第68話 善性と打算
少しの間、廊下に残る痕に目を向けていたリズだが、瞑目して長いため息をついた後、彼女は顔を上げて前を見た。
苦い思いに拘泥し、立ち止まっている余裕はない。今後の始末など、考えなければならないことはいくらでもあるのだ。
それに、いつまでもこの廊下に留まること、この場の空気を吸うことに嫌悪もあった。
一度そうと決めたら足早に動き、彼女は外に出て天を仰いだ。
敵に遣われていた亡霊はすでにない。途切れ途切れの小さな雲が浮かぶ、気持ちのいい青空が広がっている。
降り注ぐ温かな光を身に受け、彼女は深呼吸をし、長い呼気とともに色々な感情を出していった。
それでも解消しきれない、澱のような何かはあるが……
とりあえず、気を取り直した彼女は、今後の動きについて思考を巡らせた。
場を荒らされただけで終わるつもりは毛頭ない。どうにか、この状況を利用できれば、と。
彼女は、転んでもただでは起きない。それこそ、国を追われたときから――
いや、ロクでもない生まれを授かってからずっと、そうしてきている。
思案を終えた彼女は、クロードへの《念結》、その後クリストフへの《遠話》を通じて、今後の流れについての提案を行った。
☆
そもそも、この砦に入ったのは、罠の疑いがあるとして、それを調査・除去するためだ。
リズとクロードとしては、この機にかこつけて動き出す可能性がある工作員を、炙り出そうという考えもあったが。
実際、ハーディング領正規軍の物と思わしき罠は存在したが、その処理はまるで進んでいない。
罠解除のためという名目で砦に入った魔法使いは、その実、いずれも敵対勢力の排除を目的としていたのだろう。
解除どころか、新たな罠を仕掛ける反応すら感知されたほどだ。
だが、戦いが終結したことで、やっと罠の解除に取り掛かれる。
継続して罠解除に参加しようとしたリズだが、彼女が捕らえた捕虜も協力を志願した。
革命勢力からすれば、これはなんとも疑わしい限りだが……今後の協力体制をという目論見で捕らえたこともある。
そこで、まずは使ってやろうということで話がまとまった。決して捕虜同士が一緒にならないよう、監視に傭兵をつけ、遠隔通信系の魔法に目を光らせるという体制で。
傭兵からすれば、実際に戦闘が生じて終わったからこそ、安心して受け入れられる追加依頼だったようだ。
結果論ではあるが、あの場に傭兵たちが居合わせれば、信頼できる戦力を損なっていたかもしれない。
あるいは、警戒した工作員たちが尻尾を出さず、姿を潜ませ続けた可能性も。
結局、何事も起きることなく、罠の解除は無事に完了した。
監視役の傭兵たちに言わせれば、捕虜たちは寡黙さの中に後ろ暗い雰囲気を漂わせてはいたが、作業そのものについては真剣に取り組んでいたとのことだ。
ただ、革命勢力として頭が痛いのはここからで、どのように情報を開示していくかだ。
ここまでの一連の動きについては知っているのは、革命の中枢部と傭兵部隊、そしてリズと捕虜たちである。
この内、傭兵は別段の依頼がなければ情報を漏らさない。そういう信用商売だからだ。
捕虜はというと、監視付きで隔離され、下手な動きはできない。露見していない同僚がまだまだいる可能性は高いが、それは傭兵たちが目を光らせている。
こうなると、肝心なのは中枢部の動きである。この中にまだ、何か潜んでいる可能性は否めないが……
今回、砦を拠点化するにあたって、一般の構成員に対してどう伝えるべきか。その件について、リズは自分の案を提案した。それは……
☆
砦を臨む位置にある、革命勢力本陣の一区画にて。
成人男性がすっぽり入れるほどの大きさの、深い穴が五つ並んでいる。
――その中に横たわるのは、今回の罠解除で”殉死”した魔法使いたちだ。
内三名は、敵に屍人として操られ……リズの配慮で、ほとんど外的損傷を受けることなく無力化、こうして元の死体に戻っている。
残る二名は、おそらく死霊術師か屍人の手で痛めつけられたのだろう。罠解除の際に発見した傭兵の談では、「悲惨なものだった」そうだ。
それでも、どうにか見られるように洗い清めて整え、人らしい姿を皆に見せている。
この五人が、この革命における「最初の犠牲者」だ。
彼らのための墓地を前に、革命勢力の大勢が集う。
爽やかな春風が吹き抜け、草がそよいでささやかな音を立てるが、辺りに漂う湿っぽい空気はそのままだ。
ひっそりと静まり返る中、クリストフは五人の名を列挙した。作業前に、それぞれが名乗ったものであり――おそらくは偽名だろうが。
彼ら五人を直接殺めたわけではないが、リズの胸に、チクリと刺すようなものはあった。
彼女の振る舞い一つで、彼らの運命が変わっていたかもしれない。
一方で、生き残れた捕虜が、もしかすると死んでいた未来があったかもしれない。
名前も知らない、敵だった人間の死を、それぞれの運命の綾……リズは途方も無い思いに囚われるようだった。
やがて、クリストフの口から「安らかにお眠りください」と言葉が続き、それが合図になって、五人の上に土がかぶせられていく。
もちろん彼は、この五人が敵だったことを知っている。
事情を知る少数の者にとって、これは単なる茶番でしかない。
しかし、革命勢力中枢としての各勢力へのスタンスは、明確には定まっていない。
その中で工作員の存在を明るみにすることに、リズは大きなリスクを感じていた。戦いを鎮圧しても、中枢としての方針が定まらなければ、一般の構成員を安心させるのは難しい。
そうした組織下部の不安に乗じ、潜伏中の工作員に騒ぎを起こされ、さらに混乱させられる懸念も。
とはいえ、砦の解放と拠点化にあたり、作業を行ったのは衆目が知るところ。その一連の動きの中で死者が出たことは、遠からず知れ渡ることだろう。
ならば、犠牲者として彼らを弔い、それでもって他の皆の結束を促すべき――
リズからのこの提案は、大きな反対意見もなくスッと承諾され、この場にこうして実現した。
議論を紛糾させれば、他勢力の思うつぼと、中枢部が早くに割り切ったというのもあるかもしれない。
五人が完全に土の下に埋まり、何も知らない大勢が沈鬱な顔で弔意を示す。
――何も知らない顔に混ざり、事情を知る者もいるはずだ。他の勢力に悟られまいと、決して顔には出さない者。犠牲者の知人もいれば、そうでない者もいるだろう。
他の皆に合わせてうつむき加減のリズは、今なお潜んでいる彼らの事を思った。何を考え、どういう気持ちでいるのだろう、と。
彼女が、かつて敵だった者たちをきちんと弔おうと提案したのは、彼らの同僚や背後にある勢力に対する思惑も多分に含んでのことである。
このまま互いに相争うままでは、本当の大敵に利する結果となりかねない。そんな共倒れを防ぐため、まずは敵に対しても礼節ある振る舞いを見せるべき、と。
そうすることで、状況に対応する実力を見せるとともに、話が通じる相手だと、他の勢力に感じさせたいのだ――現場で今も生きる諜報員を通じて。
しかし、この献策を行ったリズの胸中は暗い。人の死をダシにして、他人の心を撫で操ろうとしているように感じてしまったからだ。
それが、この先のために必要なことだとしても。
やがて葬儀が終わると、砦を前に築いた本陣を引き払い、拠点の引っ越しが始まった。
この陣頭指揮を執るのは、革命の中枢幹部数名と傭兵団だ。幹部を旗手に、傭兵たちがそれをサポート、彼らに従って構成員たちが砦へと向かう。
なにしろ、犠牲を払って確保した拠点である。まごまごしている間に、付近にいる可能性がある伏兵が動き、奪還されても困る。
そこで、先に傭兵たちの多くを向かわせ、確実に抑えようというわけだ。
この引っ越しの動きの中、リズは本陣中央に残っていた。周囲には中枢幹部数名。
彼女に対し、まずはクリストフが大功を労った。
「本当に、お疲れさまでした」
士気に関わるためか、自身が人質に取られたことは口にしなかった。
しかし、リズだけに向けられた顔と視線には、様々な感情が渦巻いているように見える。感謝、敬意、含羞……
そんな彼にリズは微笑んだ。
と、その時、横合いから彼女に問いかけるクロードの声。
「大丈夫か? 顔色が良くないが」
この問いに、内心で「ちょうどよかった」と、つい思ってしまった自分自身に、様々な感情を覚えつつ――
リズの体が、ゆっくりと後ろに倒れていく。
「お、おい! しっかりしろよ!」
「……大丈夫、少し疲れただけだから」
仰向けに横たわる形になったリズは、目の前あたりに右腕を持っていって、張りのない声で答えた。
急に倒れた彼女のもとへ、その場の皆が駆け寄ってくる。覗き込んでくる彼らの顔は、不安や申し訳無さで塗りつぶされている。
だが、リズにとっては、青空を背に陰のある彼らの顔こそが、何よりも眩しかった。目を閉じた彼女は、「少し、休ませてください」と、やや弱々しい声音で言った。




