変化は突然に、しかし
突然氷のように冷たい雨が降るかと思えば、
照らされている肌の細胞が壊れるのでは無いかと思う程の太陽の光を引っ提げた晴天がやって来たりもする。
このエグリスの天気というのは猫のように気まぐれだ。
引きこもりの私にはさほど関係が無いのだが。
今日も部屋の中で食事をし、趣味の魔術研究をして寝る。
ただそれの繰り返し。
「そろそろ…まずい…わね……この部屋。」
部屋は完全に外と隔離されている。
その、魑魅魍魎と表現できる、この散らかっっている光景が、この部屋とその主の生活の異様さを示している。
窓は閉め切り、月光すらカーテンに遮られ見えない。
私はここにひとり。
何かから逃げ、逃げている。
4年前、私の人生の分岐点となった事件の話。
「おい豚。豚は豚らしくしてさあ、残飯でも食ってろよ。クズ豚。」
「…………。」
「お得意だろ?その魔法学でさ、どうにかしてみろよ。あ、そっか。豚だったわ、お前。じゃあぶーっと、鳴いてみろ。」
「おい!………………豚がさぁ、可哀想だろ!!やめてやれよ!!」
「あぁ!……確かに!」
「ほら!俺の残飯、海老やるよぉ。さっさと食えよ豚。
あ、豚って言っちゃった。」
私の食事の上に、奴等はどろどろの海老をぼたぼたと垂らす。
「おい、好き嫌いはよく無いってサ、小学校で習ったろ?」
私が海老アレルギーであると知っている、奴らは。
私はそれを食べるだけで、
これから数時間呼吸をすることさえ叶わなくなるだろう。
下品な笑みをその面に浮かべている奴等の面は、
到底人間のものとは思えなかった。
私の口にそれは捩じ込まれ、
気がつけば私は、病院の硬過ぎるベッドで、
引きこもりの人生におはようと挨拶する羽目になったのだった。
4年―
春夏秋冬と流れていく時間はあまりに長く、
あまりに短いように思えた。
ただただ堕落した生活を送り、ただただ中身の無い1日1日を積み重ねる。
その私の崩れかけた精神の支えになったのは、魔術だった。
魔術は唯ひとつ、私に残された取り柄だった。
私には何も無かったのだ。
人には優しいとしか言われない、ワンパターンの褒められ方しか知らない人間、それが私。
周りの人間は、何故だか不思議だが成長する中、私だけがひとり取り残されているような、そんな漠然とした、将来への不安を抱えている。
なんでどうして、周りの人間は勝手に成長できるんだろう。
私はただひとり、自分の世界に篭って考える、だが、考えるだけで、何もしなかった。
だからこれからも私はただ、ぼんやりとした無意味な日常を送るのかと思っていた。
だが運命は…私に奇妙な。そして最後の、数奇なる転機を運び込んで来た。
外は、夜のとばりに包まれていた。
月光はカーテンで遮られ、パソコンの不健康そうな光のみが部屋の端で煌々としている。
汚らしいかすがぽつぽつと机に落ちていて、丸まったティッシューも散乱している。
部屋の隅の比較的綺麗なスペースに、魔導書がタワーを作っていて、悪臭がたむろしている。
世間の目から逃れるための、現世と隔離された空間。
そんな部屋の中心に突然、浮かんでいる剣が現れた。
…………突然この部屋に現れた剣は、元からそこにあったかの様に堂々と空中に佇んでいる。それは、パソコンの光なぞ比べものにならない程煌々と光を放っていた。
「……へ………………?」
私はただ口を開けることしか出来なかった。
突然自室の真ん中に浮かぶ剣が現れた人間の反応に正解があるとすれば私の反応はフルスコアだろう。自分の顔を鏡で観察したいくらいだ。きっと、大笑い間違いなしの間抜け顔になっている。
剣の隣には、ローブを着た謎の美しい女が居た。
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―魔法の歴史の中に、世界を守った救世主の話がある。
……今より1000年程昔。
聖剣を抜き、戦い、『滅びの冬』と対峙し、自己を犠牲にし、世界を護ったのだと言う。
『滅びの冬』――。
1000年前、この世界に終焉を齎そうとした災いの名である。
この現代でこの災いを直接知る人間など存在しないが、その名前とその悲惨さは、色濃く受け継がれている。
ただ、災いに抗う力がただ一つ存在した。
曇りなき黄金の柄に、松明を千本集めた様な光を放つ白の刀身の聖剣で、その剣には魂さえ宿るとされている。
その剣にも伝承があった。災いを乗り越え、役目を終えたその剣は魔術師と共に、いつかまた来るこの世界の冬の時、資格ある者の前に顕現すると。
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……彼女は私の部屋を観察し、
「臭いな、君の部屋。不快な匂いがするよ、本当。」
と、一言。
「……よく、言われる。」
と私。
「それにしたって限度がある。不健康な匂いというか何というかさ。君、この部屋でよく生活できるなぁ。」
……私は何故、いきなり剣と共に現れたよく分からない女に説教されているのだろう。
「ね。君、名前は?」
「……アリス。……アリス・アドラー……」
「そ。」
沈黙。
……あまりに素っ気ない返事に、ついこうやって返事した。
「……アンタは…何なのよ。」
「私ィ?マーリン。」
「マー……リン……!?」
……その名前は、救世主のお付きの魔術師兼魔女の名。
全くの予兆も無く突然現れた非日常。いや、世間から隔離されている異常な生活自体がそれを呼び寄せたのか?
マーリンと名乗る魔術師、そして引きこもりの私。
もう一度振り返りその黄金の剣を見る。つまりこの剣は。
この剣の、名は――。
「君にはその剣を抜く資格がある。……まぁ君に拒否権があると云うことには違いないがね。」
「マーリン……ってあの……マーリンか。」
マーリンと名乗った女はマイペースに喋り、私が読んでいた滅びの冬についての本を手に取った。
「……うん、『あの』マーリンに間違いないよ。」
彼女は本を丁寧な仕草で閉じ、私の魔導書タワーの上に重ねた。
彼女のその赤みがかった落ち着いた金色の長い髪、高貴な色の青で構成された、飾りが付いているローブそのどれもが、新9世紀の我が国を思わせる雰囲気である。その両の眼は透き通るように青い碧眼。どことなく淡いイメージを持った。
それは私が思う、伝承の魔術師マーリンの姿そのものであった。
マーリンは私に問いかける。
「ねえ、君、魔法少女になる気は無い?」
その美しい立ち振る舞いを変えぬまま。
「魔法…少女…」
「うんうん、ま、お決まりの問いかけから入ろうかね。」
彼女は続ける。
「ー春を望む愚者は皆、天の旅人となった。
大衆を守護せんとする王の骸は丘を作った。
汝は旅人か、
冬に抗わんとする愚者か。
魔法少女、その名前を背負うに足る者か。
であるならその剣を……抜きたまえ。」
過程がどうであろうと世界から逃げ、逃げ続け。
そうして遂にひとりになった少女の前に現れた、剣。
柄を握る。
……人の役に、立てたら。なんて、引きこもりでも夢に見る。
何故だろう。
自分を肯定したかったのか。それとも私の中にある、わずかな正義感からなのか。それかなんとなく。もう逃げたくなかっただけなのかも知れない。
4年前のあの日から止まってしまった私の人生から、目を背けたく無かっただけなのかもしれない。
これが、最後のチャンスであると、そう思ったんだ。
「……あぁ、やっぱり。君たちは――」
……選定の剣はするりと、空気の鞘から抜けた。
カリバーン。その剣を、私は抜いた―