第81話 VS破軍の魔将アールスナージャ①
落ちてくる物が何なのか、リズには見当がつかなかった。
だが、彼女は直感的に、あれが自分の客だろうと認識した。
彼女の背には、三人の交渉相手。逃げられては困るが、今や優先順位が完全に切り替わった。得体の知れない何かを脅威と捉え、彼女は身構える。
黒い物体の落下地点は、リズの現在地からそう遠くはない。およそ数十mほど先、砦の北門から川までの中ほどである。
多くの耳目が注意と警戒を傾ける中、それはスピードを緩めず落ち続け、地に着弾した。轟音が響き渡り、地がかすかに揺れ、川向こうの森から、鳥たちが一斉に羽ばたいていく。
――次の瞬間、黒い影が跳び出した。砦北門へ向かい、一直線に。
城壁からは、果敢にもそれを迎撃しようと、矢が繰り出される。
しかし、物理魔力両方の矢の雨に対し、それは構うことなく真正面から突き進んでくる。
近づくほどにそのディテールが判明していく中、それは腕一本を素早く薙ぐように動かした。精密な狙いの矢弾を、一薙ぎで一蹴。実体のある矢は破片となって蹴散らされ、魔力のぶつかり合いが雲となる。
瞬間的に立ち込めた魔力の霞を抜け、それがさらに猛進してくる。
背を向けた三人に、リズは鋭い口調で言った。
「中に逃げて、早く」
しかし、動き出せているのは二人だけだ。リズの中にある《遠覚》は、その場から動けないでいる一人の存在を示している。
そして、迫りくる黒い影――いや、少し光沢のあるそれが、三本の腕を動かした。それぞれ剣を手にした腕から、魔力による衝撃波が繰り出される。
もしかすると、《インフェクター》との戦いが、リズにとっては良い経験となったのかもしれない。
あの時の経験から、敵の斬撃に対する威力の見立てが、確実性と迅速性を増しているのだ。
とはいえ、《幻視》と《雷精環》あってこそのものだが。
彼女の才覚と経験が導き出した、この乱入者の攻撃は――
(ヤバいわ……)
凝集した時間感覚の中、リズは心臓が早鐘を打つのを感じた。
放たれる三本の衝撃波を相手に、リズはその軌跡を見切り、自身に向かう二本に注力することにした。
城壁へと向かう一本は捨てる。そのコース取りは威嚇のようだ。見張りを狙うものではないと見切ったが、壁への損傷は無視できない。
しかし……リズは、あえて見逃すことにした。人死が出ず、それでいて威力を把握してもらえるのなら、ちょうどいい“メッセージ”になると。
その一方、自身に向かう二本を、より確実にしのぎたいという思いもある。
彼女はありったけの集中力で《防盾》を重ね……その奥にもう一つ、緊急用に別の魔法陣を展開した。
圧縮した時の流れの中、徐々に迫る衝撃波が、魔力の盾を次々と割っていく。
それらが割られるや否や、侵攻を食い留めようと手で抑え込むように、さらに盾を構えていくリズ。
一方、遮るもののない一撃は、見立て通りに城壁へと向かう。皆の無事を彼女は祈り……自分自身の無事をも願った。
彼女がここで死ねば、皆殺しにされるかもしれない。
相手にそれだけの力を、彼女は感じている。後は、相手の意向、気分次第である。
敵が降り立ってから、ごくわずかな間の出来事ではあったが、リズはどうにか第一波を無傷でしのぎ切った。
彼女の手前を目にし、敵は人の物とは思えない、金属の反響を思わせる声で「ほう!」と言った。
声の響きには、素直な称賛と感嘆――あるいは喜びがある。
それがリズにとっては、むしろ煽りのように感じられてならないが。
奇襲を終えた敵は、どういうわけか、今は静かに佇んでいる。
彼女から少し離れたところ、剣の踏み込みでどうにか届くかどうかという間合いに立つのは、身長2.5mほどの巨人だ。
全身は、黒い光沢をもつ、きめ細かな鎖帷子に覆われており……陰部と胸に盛り上がりがある。雄々しくも艶かしいその容姿は、鎖の下から押し上げるような筋肉の隆起も合わせ、五体に生命力の漲りを感じさせる。
腕は四本、それぞれに長剣が握られている。剣自体の見た目は、平々凡々といったところ。これといったオーラのようなものはないが……持ち手がそう感じさせるのか、虚飾を廃した純粋な“剣“という風格がある。
顔の部分には穴のような闇が広がっている。その表情をうかがい知ることはできない。頭部まで覆う鎖帷子からは直接、長髪のような鋼線が伸び、風にそよぎ、陽光を受けてきらめいている。
これは、人型ではあるが、もちろん人ではない。今となっては世に珍しい魔族でもない。
――魔神である。
どういうわけか、その魔神がおとなしく立ち止まっている。
落ち着いて観察できるようになった矢先、リズの背では、ようやく交渉相手の一人が逃げていく。
彼女は、どこか安堵するものを覚えた……危機の真っただ中、ほんのわずかな安心でしかないのだが。
先程見逃した一本の衝撃波は、着弾の音が生じなかった。城壁に音もなく、深い切れ目を入れたことだろう。
今はただ、城壁の上で狼狽する声だけが、その威力を物語るのみである。
様々な物を背に、一人、魔神と相対するリズ。
彼女の前で、魔神は次の動きを示した。静かに四本の腕を持ち上げていく。交渉相手だった最後の一人の逃亡が、きっかけになったのだろうか?
相手の動きは、攻撃のための構えには違いない。一方、どこか値踏みしてくるような、余裕やゆとりも感じさせる。
そんな動きを手で制しつつ、リズは話しかけていく。
「少々よろしいかしら?」
「……ほう、いいだろう。聞こうではないか」
微妙に間を開け、魔神は言葉を返した。構えを解く気はないようだが、話を聞く気はあるらしい。
一応は効く耳のある相手に、リズは「勘違いでは?」と尋ねた。
「勘違い?」
「何を目的にいらしたのか定かではないけど……あなたが求めるものが、こんなところにあるとでも?」
すると、魔神は高らかに笑い始めた。
「フッ、ハァッハッハ! そなたのような活きのいい奴こそ、求めてやまぬ我が敵よ!」
魔神は笑い声を上げながら、四本の腕をリズに向けて振り下ろした。
だが、彼女には見え見えの攻撃である。
――同時に、これもご挨拶に過ぎない、とも。
これを容易に見切れる者にこそ、アレは用があるというのだろう。
斬られてやるつもりもないリズは、打ち下ろされる四本の斬撃を軽く回避した。四つの斬撃が地の一点に重なり、細く深い深い傷跡を残す。
リズの見切りと身のこなしに、再び感嘆の声を上げる魔神。
そこで、相手の挙動を制するように、リズは再び手を向けて口を開いた。
本格的な戦闘が始まってからであればともかく、今の内からイニシアチブを握られるわけにはいかない。話を聞く気がありそうなうちに、把握しなければならないことがある。
「あなた、お名前は?」と問うと、魔神は少し考え込む素振りを見せた後に笑った。
「人に聞く時は、自ら名乗ってから……それが人の世の習わしではないのか?」
「ああ、失礼したわね。レリエル・エル・ラヴェリアよ」
リズは考え込むでもなく、こともなげに、腹違いの妹の名をサラッと口にした。
――この状況に関与していそうな者の名を。
一瞬、場が静まり返り……魔神は先程以上のバカ笑いを始めた。
隙のように見えるが、仕掛ける気にはならない。リズはただ、相手が何か言葉で反応するのを待った。
「フッ……ククク、フハハ! では、我も名乗ろうではないか! 我が名はアールスナージャ! 破軍の魔将である!」
この、堂々とした名乗りを耳に、リズは自分の奥底へと意識を潜行させていく。
(読んだことがある奴かもしれない……)
読むのと現物とで似て非なる者としても、情報がないよりはずっといい。
「ちょっと待ってて、あなたのことは知ってるかも……」と口にし、彼女は相手の気を惹こうとした。
これに、魔神は乗った。どのように知られているか、興味があったのかもしれない。「では、少し待とう!」と宣言し、四本の腕を下ろして待つ魔神。
「この隙に奇襲をかけたければ、お好きにどうぞ」……そんな、構えのようにも映る。
一見すると無防備な魔神を前に、リズもまた、無防備に近い状態へと近づいていった。
脳裏に広がる広大な図書館の、魔神に関わる蔵書という蔵書を引っ張り出し、読んでいない物をフル回転で思い出していく――
少しして、意識が現実に戻ってきたリズは、アタリをつけた本を頭の中で捲った。該当の記述を《幻視》の視界に乗せ、実物と照らし合わせる。
「アールスナージャというと、武人をそのまま形にしたような魔神……だったかしら」
「ほう、それで?」
「……単騎で戦うような相手じゃないわね」
脳裏に浮かぶ魔神の記述と、添えられた歴史年表。その、気持ちが良いほどの暴れっぷりに、リズは閉口した。
歴史が動く戦乱の只中に現れ、動くはずだった方向とはまた別方向に歴史が動くこともしばしば。
「破軍」との称を持つが、軍どころか小国程度では力が及ばないほどの格を持つ存在が、今そこにいる。
魔神とは生物ではなく、実態は概念的なものだ。それも、凝り固まったような信念を形にしたような。
今回のアールスナージャの場合であれば、闘争心や武への求道心を形にしたような存在だ。強者との戦い、血沸き肉躍る死闘のみを常に求めている。
これら魔神たちは、ある意味では自由であり、見方によっては不自由でもある。世に生じた時から定まっている、自身の在り方通りにしか動けず、別の在り方になど一切の興味を持たない。
そんな魔神たちは、嘘つきという定めの下になければ、決して嘘をつくことがない。自己を歪める言葉に、何ら価値を認めないからだ。
つまるところ、魔神とは大変にまっすぐな者たちであり――アールスナージャもまた、度が過ぎるほどにまっすぐな魔神だ。
リズが思い出した文献には、アールスナージャ及び魔神の一般論として、そのように記載されている。
彼女の見識に感心したのか、あるいは自身についての記述に満足いったのか、魔神は「ほうほう」と相槌を打ちながら耳を傾けていた。
それが終わると、「では」と言って再び臨戦態勢に。
そうした動きの起こりをまたも制し、リズは少し慌てて言った。
「ちょっと待ちなさい!」
「これ以上、何かあるのか?」
「丸腰の相手を斬る気?」
「ふむ」
リズの指摘は、魔神も妥当なものだと認めたようだ。ゆったりとした構えになっていく魔神。
(やりづらいわね……!)
生死をかけた場特有の緊張感は当然のようにあり、それでいて間を外される感じもある。
リズとしては、相手のこうした反応に、何らかの介在が影響している可能性を高く見ているが……
それはそれとして、会話に応じつつもマイペースな様子、好戦性と同居する一種の親しげな感じは、アールスナージャ生来のもののようにも感じられる。
少ししてから、割と話が通じる魔神は答えた。
「では、少し待ってやる。五分ほどで良いだろう。その間に好きな武器を調達するがいい。用意があるのならば、攻城兵器でも構わんぞ。前々から興味はあるのでな」
「……念のために聞くけど、武器の調達と見せかけて逃げたら?」
「……答えてやる義理はないぞ?」
リズとしても、それを試してやろうという気にはならなかった。
この状況での介入、妹の名を出した時の反応……後ろで第五王女レリエルが手を引いている可能性は高い。
おそらく、何らかの契約下で動いている。応じたのはアールスナージャ自身の自由意思であろうが。
しかし、それを聞いて教えてくれる相手でもないだろう。
――そして、普通に戦って勝てる相手ではない。
今までやってきた相手とは、文字通り格が違う相手だ。
仮に、付け入る隙があるとすれば……
(あれか……)
リズは、今もなお宙の一点に留まる黒い穴を一瞥した。
そこから伸び、アールスナージャに繋がる一本の魔力線。
普段はこの世ならざるところに魔神は住む。あの魔力線は、この顕界に留まるための魔力を供給する、単なる紐帯に過ぎないのだろうか?
それとも……数多の魔神や精霊と契約を結ぶ、法務と祭祀の御子、レリエルその人に繋がっているのだろうか?
仮に相手を縛る契約があるのなら、それを見抜き、逆手に取って戦えば……
逆に言えば、それを察知し、把握するまでの間、戦って生き抜かねばならない。
そのためには、武器が必要である。交渉のためにと、今のリズは丸腰だが……生半可な武器では、大して意味がないだろう。城壁の上に呼びかけたとして、あの魔神と打ち合える剣が転がっているとも思えない。
――ただ、リズには一つ、宝剣と呼べるブツの心当たりがあった。




