挿話 ヒューベルテュス
屋敷が夜の支度を済ませた頃。
夫人は自分の寝室で一人、客を待っていた。
人払いは済ませてある。
就寝前の身繕いを終え、寛いだ格好になっていた。
そんな姿で客を出迎えるなどあり得ないことだが、今夜の相手は例外だった。
扉からささやかなノックが響き、待ち人が現れる。
非常に美しい男だった。光沢のある白い長衣の裾が動きに合わせて翻る。実に優雅でそんなところも美しい。軽いくせのある髪も柔らかく動いて、どこもかしこも美しく優美な男だった。
何度も逢瀬を重ねているのに見慣れるということがない。
夫人は頬を上気させてその「神官」に駆け寄った。
「ああ、神官様……!」
夫人は神官――ヒューベルテュスの衣にすがりつくように身を寄せる。
神官は優しく微笑むと夫人の手を取り、ソファに促した。
「私、不安で……それになかなか眠れなくて」
「ああ、お労しい。夫人は常に努力しておられる。誰が知ろうとしなくても、僕と神は知っていますよ」
夫人は日頃は律している感情を解き放ち、少女のようにすすり泣いた。
神官は夫人の肩を優しく抱いて宥め、落ち着くよう言葉を掛ける。
しばらくして夫人は涙を拭いつつ、告解を始めた。
家のこと、領地のこと、社交のこと、家族のこと、夫のこと。
思い付くままに語る話題はあちこちに飛び、前後もあやふやになるが、神官は静かに根気よく傾聴し、促し、時には質問し、整理し、夫人の胸の裡をありったけ語らせてくれた。
喉が嗄れても侍女を呼ぶわけにはいかない。
そう思っていたら神官は魔法で水を生成し、グラスに注いだ。
夫人は感動して飲み干す。
「ああ、体の澱が溶けて流れるよう……」
神官の涼やかな魔力に満ちた水を臓腑に感じ、うっとりする。
浄化されていくようだ。美しい神官に傅かれ、気疲れと我慢しかない日々にささくれた心が潤っていく。
いったん落ち着いたかに思えたが、グラスを見て何事かを連想したらしく、夫人の告解は再開された。
要するに愚痴である。
――数時間後、たっぷりと神官に慰められた夫人は満足して寝台に入った。
神官は枕元に腰掛け、まるで恋人のように夫人の眠りを見守る。
「神官様、そういえば辺境の聖女様がお出ましになったとか」
「随分久しぶりに聞きましたね」
「そうなのです。それで、なんとミニステル様をお連れだったそうですわ」
「……へえ、ミニステルを」
常に優しく穏やかで感情を揺らすことなど一度も無かった神官の声が冷たく響いたのを聞いて、夫人は驚いて見上げた。
しかし神官の様子に変わりは無く、気のせいだったかと目を閉じる。
「俗世におられる間に、是非一度ご挨拶したいものですわ」
「夫人にそれが必要であれば、そのように縁が巡ることでしょう」
やがて寝入った夫人を確認して、ヒューは窓を開けた。
バルコニーに出て、夜気を胸一杯に吸い込む。
室内に充満していた趣味の悪い香水の臭いが押し流されていく。
「どんどんしつこくなるな……」
ハァ、と息を吐いて、ヒューは自身の重労働を労った。
見返りがなければやってられない。「お布施」の入った重い箱を持ち、バルコニーの片隅に投げた。
いつの間にかそこに立っていた人影がぱし、と受け止める。
「お疲れ様でございます」
「本当に疲れた……でも案外事情通だしなにより口が軽いのがいい。貴重な人材ではあるんだ」
しつこいけど。とヒューは繰り返した。
今のところ労力と報酬が見合っているので我慢もできるが、これで使えなくなったら真っ先に殺してやる。いや実験用にどこかへ売り払うか。最後まで金になってくれたら許せそうだ。
ヒューはもう一度大きく息を吐く。
そして夜の闇を睨みつけながら、憎しみを込めて呟いた。
「ミニステルだって……?」
◇ ◇ ◇
――まさか、帝国に戻って早々に出くわすとは。
ヒューベルテュスは走りながら胸中で悪態をついた。
本当にどこからともなく嗅ぎ付けてきやがる。 あれも天性の勘なのか。
人殺ししか能のない野蛮人が。
古代の怨霊、一人軍隊、剣鬼、歩く死。――死神姫。
帝国で死の概念が黒髪の女の姿になったのはあの蛮人のせいだ。
下り道の通路を走り抜け、開口部が明るく見えてくる。
通路の外は崖下の荒れた岩場だった。外に出ると陽はまだ高く、そのまぶしさに一瞬、目が眩む。襟元からフードを掴み上げて被った。
岩場は馬車一台分程度の幅で地面を均した跡がある。昔はこちらから「材料」を搬入していた名残だ。
目を慣らしつつ再び走った。状況からしてこちらを追っては来ないことは判る。だがどんな気まぐれを起こすか判らない。
岩棚を下り、荒れ地に出てやっと一息ついた。
歩調を緩め、息を整えながら先を急ぐ。
改めて前方を見たところで、ヒューは驚きのあまり喉が鳴り、たたらを踏んだ。
白い影が立っていた。
輝く純白の長衣を纏い、背に身の丈ほどもある大剣を背負ったソレは、音もなく気配もなくいつの間にかそこにいた。
長衣と揃いの意匠の帽子の、幅広のつばの下から覗く瞳は無機質で、わずかに薄青く光っているのが判る。
じっとこちらを見ている。
戦慄した。
――殺されるわけにはいかない。
他の時なら運が無かったと思えなくもないが、今だけは死にたくない。
ヒューは懐に入れたものを意識した。
どうしても「これ」を持ち帰りたい。
今ここで殺されれば所持品を失うことになる。
ヒュー自身は「棺」で目覚めるだけだが、再生するのは自身の肉体と魂だけだ。
死体と所持品は死した場所に遺留する。
相変わらずソレ――シェルリは何の感情もない瞳で、じっとヒューを見ている。
猛獣と対峙しているようなものだ。
いや魔獣か。遍く全ての魔獣の皇。
見逃してもらえるという幸運に期待はしない。
だが、あの殺人鬼と違うところは交渉ができるという点だ。
ヒューはゆっくりとコートのポケットから小さな薄いケースを取り出した。
「ネウロアーク最後の二体を連れてきている。これはその契約鍵だ。これで見逃してくれないか」
沈黙が流れる。
ヒューは背に一筋、汗が流れたのを感じた。
「あのミニステル……アレアだったか? かなり気に入っていたようだぞ」
痛いような緊張を孕んだ時間が過ぎる。
ヒューはいよいよ覚悟を決める時かと思った。
「いい感じの棒だな」
出し抜けに発せられたシェルリの言葉に、反射的にビクッと肩を跳ねさせた。
見ればシェルリの視線はケースではなく、ヒューが片手に持っている杖に向けられている。
旅の途中で魔法使いらしい小道具として買った、特に銘もない安物の杖だ。
シェルリの視線は杖の上部、飾り彫りが施された部分に向けられている。
シェルリの習性を思い出して、ヒューは杖をその場に突き刺し、巻いていた飾り布に鍵のケースを押し込んだ。
「判った、杖も付けよう」
手を放し、ゆっくりと離れる。
シェルリは動かない。視線は杖に向いている。
ヒューは隘路を端に寄り、そろそろと進んだ。通れる道が限られているので、どうしたってここを通るしかない。
シェルリもそれを承知でここで張っていたのだろう。
シェルリは杖を見ている。
薄氷を踏む思いでヒューがゆっくりと進み、あと少しですれ違うという時。
「そういえば、南から帰って来たんだな」
突然思い出したようにシェルリが呟く声が聞こえた。と、思う。
判らない。
何故なら頬に重い衝撃を感じたのを最後に意識が飛んだので。
ヒューの体は数度回転して宙を飛び、岩の向こう、斜面を落下した。
バキバキと枝をへし折る音が遠くなり、やがて辺りは静まり返った。
シェルリは殴り飛ばしたヒューには見向きもせず、地面に突き刺された杖を引き抜き、ためすがめつする。
わずかに口の端が上がり、満足したように杖を掲げて鑑賞しながら、ヒューが来た道をたどって地下神殿へと向かった。
どこかで「ぎゃっ」という、やや間抜けな鳴き声がした。
◇ ◇ ◇
「……っつ」
猛烈な痛みでヒューの意識は浮上した。
体中が痛い。全身を常に木槌で打たれているかのようだ。
さすがにこれでは動きがとれない。
ヒューは殴られた頬は除外して全身を癒す。痛みが遠のき、やっと人心地ついて起き上がった。
林の中に落とされたらしい。折れた枝が散らばっている。
一応死なない程度には加減してくれたようだ。
魔動人形達は少し惜しかったがまあいい。しばらく使ってみたがヒューにとって特に有用というほどでもなかった。
今は生きたまま見逃してもらったことの方が大きい。
懐の隠しに触れ、手巾にくるまれたそれを取り出す。
年季の入った古代鍵だった。
鍵本体に魔動回路が刻まれており、複製もできない。
それはとある場所にある、古い書庫の鍵だった。
「まったく、宝の持ち腐れとはまさにこのことだよ」
どこをどう巡ってあの中年神官がこの鍵を手に入れたのか。
偶然としか言い様がない。そんなこともあるのかと驚いたぐらいだ。
あの神官が買い取った十把一絡げの古代のガラクタの中に、たまたまこの鍵が紛れ込んでいた。
それも黙っていればいいものを、自慢気に吹聴したのだから愚かすぎる。
「だから殺されて奪われる。当然だよね」
ヒューはよろよろと林の中を歩いた。
しばらく歩くと、灌木を踏みつぶしながら何か大型の気配が近付いてくる。
ヒューは足を止めて待った。
木々を押し退けて現れたのは、牛程の大きさの黒いドラゴンだった。
「キ…キタ……」
「ありがとう。お世話になるよ」
ヒューは愛想よく褒めるとその背に乗る。
「しばらく歩いてくれるかい。この先に崖があるから、そこで飛び立とう」
「ワ、ワカッタ……」
ドラゴンは周囲の木の枝をへし折りながら歩き出す。時折飛んで来る小枝にヒューは顔を顰めながら、ドラゴンの背で上半身を仰向けに倒して寝転がった。馬上で寝る時の要領だ。
「リベリカ派の進捗を確認したけれど、あれも望み薄そうだね」
むしろ別の用途で輝きそうな技術だ。
着眼点はいいのだが、薬物を併用したりその下準備に年月が必要だったり、何より「素材」の質と相性が重要な条件になるというのは、あまりうまくない。
「ダメ…ソウ……?」
「だめではないのだけれど……僕が南に行ってる間にどれだけ研究が進んだのかと思えば、あんまり変わってなくてがっかりしたよ。ッ痛てて」
治していない頬の傷を押さえて、ヒューは呻いた。
「ナオサナイ……?」
「この傷かい? 油断の戒めとして、自然治癒を待つさ」
ドラゴンは納得したようで、少し不思議に思った。
それはこの男の合理的な性格にそぐわない気がしたからだ。
ヒューは頬の腫れを手のひらで包み、痛みに耐える。
そしてうっそりと嗤った。
「大体ねぇ、神に相応しい『器』はもうあるんだよ。ずっと前から」




