第89話 決着の後:ハーディング領、サンレーヌ城にて
今回の魔神騒動において、一番泡を食ったのは、間違いなくハーディング領の上層部であろう。
ハーディング領の中央、サンレーヌ城。城上層部にある大会議室は、息も詰まるような重い空気が漂う。
今日の一連の騒動における初報は、ある意味では吉報であった。身のほど知らずにも刃を向けようという逆徒が身を置くモンブル砦。そこに魔神が現れ、攻撃を始めたというのだから。
その報を以って、今回の会議が招集されている。
件の魔神が契約下にない野良なのか、はたまた何らかの勢力による手先か……議場の誰にも見当はつかなかったが、少なくとも、革命に協力的な事象ではない。
そういった見解が、最初は支配的だった。
だが、見張りからもたらされる続報で、次第に雲行きが怪しくなっていく。
例の砦を単騎で攻めているのは、全身が黒い鎖帷子、四本の剛腕で大剣を振るい、鋼線のような長髪を持つ魔神だという。
領主に使える重臣たちは賢明にも、現場からもたらされた情報をもとに、該当する魔神の特定を即座に始めた。
そして、幸か不幸か、優秀な魔法使いや知識人たちの手で、さほど間を置かずして事が明らかになった。
――史学的に記述されるレベルの大魔神、破軍の魔将アールスナージャが顕現したのではないか、と。
これは、ハーディング領にとっては大問題であった。
まず、歴史の記述を紐解けば、あのアールスナージャが自然と出現したとは考えにくい。よほど強力な存在に惹かれたのであればともかくとして……
革命は起こったばかりであり、大局的には小競り合いすら起きていない。破軍の魔将が目にかける状況ではないはずだ。
つまるところ、何らかの意図を持って、召喚・契約が行われ、アールスナージャが動いている可能性が濃厚――
というのが、ハーディング領上層部で一致した見解である。
波及的な事象はさておき、アールスナージャがハーディング領、特にサンレーヌ城を脅かす可能性については、かなり低いと見積もられた。
なぜなら、一度顕現したのなら、同じ魔神が再度現れるまでには相当の時間がかかるからだ。強大な魔神であれば、自然発生は数十年というスパンである。召喚による魔力供給で時短しようにも、限度というものはある。
契約による使役であれば持続時間の問題もあり、他にまで魔手が伸びる可能性は低い、と。
だが、召喚・契約が可能な魔法使いが動いているのだとすれば……今回の件で、術者が負う応分の負担はあろうが、二の矢三の矢はあることだろう。
そのような、相当に高位と目される魔導師が、詳細を知られることなく領内へ手を伸ばしている。その手先を遣わしている。
革命勢力への打撃は歓迎すべきだったが、その意図をうかがわせる声明は何もない。意図が読めないこの動きは、ただただ不気味であった。
なおさらに、ハーディングの重臣たちを震え上がらせたのは、魔神と応戦する少女についての報だ。
距離を隔てている偵察の目から見ても、その少女は防戦一方でしかなかったが……
それでも、単騎で魔神と向かい合い、殺されないでいる。
では、魔神と単独で応戦しうる猛者が、このハーディング領にいるかというと、その上のルクラード王国を含めて見回しても、いるかどうかというのが実情だ。
現場に干渉しようにも、魔神が動いている背景がわからない以上、手出しはしづらい。届く報告から考えれば、現地要員を派遣したとしても、何も為せないまま巻き込まれて果てるだけだろう。
結局、話を聞かされるばかりの上層部としては、魔神とやり合う猛者が殺されるのを、ただ祈ることしかできなかった。
そこへ来たのがダメ押しの報告だ。強大な魔神に対し、有志が立ち上がって加勢したという報、それに続き、戦闘が決着したという報告。
不可解ながらも、どちらかと言えば好ましい事象と思われた魔神の出現は、結果的にこの場の面々にとっては最悪の結果に終わった。
切り結んでいた少女が戦死したわけでもなく、偵察によれば五体満足のまま。
革命勢力全体を見れば、むしろ結束が強まり、戦意が高揚。プラスの面が大きかったとさえ言えるかもしれない。
☆
魔神騒ぎは一応の終結を見せた。届いた報告に、武官文官の多くが大きな動揺を示している。強い緊張に、硬い表情の伝令は「失礼します」とだけ口にし、足早に去っていった。
立場や権力ある者にとっても――いや、だからこそと言うべきか――大変に居心地の悪い緊張と静寂の中、例外的に落ち着きを保つ者が数名。
まず、ハーディング領の領主、ジェラール・ド・ハーディング伯爵。彫りが深い顔に白髪。痩せぎすの老紳士といった風貌である。
平時においては有能な領主と、国内外でも名を知られていた彼だが、現状は大いなる逆風に悩まされている。ラヴェリアが関わる軍事的緊張の高まりの中、目立ったリーダーシップを発揮できず、世評は振るわない。
そこへ来て、昨今の革命騒ぎが、その権威を大きく毀損した格好だ。
それでもなお、会議の場において保たれる毅然さは、風評とは不釣り合いなほどに立派なものだが。
彼の他にも、冷静さを見せる者がいる。近年の軍拡路線において、頭角を示し成り上がった武官、セドリック・コーベットだ。見た目は30そこそこ、精悍で整った容姿である。
彼は、凶報舞い込んだ中にあって、目に揺るぎない意志の光を見せている。場の面々を見回し、彼は言った。
「各々方、報告程度でこのように狼狽して、なんとするのですか? 例えば、あの魔神が、敵方の仕込みかもしれぬ……そうは考えないのですか?」
「仕込み、だと?」
彼よりも年配の武官が、疑念もあらわに噛みついた。軍中枢の要職に身を置く彼の声には、やや威圧的な響きさえある。
問われたセドリックは、むしろ好都合とばかりに、どこか冷笑的な態度で発言を続けていく。
「芝居であったかもしれない、という話です。聞けば、魔神も敵対者も、ほとんどその場を動かなかったというではありませんか。それは、事前に示し合わせたものがあったから……そういう見立てもできましょう」
「そうは言うが、魔神はその場を動かさないようにするのが常套手段というではないか。相手にしても、そういう裏を把握した上で、背後を守るために場を離れられなかった。あるいは、動き出す余裕がなかったというだけかもしれぬ」
「ああ。芝居や景気づけと判断するのは、軽率に思われるな」
と、彼の見立てを疑間視する声が。すると、彼は場を見渡した後、フッと表情を柔らかくした。
「突拍子もないことを申せば、すぐに言葉が出るものですね。せっかく、ハーディング伯の御前に首を揃えたのです。報告に気圧されて像の如くになることもありますまい」
「なるほど。苦し紛れのようにも聞こえるがね」
「一人くらいは、ご賛同をいただけるものと……いやはや、それこそ希望的観測というものでしたか」
やや道化じみた風にセドリックが言葉を返すと、しかめっ面の武官たちも、少し表情を緩めた。
全体として渋さ苦さは残るものの、それでも多少は笑える程度には、心持ちが回復したようだ。
何か解決したわけではないが、上の者が委縮していては話にもならない。議論の体裁が整ったところで、建設的な話が始まった。
ハーディング領軍部としては、革命勢力全体の兵力を、かなり正確に見積もることができている。砦近辺に配した伏兵が、集団の動きを把握し、逐一報告を入れているからだ。
確かに、魔神の出現とその撃退という予期せぬ事象が起きたところではある。
しかし、結局のところは――
「戦争は一人でするものではない。思わぬ強者がいたものだが、単騎で戦況がひっくり返るわけではあるまい」
「ああ」
革命勢力の兵数は、かなり多めの概算であっても、サンレーヌ城近辺の領地を守る兵力と同数か、それを少し下回る程度でしかない。
無論、頭の痛い話ではあるが、今回の魔神との戦いを逆用し、革命への参加を促す喧伝は予想される。
だが、それも結局は水増しでしかない。相手は兵力全体を、まともな兵として運用できるわけではない。
集まっているのは、決起したばかりの平民なのだ。
一方でハーディング領正規軍は、多くの兵を国境側の防備に割いている。そのため、サンレーヌを守る兵は、新兵に近い者が多いのも確かだ。
こうした配置の在り方について、かねてより議論がなかったわけではない。蜂起の兆しは、彼らも事前にある程度は掴めていたのだ。
しかし、民衆から軍資金を徴発しておきながら、防備を厚くするのは領主の居城周辺ばかり――これでは、民意を大きく損なうことだろう。
ラヴェリアの動きが懸念でもあった。国境に兵を配さないという決断で、現場の兵からの信まで失えば、ラヴェリアからの手先に唆されるかもしれない、と。
そうなれば、ラヴェリアとしては容易に他国領土へ食い込める。開戦は時間の問題だろう。
そこで、ハーディング伯は、幕臣からの進言を待たずして、居城や近辺領地の防備より国境を固めることを臣下に命じた。軍事面を幕臣に任せることが多かった彼の、数少ない軍事的決断である。
こうした経緯があり、ハーディング領の政治権力最後の砦は、国境側に比べれば確かに心もとなくはある。
しかし、それでも官軍の兵である。正規軍としての装備、肩書の箔が与える自信と覚悟は、戦場において民兵との大きな差となろう。
加え、サンレーヌ守備軍には、相当数の精兵も控えている。精兵ばかりでなく、新兵たちも、ある程度は戦術的な機動に対応できる。
これは、寄せ集めの民兵に対する、無視できないアドバンテージだ。
結局のところ、革命勢力は、かき集めた頭数を効率よく戦力に転換するための、制度と準備を持たない。
魔神とやり合えるほどの傑出した戦士がいるとしても、一人で埋め切れる差ではない。
「あちらには、傭兵部隊があるようだが……」
「それも、物の数ではあるまい。こちらの精兵の方が、圧倒的に数が多いのだからな」
……というわけである。
今回の報告を受けて、一時は浮足立った彼らだが、各種情報を落ち着いて精査してみれば、軍事的優位が揺らぐものではない。
問題は、また別のところにあった。かねてからの懸案事項でもあるが。
「相手は、あくまで領民だ。殺しすぎないよう、可能な限り穏便に手打ちとしたいところだが……」
武官の一人が指摘すると、画の空気がピリッと引き締まった。
ハーディング領にとっての真の敵は、外圧を加え続けているラヴェリアだ。その大列強から領地を守るため、軍部は力を蓄えてきた。軍拡のための軍備徴発が相次ぎ、それを民衆は失政と見ているようだが……
軍部からすれば、民衆のそういった態度は、天に唾するようなものである。攻め込めば、ラヴェリアもただでは済まない。そう思わせる強硬的な態度を保っているおかげで、実際には仕掛けられずに平和が保たれているというのに。
とはいえ、民心が離れつつあるのも事実。そこで今回の革命である。鎮圧せねばならないのはもちろんだが、あまり殺すわけにもいかない。
当初の計略としては、モンブル砦を取らせた上で、籠城戦に持ち込ませるというものがあった。耳目寄せられる中、次なる成果も上げられないままに、連中を退散させる。
蜂起の火を、相手に芽生えた失望で鎮火させようというのだ。
そのため、砦に罠を配して相手の警戒心を引き出し、足踏みさせようと企てたのだが……
「想像以上に手際が良く、まとまりもいい」
「今回の魔神撃退で、勢いづいた可能性もある。やはり、包囲は間に合わず、会戦は避けられんか」
その時、その状況の覚悟に、面々の顔が渋くなっていく。
官軍の将官たる彼らの気が進まないのは明白だ。やり合えば勝つことを前提に、彼らはその展開を渋っている。
そこでセドリックが口を開いた。いくらか自分を低める小芝居まで打った彼だが、今の顔は険しい。
そして、放たれる言葉も。
「ある程度殺してこその交渉と、小官は考えますが」
「しかしな……」
「他国が見ておりますぞ」
ただそれだけの、短い言葉であったが、場の大勢がハッとした顔で言葉を失う。
張り詰めた緊張、静まり返った議場の中、彼は言葉を重ねていく。
「弱腰に、穏便に済ませようという事であれば、最初から軍拡に頼らねば良かった……違いますか?」
「矛先が違う……とも言い切れぬか」
老境にある一人の文官が、独り言のように口にし、セドリックはうなずいた。
「整えた軍勢を行使できぬ愚か者……そう思われれば、かえっていらぬ戦を呼び込みましょう。革命には、見せしめが必要なのです。それが成ろうと、果てようと」
最後、彼は伯爵に視線を送り、尋ねた。
「閣下は、どう思われますか?」
その問いに、伯爵は少し間を開け、しわがれ声で応えた。
「好みはせぬが、認めよう。軍は随意にせよ」




