第86話 VS破軍の魔将アールスナージャ⑥
巻き上げられた草土が切り刻まれ、微粒子となって滞留する中、衝撃波が次々と迫る。
一本一本が致命的な威力のそれは、距離を隔てて飛び交う刃の打ち合いであっても、リズに確かなプレッシャーを与えている。
一度怯んで動きが鈍れば、一気に崩れかねない。
死闘を繰り広げる中、彼女の内に熱い血潮が巡り、それがさらなる闘志を呼び起こす。
それでいて、意識は一層冴えわたるものがあり、彼女は冷静そのものだった。
魔神を繋ぐ魔力線への介入を果たした彼女は、魔神との剣闘に応じる中で、盗み読んだ契約の解釈を並行していく。
最初の直観通り、この戦いは第五王女レリエルの差し金によるものだ。
魔神との契約文書において、リズが未だに“王女“として扱われているのは、彼女としてもかなり気にかかるところだが……
それはさておき、この戦いにおける相手方の思惑が、着実に輪郭を帯び始めている。
リズ一人に狙いを定めた攻撃対象、移動制限等の設定は、この革命への悪影響を減らそうという意図がうかがえる。
レリエルと、彼女属するラヴェリア法務省の立場を考えれば、腑に落ちる話だ。
あくまで中道的立場の法務省だが、主戦派の台頭は好ましいことではない。ここでリズを仕留めることができればそれでよし。レリエルが次期王権を掌握し、主戦派を完全に抑え込める。それが叶わなければ……
(ま、人道を考慮して、ってところかしら)
妹の意図を完全に読み切れるわけではないが、遠慮か慈悲はあるのだろう。
この機に彼女が動いたのも、よくよく考えれば必然だったのかしれない。他の勢力の監視がある中、生半可な手勢では、忍び込ませるのが困難だ。
そこへ行くと、魔神というのは便利である。契約さえ済ませれば、魔神の側が勝手に現地で顕現してくれる。
また、契約文章さえ見られなければ、足がつくこともない。誰の差し金なのか、普通は憶測することしかできないのだ。
それに……このモンブル砦の確保において、死霊術師が動いたという事実がある。
背後で動く、ラヴェリア王位継承競争の事情を知らなければ、その死霊術師との関連に思考が向くのが自然だろう。
つまり、レリエルとしては、ちょうどいい目くらましがあったわけだ。
思いがけない難敵の登場で、いきなり死地に立たされたリズ。
しかし、仮にこの場を切り抜けたのなら、革命勢力に大きな影響を与えるものと思われる。そういう認識が、彼女にはあった。
様子見に回っていた諸勢力も、革命がなしえるものと判断し、その方向で調整を始めるかもしれない。
とはいえ、それは強大な魔神をどうにかできればの話だ。
リズが読み進めていった契約条項の内、逆利用できそうなものは少ない。
魔神に課せられている移動面の不自由を逆手に取るというのは、やはりレリエルに見抜かれていたようだ。
砦が間合いに入ってしまっている以上、リズがその場を離れれば、優先対象が砦に切り替わる。
それに加え、砦の破壊を意図した攻撃であれば、巻き込まれての犠牲者は不問となる。
防戦一方のリズとしては、この場を離れずに耐えしのぎ、どうにか増援の助力に期待するしかない。
肝になるのは、リズ以外を意図的に狙った場合、許容される犠牲者数だ。
契約の定めでは、七人までは容認し、それ以上が犠牲になった場合は送還――戦闘終了――するとある。
この、七という数字に引っかかるものを覚えたリズだが、すぐに有り得そうな理解にたどり着いた。
これは単に、キリの悪い数字を選んだだけのことだと。
仮に、キリのいい数字で条件を設定した場合、条件ギリギリの犠牲者が発生すれば、魔神の動きが目に見えて変わる可能性がある。
そうなれば、キリのいい数字に設定された容認犠牲者数に、革命勢力側が気づくかもしれない。
実際に、レリエルにそういう意図があったか定かではないが……この七という数字に、正確な意図を読もうというこれ以上の努力を、リズは放棄した。
彼女は自身の直感を信じ、これはあてずっぽうの設定でしかないと割り切った。
契約条件の分析と解釈を終えた彼女は、その情報をクリストフに飛ばしていく。
彼女の分身とも言える《別館》の魔導書を、事前に預けておいたのが幸いした。
《別館》支配下の魔導書であれば、魔法陣のみならず、文章を刻み込むことも訳はない。
しかし、厄介なのはこれからだ。
このような状況にあって、彼の側にも不測の事態が生じているかもしれない。読んでもらうまでのタイムラグ、読んだうえでどのような判断を下すか……読めないものは多い。
それに、リズから情報を送るとしても、彼女が読んだ契約文章全文を、そっくりそのまま送り込むというわけにはいかない。
――ラヴェリア聖王国の王女殿下が、魔神を遣わして、ラヴェリア姓を持つリズを名指しで殺しにかかる――契約文章最初の方から大問題だ。
検閲しなければ。
幸い、戦いに慣れてきたせいか、それとも新たな扉を開くような感覚ゆえか、切り結ぶ中でも文面を考える余裕はある。
しかし、魔剣を握るその手に汗が滲み、そればかりか、かすかな血が混ざり始めている。受けきれなかった衝撃波の断片が、かなり浅くはあるが、リズの全身に傷を残している。
そのような死闘の中にあって、今日一番、彼女の心を揺るがしたのは――
「ここで死ぬかも」という恐怖より、「ここで誰か殺されるかも」という恐怖だった。
この魔神、アールスナージャは、リズさえいなければ、この革命に関わることなどなかっただろう。
これで誰か死んだなら、単なる巻き添えである。
今更、本当のことを伝えるわけにはいかない。信じてもらえるかどうかも不確かで、仮に皆を混乱させるようなことがあれば、勢力が空中分解するかもしれない。
そんな中でリズにできることと言ったら、この魔神をどうにか追い払うこと。そして、革命を成就させることだ。
たとえ、自分の命に代えても。
それができなければ、ただの国賊だ。
仲間に対して嘘を重ねることへの強烈な罪悪感が胸中を締め付ける中、彼女はこの窮地を乗り切るため、検閲済みの文章を送り込んだ。
本当のことを伝えれば、それがかえって足を引っ張る――そういう割り切りにさえも狡さを覚えつつ、彼女は状況の攻略に徹した。
この場でできる限りの情報工作を終え、彼女は再び死闘に専心、邪念を振り切るように剣を振るっていく。
魔剣のグリップが赤いもので濡れ、握る力が一層に強くなる。
このままの状態が続けば、そう遠くない内に殺されるだろう。
しかし……戦いを続けていくうちに彼女は、それで良いとは決して思わなかったが、それで仕方ないとは思い始めた。
この状況は、自ら招いた種には違いない。
戦いを切り抜けるための助勢を求める思いは確かにあったが、たとえそれが来ないとしても、その結末に恨みは持つまい。彼女はそう心に決めた。
「どうして来てくれないの」などというのは、本当に、恥ずかしくてならない。
彼女の胸の内で、増援への淡い希望とともに、うっすらとした不安と諦念が入り混じり始めたその頃……
打ち合う二騎の時が止まるような事態が起きた。
「うぬッ?」
気がつけば、魔神の頭部に、矢が一本突き刺さっている。
リズもアールスナージャも、今の今まで気がつかなかった。
瞬間、リズに去来した思いは、「これが敵の一撃だったら死んでいた」というものだ。思いがけない事態に、彼女の背筋が、ぞくりと震える。
この一矢の到来に、激闘は停止したが、すぐに二騎の時が動き出す。
人の身であれば致命傷であろう頭部への一撃も、魔神にとっては何のこともない。相変わらず、力に満ち満ちた乱舞を繰り広げる魔神に対し、リズはやっかみを込めて叫んだ。
「まったく! 便利な体をしていらっしゃること!」
「ハッハッハ!」
高らかな笑い、飛んで来る衝撃波の嵐に顔を引きつらせるリズの脳裏では、先ほどの一矢についての思考が勝手に巡っていく。
よほどのことがなければ、そういう気配には気付くはずである。
かつてない強敵を前に、リズの知覚と精神もまた、これ以上ないほど研ぎ澄まされている。新たな段階に登ったのではないかと、彼女が感じるほどだ。
そんな鋭敏極まる知覚に、先ほどの一撃の主は、いささかの気配も気取らせなかった。
魔神の側も同様に、矢には対応しきれなかったように見える。
気配の消し方に加え、飛び交う衝撃波の間を縫う技量も見事。
これほどの技量の持ち主であれば、魔神がその場を動けないでいることを察しているとしても驚きはないが……
的が動かないとしても、見えない嵐の防壁が立ち塞がる。飛び交う刃の威力を斬り抜け、頭部という的を射貫く。
その一撃は、決してまぐれではなかったようだ。
「ムッ!?」
またも一矢が、無貌の黒い顔に突き刺さった。
すると、追撃が突き刺さった個所から、少しずつではあるが、濃い紫の魔力が漏れ出ていくのが見える。
明確な損傷だ。
その時、リズは契約文章を思い出した。
顕現にあたっての魔力は、アールスナージャが元々有していた分と、レリエルから拠出する分でのみ、賄うものとする……といった感じの文言を。
傷口から漏出する魔力の扱いがどうなるか、微妙なところではあったが、魔神がそれを吸収して取り込もうという動きはない。
おそらく、外に出た時点で周囲の魔力と混ざり合い、条件には不適当なものとなるのだろう。リズはそう判断した。
依然として、魔神とレリエル間の魔力線は健在。失われていく魔力を供給することはできる。
しかし、魔神には確かに効いている。顕現を維持できないレベルまで、魔力を漏出させれば……
戦いが始まってから初めての手傷に、アールスナージャは一度、動きを止めた。
剣を構えつつ様子を見るリズの前で、魔神は剣を一本地に突き立て、空いた手を顔の前に。矢を引き抜き、魔神は嬉しそうに笑った。
「フッ……ククク。強者という者は、居るところには居るものだな」
「そのようね」
「いや、むしろ……」
地に刺した剣を引き抜き、再び四本の剣を構え、魔神は続けた。
「お前たちは強い、というべきか」
その声は、リズとの戦いで見せたような、朗々とした喜びは少し鳴りを潜め、どこかしみじみとした響きがあった。
リズは振り向きもせず、その言葉に応じた。
「そのようね」
感謝、罪悪感、興奮……様々な感情が彼女の胸中に押し寄せる中、それらが使命感と責任感に呑み込まれていく。
今度の増援は、彼女にも感じ取れた。
彼女の後方で幾人もの魔力が陣を成し、戦意を湛え、この大敵と向かい合っている。




