第87話 VS破軍の魔将アールスナージャ⑦
二騎だけの戦いに、今度は革命勢力の精鋭たちが参戦した。リズの背後上空から、魔力の矢弾が数えきれないほどの群れとなって放たれる。
怒涛の波に対し、剣の一振り二振りでこれをかき消す魔神はさすがであるが……それでも、空からの増援に諦めの色はない。
一方、城壁の屋上や上層階の窓からも矢が跳ぶ。これらは、魔力だけでなく実体の矢も混ざったものだ。
空中からの攻撃同様、こちらも薙ぎ払い一つで、軽くあしらわれる。
しかし、いかに名高いアールスナージャといえど、脚の自由が効かない契約条件下で全てに対応しきれるわけではない。迎撃を免れた矢弾が魔神にまで到達し、少しずつではあるが確実に、成果が重なっていく。
矢が突き刺さった個所からは、かすかに魔力が漏れ出す。体にたたきつけられた魔法の威力が、傷口からの漏出をわずかに加速させる。
そして……つい先ほどまでは戦闘音しかなかった二騎だけの戦いに、今度は背後からの歓声が加わった。
その声の圧は、戦う者だけで成し得るようなものではない。
砦全体から響き渡るような声の波が、戦う者たちを後押ししている。
どういう流れによるものか、この戦いは、今や革命参加者のほぼ全員に知られたのだろう。
こうした状況に持っていったのが誰であれ、その判断や意図がどういうものであれ、リズはとやかく言おうとはまるで思わなかった。
ただ、彼女はますます、死ねなくなった。
そして、死なせられない者が大勢いる。
増援に対し、魔神がどういった判断を下すか、それがリズにとっては極めて大きな懸念だった。
それを知ってか知らずか、魔神は冷静な判断を下したようだ。自身へ向かう攻撃と攻撃の合間を縫い、その隙を突くように、空へ剣を一閃する構え――その兆しを、リズの心身が感じ取った。
背後で動く魔力を読み取れている彼女には、魔神の狙いがある程度把握できていた。
城壁にいる者を狙えば、殺しすぎる。目的を果たすことなく、一撃で契約違反、送還されることとなるだろう。
それは決して、相手が望む結末ではない。
取り込んだ文献を頭の中で読み漁り、直に立ち会い言葉と刃を交わし合ったリズには、相手に対するある種の信頼のようなものがあった。
本当に倒すべき相手、目標との決着を避けることはしない。目標を達せないからと言って、嫌がらせの最後っ屁に走ることもない、と。
それに、城壁にいる者よりは空中で戦う者の方が、おおむね練度が高い。
彼らはきっと、アールスナージャから見ても、対応するに値する敵だと認められたのだろう。
空にいる仲間たちへ、衝撃波が飛ぶ――その一振りの起こりに先駆け、リズは魔剣を鋭く振るった。魔力の刃が、仲間に振るわれる剣を打ち払う。
返す刀で、彼女は魔剣を一閃。放たれた三本の刃が魔神へ向かう。
それが、リズが相手に刻んだ、最初の一撃となった。胸部の黒い鎖帷子に、かなり浅くではあるが、三本の創傷が刻み込まれている。
「ほう!」と驚きつつも、どこか弾んだ声を上げる魔神に、リズは剣を構え直して言った。
「あなたの敵はこちらよ。よそ見してていいの?」
「疲労困憊と思ったのだが……なかなかどうして。フッ……ハッハハハ!」
今もなお傷を負い続ける魔神は、それでも泰然とした所作で見せつけるように、四本腕の構えをリズに向けた。
上空の空中部隊は、狙われていたことに気づいたのか、空中で細かくフォーメーションを変えている。狙いをつけさせまいという努力の表れだろう。
一方で魔神は、彼らを狙う労苦を嫌い、リズの相手に専心する構えのようだ。
戦いの流れは、革命勢力側に傾きつつある。
しかし、リズと魔神との戦いにおいて、その力関係が明確に変わったわけではない。
増援からの攻撃を受けたとしても、魔神が振るう剣の力強さと鋭さには、何ら陰りがない。
今はただ、リズの側だけにあった不明瞭なタイムリミットが、魔神にも現れたというだけのことだ。
先ほどは強気に言葉を発したものの、再び向けられる四本腕からの連撃は、リズに自覚させるレベルで、彼女の持久力を奪っていく。
それでも彼女は、狙いを別にそらす選択を、良しとしなかった。
空に上がっている者たちは、相応の技量があるだろう。一度や二度、魔神に狙われたところで、うまく切り抜けられるはず……そういう認識はリズにあった。
空に上がっている者たちは、最悪の事態に対する心構えができていることだろう。そういう確信が、リズにはあった。
そんな彼らを、失うわけにはいかなかった。
この戦いに巻き込んでしまっているという自覚、攻撃の手を仲間たちに委ねているという事実。リズは自身を、大変恥ずかしく思った。
その上で、自分が助かる可能性を高めるため、仲間を狙わせようなどというのは……
(悪い冗談だわ……)
一方で、自分が容易には死ねない立場にあるという自覚も、彼女にはあった。
一騎討ちのところに、危険を承知の上で加勢がやってきてくれた。
この戦いを、大勢が応援してくれている。
それだけで、リズの立ち位置というものは、ある程度推し量ることができる。
おそらく、失ってはならない人材と見積もられていることだろう。
自惚れは特になく、彼女はごく冷静に、そのような理解に至った。
しかし、たとえそうだとしても……他の誰かが目の前で身代わりになるのを、受け入れるわけにはいかない。
息が上がり、酷使した四肢には、かすかな痺れが走る。身動き一つで、かすかに血が混じる汗が舞い、きらめく残像になる。
今までにない疲労を感じる一方で、意識は一層に澄み渡り、戦場の事物がありありと感じられる。
自分と、敵と、取り巻く仲間たちの戦陣。
いずれ来る、いずれかの最期まで、彼女は苛烈に舞い続けた。
☆
リズの体感では何十倍にも引き延ばされていた戦闘も、ついに終わりの時がやってきた。
雨あられと打ち付けられた攻撃の前に、魔神はついに片膝をついた。無数の矢を受けたその全身からは、耐えることなく魔力の煙が立ち上っている。
魔神は結局、契約に殉じた。リズ以外を決して狙うことがなかった。
戦闘における駆け引きとして、契約が許す範囲で、他を狙うこともできただろう。
しかし、そうはしなかった。
誰も殺されずに、戦いが終わったのである。
片膝を折る魔神は、下側の腕二本で、剣を地に突き刺した。バランスを取ることに力を使っているようで、これ以上戦えそうにはとても見えない。
その様を見て、リズはその場にへたり込みたい衝動に襲われた。
だが、これが魔神の演技ではないと感じつつも、彼女は臨戦態勢を崩さない。
そんな、頑なとも言える態度で相対し続ける彼女に、魔神は声をかけた。
「これ以上は無理か……いやはや、見事であった」
笑い声の多かった魔神だが、今はずいぶんと落ち着いた態度だ。
そんな変わりようではあるが、それを笑ってやる余裕は、リズにはなかった。数の利はこちらにあり、敵は単騎で戦い抜いたのだ。
それに、契約上の縛りがなければ、魔神が負ける道理はない。
他国で革命が起きているところに、魔神を送って寄こすのは、リズから見てもかなりの暴挙のように映るが……だからこそと言うべきか、法務官たるレリエルは、自らへの代償を増やしてまで魔神の行動に制限を設けた。
そんな彼女の、慈悲か理性か……はたまた何かに、リズたちは救われた格好である。
そう思うと、勝利の味も、どこか苦々しい。幸いなのは、後ろにいる仲間たちに顔を見られないことだろうか。
気持ちうつむき加減になると、彼女の目に荒れた耕地の如き地面が映った。
(ロディアンのみなさん、元気かしら……)
ふと、そんなことを思うリズに、魔神は問いかけた。
「嬉しくはないのか?」
「まだまだ色々あってね」
含むところ多いこの返答に、魔神はただ笑った。
継承競争の件は、おそらく承知していることだろう。明かさずに契約するレリエルとも思えない。
ただ、それを明言するような言質が魔神から語られることは、ついになかった。
やがて、魔神は少しずつではあるが、身体の維持さえ困難になってきたようだ。腕が泡沫のようになって崩壊していき、取り落とした剣が音もなく地に落ちた。
地に破壊の限りをもたらした四本の剛剣も、魔力となって宙に消えていく。
「単騎だとは思ったのだがな」と、魔神は零した。
「まさか、将たるものだったとは……」
「まさか。動かしたのは私じゃないわ」
「……なるほど。そういうことにしておこうか」
《別館》という種明かしは避けたリズだが、素直な気持ちによる返答ではあった。彼女だけが動かした仲間たちではない。
魔神を構成していた魔力は、何もない宙に霧散していく。その消失は、ついに全身に行き渡った。
最期が近いことを感じ、リズは尋ねた。
「一ついい?」
「ほう」
「もう、来ない? 来られると困るけど」
彼女の偽らざる本心である。
これに対し、魔神は盛大な笑い声を上げた後、答えた。
「数十年は顕現できまい。自力では、だが。とはいえ、我が数十年を埋め合わせるほどの術師となると……いや、何も言うまい」
「そう。じゃあね」
取りつく島もなく言葉を返したリズ。
しかし、魔神の受け取り方は、リズの自己認識とは異なっていた。
「もう少し、憎まれているものと思ったが」
「思っていたより、上等だと思っただけよ」
この言葉に、魔神は高らかに、嬉しそうに笑い……声は少しずつ遠ざかり、やがては消えてなくなった。
宙に開いた黒点も、魔神と繋がれていた魔力線も、完全に消失。
最後に青い空だけが残り、大歓声が辺りを満たした。
おそらく、すぐにリズのもとへと仲間たちが駆けつけることだろう。
しかし、その前に、彼女にはやることがあった。ここまでの死闘を耐え抜いた魔剣に、彼女は話しかけていく。
「ちょっといい?」
『……何だ』
言語能力の方は、どうにか回復したようだ。魔剣にリズは、ただ「お疲れ様」と労ったが、返答はない。
ややあって、彼女は問いかけた。
「まだ、人を斬りたいと思う?」
『そのように、作られている』
「魔神との戦いはどうだった?」
待っても返答はない。晴れ渡る空を見上げ、リズは独り言のように言った。
「人を斬るときに、あなたは決して使わない。でも、私の手に余る化け物が相手になった時、力を貸してもらうわ。私が勝手に、あなたを使う。そのつもりでいて」
この宣誓に、魔剣は少ししてから問いを発した。
『貴様の家系は、ヒトに含まれるのか?』
問いかけられた言葉は、リズの耳には、煽りでもなんでもなく、純粋な疑問のように聞こえた。
そして、そのように感じてしまう自分を意識し、彼女はなんとも言えない感情を覚えた。
「うっさいわね」
引きつった顔で言葉を返し、長いため息をついた彼女の背後に、足音と歓声の波が迫ってくる。
一戦が終わったが、まだやることはいくらでもある。まずは……
(鞘の調達かしら……)
彼女の手に握られたままの魔剣は、あの激闘を経てなお、その刀身に刃こぼれ一つ負っていない。魔力を帯び、ほのかに青白く光る刃は、どこか神々しくさえあり……
血と汗に濡れた刃が、日差しを受けてきらめいた。




