、という時だった。
「ちょっと待て。その子とは俺が一緒に踊るんだ」
現れたのはハーベンだった。
絡まれているベディネを見かねて、助け船を出してくれたようだ。
「ハーベン! お前は他の女の子と踊るんじゃねえのか!」
「いや、俺はこの子と約束をしていた。そうだよね?」
ベディネは咄嗟に話を合わせる。
「は、はい……! 約束してました!」
ナンパ男子は不服そうだったが、ハーベンに「腕ずくでも敵わないことは分かってるだろ」と言われると、舌打ちし背中を丸めて立ち去っていった。
追い払った後、ハーベンはベディネに話しかける。
「……で、どうする? ホントは約束なんかしてないけど、もしよかったら……」
「踊りましょう!」
こうしてベディネはハーベンと共に、ダンスパーティーを楽しんだ。
とはいえ、二人が男女の仲らしいことをしたのは、後にも先にもここだけ。
その後は進展せず、会えば世間話、勉強の話、といったいわゆる友達関係に落ち着いてしまっている。
女子からのハーベンの人気は高く、ゆえに競争率も高い。ベディネとしてはなんとしても他の子を出し抜いて“落としたい”と思っていた。
なので、催眠術は彼女にとって渡りに船だったのである。
「術はマスターしたわ……明日、決行しよう!」
本を読み終えたベディネは、拳を固く握りしめた。
***
翌日、学校の昼休み。
食堂は大勢の生徒でにぎわっている。
昼食は生徒がトレイと食器を持ち、キッチンから配膳されるシステムになっている。
貴族の学校だけあって、メニューは豪華そのものである。
程よく焼けたコッペパン、魚のテリーヌ、色彩豊かなサラダ、牛肉のワイン煮、甲殻類を煮詰めたスープ。いずれの味も高級レストランのそれに匹敵する。
ベディネはハーベンを捜す。
すでに席についており、ちょうど彼の前の席が空いていた。
ベディネはすかさずそこを狙う。
「ここいい? ハーベン君」
「ん、いいよ」
貴公子らしい上品な所作でスープを飲むハーベンに、ベディネの心はときめく。
そして、今日のメニューにはサラダがあったのだが、ハーベンがキュウリだけを皿の隅に寄せていることに気づく。
「そういえばハーベン君、キュウリ苦手だったっけ」
「うん。恥ずかしい話だけど、あの歯触りや、水っぽい感じがどうも苦手でさ……」
「だったら私が食べられるようにしてあげようか?」
ハーベンはきょとんとする。
「実は私、催眠術をマスターしたの!」
「催眠術……?」
「そ。術をかければ、ハーベン君もキュウリを食べられるようになるわ!」
さっそくベディネはハーベンの眼前で、ゆらりゆらりと両手を動かし始める。
ハーベンは怪訝な顔つきでじっと見つめる。
「あなたはキュウリが好きになる。あなたはキュウリを食べられるようにな~る……」
この異様な光景に、周囲の注目も集まる。
アリナもおり、「何やってるのあの子……」とつぶやく。
「あなたはキュウリが大好きにな~る……えいっ!」
催眠術が終了する。
「これでハーベン君はキュウリが食べられるようになった……かも」
ベディネは得意げな顔でこう告げる。
ハーベンはフォークでキュウリを刺し、ためらいつつ、口に運ぶ。
ポリポリと咀嚼する。
「うん……食べられる! 食べられるよ!」
「ホント!?」
ハーベンはキュウリを平らげ、ベディネは喜ぶ。
私は本当に催眠術をマスターしたんだわ。天才だわ。と心の中で自分を褒め称える。
「じゃあ、次ね。今度はこの水を甘く感じるようにするわ」
催眠術、再び。
ハーベンはコップに入った水を飲み干すと、
「甘くなったよ」
と答える。
「じゃあ、今度は……」
コッペパンに食堂備え付けの唐辛子をふりかけて、手渡す。
「からくな~い。からく感じな~い」
さて、この催眠術の結果は――
「うん、辛くないよ。このパン」
ハーベンは唐辛子のかかったパンをモリモリ食べている。
これでベディネは確信する。私は本当に催眠術をマスターできたんだわ。
「やったぁ! どうもありがとね!」
ベディネは食堂を出て行った。
そして、残されたハーベンは独りごちた。
「さて……うがいでもしようかな」
***
授業が終わると、ベディネは真っ先に別クラスのハーベンの元に向かった。
ハーベンは帰り支度を整えているところだった。
このチャンスを逃すまいとベディネは話しかける。
「ハーベン君!」
「ん、なに?」
「今から……中庭まで来れない?」
「別にいいけど」
そのまま二人は学校の中庭に向かう。
中庭の管理には一流の庭師が雇われており、芝生が生い茂り、形の整えられた木々が立ち並んだ、気品のあるロケーションとなっている。
幸い、周囲に人はいなかった。
「こんなところで何をするの?」
ハーベンが尋ねると、ベディネは笑う。
「催眠術をかけてあげるわ」
「また? だったら教室でやればいいものを……」
「かける内容が内容だからね。さあ、やるわよ!」
ベディネは本に書いてあった通りに、両手を怪しく動かす。
ハーベンはそれに付き合うように、じっと見つめる。
昼食の時、ベディネは「キュウリが食べられるようになる」「水が甘くなる」などといった催眠をかけた。
だが、あれらは序の口に過ぎない。今回こそが本番。
「ハーベン君、あなたは私が好きにな~る、好きにな~る」
催眠術でハーベンを落とす。
自分は術をマスターしたと確信したベディネは、ついに計画を実行に移した。
「えいっ!」
ベディネが一喝する。
「……どう? 私のこと、好き?」
これにハーベンは――
「好きだよ」
望み通りの答えが返ってきた。
やった、催眠成功だわ。
ベディネは歓喜する。
さらに質問を続けてみる。
「私のこと、大好き?」
「大好きだ」
「愛してる?」
「愛してるよ」
ハーベンは完全に落ちている。
そして、ベディネに邪な考えが浮かぶ。
じゃあキスして、と頼んでみようか――
ベディネの心臓がドキドキと動く。いや、バクバクと動く。
催眠術にかかっているのだから、頼めばやってくれることは間違いない。
しかし、さすがに躊躇してしまう。
「じゃ、じゃあ……私の手を握ってくれる?」
「いいよ」
あっさり承諾し、ハーベンは両手でベディネの右手を握った。
自分より少し大きく、温かみのある手が心地よかった。
「ありがとう! それじゃ私たちは今日からカップルってことで!」
「うん、分かった」
「だけど、今日はとりあえず帰ろうか!」
「そうだね」
催眠術でカップルになったまではいいが、それ以上はどうしていいかも分からなかったので、ベディネはそのままハーベンと別れた。
***
自宅に帰り、自室のベッドに飛び込むベディネ。
先ほどのことを反芻する。
「やった、やった、やった! ハーベン君と付き合うことになっちゃった~!」
枕に顔をうずめながら足をバタバタさせる。
しかし、一抹の罪悪感も抱く。
こんな方法でハーベン君のハートを掴んでもいいのだろうか。恋愛に催眠術を使うなんてあまりにも卑怯ではないかと。
「……」
例えば、コップに水が入っている。
透き通っており、飲めばたちまち喉を潤してくれる。
しかし、その中に泥をひとつまみ入れてしまえば、水は濁る。
たとえろ過しようと、全くの元通りというわけにはいかない。
ベディネがやったことは、そういうことであった。
澄み切っていた恋心を、催眠術という邪道な手段で濁らせてしまった。
「あああっ……! 私ったらなんてことを!」
近くにあった催眠術の本を手に取る。
そういえば、まだ読んでいない箇所があった。
後書き部分は読んでいなかった。
すると――
『催眠術をマスターしても決して悪用してはいけません。まして、人の心を操るなどもってのほかです』
ベディネの行いを予知していたかのような後書きだった。
昨晩、ここを読んでおけば……。
ベディネの心に猛烈な後悔が襲いかかる。
なぜ自分は催眠術なんか使ってしまったのだろう。これなら正々堂々と告白し、振られた方がマシだった。
しかし、悔やんでももう過去を取り消すことはできない。
この日の夕食は彼女の好きな白身魚のソテーだったが、ベディネはほとんど食べることができなかった。
そして、ベッドに入り、決心を固める。
明日、ハーベン君に嫌われよう――
***
次の日の朝、ベディネは登校すると、すぐにハーベンのところに向かった。
「おはよう、ハーベン君!」
「おはよう、ベディネ」
「まだ時間あるよね? 悪いんだけど、また私に付き合ってくれない?」
「別にいいけど」
二人は教室を出て、廊下を歩き、誰もいない一角まで到着した。
本当は中庭が望ましかったが、授業前なのであそこまで連れ出す時間的余裕はなかった。
「朝からどうしたんだ?」
ハーベンが尋ねる。
ベディネは沈痛な面持ちで、自分の想いを打ち明ける。
「あのね私、昨日ハーベン君に催眠術をかけて、好きになってもらったでしょ。だけど、あんなのはよくないと思ったの。好きな人を催眠術にかけて自分の物にしようなんて最低だって反省して……だから、もう一度催眠術をかけるね!」
ベディネはハーベンの眼前で両手を怪しげに動かす。
ハーベンはそれを黙って見つめる。
「あなたは私が嫌いになる。嫌いにな~る。嫌いにな~る」
しばらく唱えた後、一喝する。
「えいっ!」
本の通りにやった。これでハーベンは自分のことを嫌いになったはず。悲しいけど、これでいい。罪を償う方法はこれしかないの。ベディネは自分を納得させる。
「私のこと嫌いになったでしょ?」
「なってないけど」
「!?」
ベディネはぎょっとする。
催眠術が効いていない。昨日と同じようにやったのに。
「もう一度聞くね。私のこと、嫌いでしょ?」
「好きだよ」
「私たち、カップルなんかじゃないよね?」
「昨日、カップルになったと思うんだけど」
これは一体どういうことなの。
私の催眠パワーが消えてしまったのかしら、とベディネは焦る。
すると、ハーベンがため息をついた。
「悪い……もっと早く言うべきだったかな。俺は最初から催眠術になんかかかってなかったんだよ」
「……!?」
ベディネは目を丸くする。
「あれ……? でもキュウリは……」
「ああ、あれは無理して食べた。でも美味しかったよ。子供の頃、兄上に無理矢理キュウリを食べさせられたのがトラウマで苦手になってたけど、どうやら克服できたみたいだ」
「じゃあ、水が甘くなったのも……」
「甘くなんかなってないよ」
「ってことは、唐辛子パンも!?」
「あれはさすがにキツかったな……。口の中が火事になった気分だった。あの後、すぐうがいしたよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
自分がとんでもない無茶振りをしていたことを知り、ベディネは謝る。
しかし、疑問も生じる。
なぜ催眠術にかかったふりなんかをしていたのだろう。かかっていないなら、そう言えば済む話だったのに。
ベディネがこれを聞くと――
「喜ぶ顔が見たくて……さ」
ハーベンが目を背け、答える。
「喜ぶ顔? どういうこと?」
「自分の催眠術が成功したと知れば、君はきっと喜ぶ。だからかかったふりをしたんだ」
「なるほど! 優しいね、ハーベン君!」
単に自分の遊びに付き合ってくれただけか、とベディネは納得する。
だが、ハーベンは意外なことを漏らす。
「いや……相手が君じゃなきゃ、俺だってこんなことしないさ」
「え?」
ハーベンは息を呑み込み、覚悟を決めたように吐き出す。
「だって俺、ベディネが好きだったから」
ベディネも息を呑んだ。ハーベンは続ける。
「最初君を助けたのは気紛れだったけど、ダンスパーティーで踊って以来、ずっと好きで……。だけど、何も進展しなくて、ずっともどかしかった。何かきっかけがあれば、なんて思いながらずっと告白を先延ばしにしてた」
そんな時、ベディネが“催眠術をマスターした”と持ちかけてきた。
「だから催眠術にかかったふりをして、その勢いに乗って『好きだ』なんて言って……。あんなことでもなきゃ、とても自分の気持ちを打ち明けるなんてできなかった。君が最低なら、俺なんてもっと最低なんだ」
ベディネと同じく、彼も自分の行いを悔いていた。
告白する勇気が出なかったので、奇抜なシチュエーションに頼ってしまった。
「だけど、だからこそ、もう一回ちゃんと言わせてもらう。好きだ、ベディネ!」
ハーベンからの告白に、ベディネは微笑んでうなずく。
「私もよ、ハーベン君」
催眠術をかけてしまった、かかったふりをしていた、とお互い懺悔しつつ、改めて二人はカップルとなった。
笑顔のベディネだが、こうもつぶやく。
「だけど催眠術をマスターできてなかったのはちょっと残念かも……」
「おいおい。でもそういうところが好きだったりするんだよな」
「ふふっ、ありがとう、ハーベン君!」
自分の行いを暴露した安堵と、思い人と結ばれた喜びを持ち帰るように、二人は教室に戻る。
その後しばらくの交際を経て、二人は卒業後に結婚しようと婚約を交わす。
両家にとってもメリットの大きい婚姻であり、順調にいけば二人はこのまま夫婦となる。
ベディネは嬉しさのあまり「これ、催眠術じゃないよね?」とつぶやき、ハーベンを苦笑いさせた。
ちなみにベディネは『催眠術入門 ~これで君も催眠術マスターだ!~』の著者がどうしているのか、貴族のネットワークを駆使し、探したことがある。
その結果、著者は怪しげな健康グッズで荒稼ぎし、現在は詐欺罪で収監されていることが判明したという。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。