第411話 One For All
全てを呑み込む白い閃光に続き、頭を揺さぶる轟音が響き渡った。リズの意識が遠のいて千切れかける中、体は衝撃で吹き飛ばされていく。
状況が大きく動いた、この一瞬の後、彼女はほとんど肉体的な反射だけで姿勢を立て直した。白に染まる戦場の中、不意に映ったきらめきへ、視線が吸い寄せられる。
破断された刃が、宙に舞っている。
その時、リズの中で時が止まった。
彼女が手にしている魔剣、《インフェクター》は、もはや剣としての役割を成しえない。刃の付け根から、ほんの少し先までが残る程度の、残骸であった。
不意に訪れた、思考の空白。
しかし、それは彼女でも意識できない刹那の間のものでしかなかった。そこにいない何者かに、背なり尻なりを押し出される、名状しがたい熱い感覚が彼女を襲う。
気づいた時には、彼女は前に走り出していた。視線は宙を舞う刃の方へ。ごくわずかな間だけ停滞していた意識と思念が、その空白を恥じ入るように、目まぐるしく回転していく。
おそらく、あの魔剣は文字通り、身を挺して守ってくれたのだ。自らが刃に大量の魔力を溜め込み、その身が砕けるのを引き金に、魔力の炸裂でリズを吹き飛ばすという形で。
そして、ここまでの戦いにおいて、大魔王も相当の消耗を強いられていたようだ。リズに打ち付ける、あの魔力の奔流は、もはや感じられない。
いや、魔剣が引き起こした激発に、彼の方も少なからず衝撃を受けたのかもしれない。
憶測を働かせるしかない状況だが、確かなことも一つある。
自分は救われ、代わりに魔剣が犠牲になった。
剣の成れの果ては、もはや役に立つことはない。だが、これを投げ捨てることに強い抵抗を覚え、リズは走りながら剣を鞘に収めた。
思えば、あの魔剣こそが、最初の戦友だったのかもしれない。少なくとも、これほどの喪失感を与えてくるほどの存在になっていた。
だが、打ちひしがれてはいられない。
つい先程、自身を押し出すような感覚は、この戦いを見守るネファーレアによるものかもしれない。
たとえそうでなくとも、ひとりこの身を置く戦場においてなお、彼女は多くの存在を感じ、それが体を突き動かしていた。
歴史が、世界が、同志が、仲間が、家族が、相棒が、敵が、自分が――この戦いを見ているのだ。
宙で回転する魔剣の断片に向かって、彼女は大きく跳躍した。右手の指二本で、刃をしっかり挟み込む。
戦場を覆う光が薄まり初めた中、敵は追撃に出る様子がない。彼も彼で、先程の衝撃には体勢を崩されたようだ。今は体勢を整えつつ、別の動きを目論んでいるのかもしれない。
だが、相手の出方に構う気など、今のリズには無かった。
あの口さがない魔剣の挺身に報いるのなら、この刃を以ってそれを示す。
刃を掴んだ彼女は、指からありったけの魔力を注ぎ込んでいった。刃に焼き付けるかのような、彼女の暴力的な魔力の筆圧に、かつては魔剣も音を上げたものだ。
今は、そんな声も聞こえてこない。
淡い期待は寂寥と代わり、すぐに熱情へと取って代わられる。身を焼くような闘志をそのまま刃に乗せ、彼女は刃を投げつけた。
一方、突然の事態を前に、大魔王は追撃よりも守りを選んだようだ。身構えていた彼は、戦場を染める白光が消えかける中、リズが放つ刃の一投を見た。
すかさず、これを避けるべく重心を下にし、下肢に力を込めて動き出す。
が、リズはさらに巧みであった。刃に魔力を注ぎ込みつつ、彼女は《念動》を仕込んでいたのだ。
主の手を離れて飛ぶ刃が、術者の意志を反映して宙で回転し、激しく踊り狂う。回転に合わせ、リズは注ぎ込んでおいた魔力を操り、投げつけた刃から魔力の刃を飛ばしていく。
ごくわずかな間に思いつき、形にしたこの奇手に、大魔王は面食らった。リズが直接手にしていた時と比べれば、いま向かってくる魔力の刃など、威力は知れたものである。
だが、最初は悠々と受け止めることのできた魔刃に体を切り刻まれ、大魔王はかすかにうめき声を上げた。
飛来する魔力の刃を第一陣に、次いで魔剣だった刃が襲いかかる。一度は大魔王が射線を避けたはずだったが、リズは魔刃飛び交う乱れ打ちを隠れ蓑に、《念動》で修正をかけていた。
この策が奏功し、避けきれないと見た大魔王が、右腕を額の上に構えた。そこへ刃が深々と突き刺さる。
と同時に、リズは飛び上がりから着地した。まずは一矢報いた。感慨に耽っていられる状況でもないが……それでも若干の満足感はある。
片や、一撃を許すこととなった大魔王は、顔が渋い。その様子を目にし、リズはどことなく違和感を覚えた。
(お褒めの言葉でも投げかけそうなものだけど……)
実際に出会って間もない間柄ながら、相手のメンタリティはなんとなく把握したつもりである。
そこで彼女は、今の彼には何かしらの大きな変化があるのではないかと推察した。実際、それにはいくらか心当たりがあり……
推察を肯定するような言葉が、大魔王の口から漏れた。
「……何か仕込んだか?」
「何の話?」
一言で「仕込み」と言われても、心当たりがありすぎて絞りきれない。すっとぼけて見せるリズを前に、大魔王は苦笑いを返し、右腕に突き刺さった刃を引き抜いた。右腕ばかりでなく全身の傷も、淡い魔力の光に包まれて癒えていく。
が、浅いはずの傷も、治りが遅いように映る。
「無理が祟ったんじゃないかしら?」と笑いかけてくるリズに、大魔王はただ鼻で笑って返した。
「そなたも、相当厳しそうに見えるのだがな。武具の備えは、まだあるのか?」
実のところ、大魔王が放つ特大の一撃を耐え凌ぐべく、リズは本当に多くのものを投じてきた。ファルマーズ謹製の全身鎧は、全金属片が蒸発。書き溜めてきた魔導書、それも盾専用のものは数十冊が全滅。
そして、魔剣も――
今となっては、この五体と、多少の魔導書が残るのみである。
それでも彼女は、果敢に言葉を返した。
「帰りたいって言ったら、聞き入れてくれる?」
「まさか。本気でもなかろう?」
大魔王は、右腕から引き抜いた刃を、近くの床へと無造作に放った。静寂の中、カランカランと金属音が寂しそうに響き渡る。
(まったく……)
彼は、リズのことをよくわかっていた。戦術的にも心情的にも、逃げ帰る選択はない。
どうせ、長くは生きられない不死者の身なのだ。
いずれ果てる体で、せめてもの成果をと、彼女は再び動き出した。飛ばした魔導書と合わせ、魔弾の雨を敵に浴びせかけていく。
これに対し、大魔王も黙ってはいない。彼は機敏に動いて弾幕を避け、手刀を振るって撃ち落としていった。
しかし……リズの側も十分に消耗しているのは確かだが、彼女は大魔王の方もまた、力を消耗しているのを察した。戦闘開始直後ほど、動きに切れがない。
これは、あの大技を誘い、撃たせて消耗を誘ったことに意味があったということだろう。
他にも、事前に仕込んでおいた策が一つあった。
この玉座の間の下には、巨大な魔導石が林立する大広間がある。これら魔導石が放つ魔力を、大魔王は食事のように取り込み、自身の力を増してきた。
そんな重要な一室へ、リズはアクセルを差し向け、彼に一つ頼み事をしていた。
魔導石を破壊するのではなく、それらに一つ、魔法陣を仕込んでほしい、と。
彼に仕込んでもらったのは、既存の魔法陣を変性させる"だけ"の魔法陣である。変性効果は概ねデタラメなものであり、まともな魔法陣を台無しにする、端的に言って危険かつ無益な代物だ。
かつては、《汚染者》相手に用いた魔法陣でもある。
この変性魔法陣を経由して放たれる魔力が、魔法生物である大魔王分身体に対し、どのように作用するかはわからない。少なくとも、直接的に大きな力を発揮することはないだろうという想定はあったのだが……
今の大魔王を見たところ、取り込みづらい魔力となっている様子ではある。
おそらく、彼も自身の消耗ぶりを不思議に思い、「仕込み」を尋ねてきたのだろう。
(ロレツが回らなくなるくらい、悪酔いしてくれれば面白かったんだけど!)
しかし、こうした仕込みを経てもなお、あの大魔王には十分な力が残っている。
少なくとも、今のリズを殺し切る程度には。
今や全身鎧という守りがない中、彼女は改めて、大魔王が放つ攻撃の圧を肌で感じとっていた。
何気なく振るわれる手刀から放たれる魔力の刃は、生身においてはぞっとするほどの威力がある。余裕を持って避けようとするも、心身の疲弊は無視できないものがあり、鎧の下に着込んでいた装束程度では太刀打ちできない。
それでも、直接殴られるよりはずっとマシと、リズは力を振り絞って動き続けた。果敢に弾幕を放ち、そこを突き抜けてくる刃が、装束の布地を越えて生身まで。
まだまだ浅い傷ではあるが、徐々に増えていく戦傷が、追い詰められつつあることを示していく。
互いに大技を出し切り、後は素の力を比べ合う地道な持久戦の流れが続いた。そして――
リズが片膝をついた。全身至る所に浅い傷を負い、白い装束が血に塗れている。もっとも、こうした傷を負うのはいつものことではあったが……
これが最期であろう。
息を荒くしながらも、彼女は戦意を湛えた目で顔を上げた。
戦場に視線を巡らせると、激戦を物語る惨状が広がっている。玉座の間は荒れて形もなく、リズが操った魔導書は、大半が刻まれて無益な紙片と化している。
こうなっては攻撃の足しにもならず、大魔王もそこまでは気を配りきれない様子だ。申し訳程度の役にしか立てない紙片は無視し、視線はリズへとまっすぐに注がれている。
もはやしっかりと立つこともままならないリズ。そんな彼女から大魔王は結構な距離を開けて立っている。彼もまた油断ならない策謀家を前にしている、その自覚があるのだろう。
しかし一方で、今の彼の顔には、どことなく穏やかな感じがあった。
「もう終わりか?」
嘲るような響きはなく、単に確認の意を込めた程度の発言だ。これに答えようにも、リズは荒い息を整えるので精一杯だった。彼女の返答を待たず、大魔王は言葉を続けた。
「大したものだ」と、しみじみとした感情を込めて。
「奴は……そなたの先祖は、一人で戦ったわけではない。それが……単騎でここまで競り合うとはな」
「……ひとり? ふふ、何を寝言を……」
口をついて出る言葉に合わせ、リズは腰から魔剣を抜き放った。両手で構え、足腰に今一度、渾身の力を込めていく。
これに、大魔王は切なそうな表情を向けた。
「人の身で、よくぞここまで戦った」
「……だったら、褒美でも、もらっとこうかしら」
「ほう? 好きに申せ」
さて、何でも聞き入れてくれるのなら、迷わず自害を願うところだが――
この期に及んで、可愛げのない冷静さを保つ彼女は、確実性のある要求を口にした。
「あなたの、最高の一撃で、かかってきなさい……」
息も絶え絶えの彼女は、「出涸らしじゃ無理かしら?」と付け足し、皮肉っぽく笑った。
今にも倒れそうな彼女が、魔剣の成れの果てを両手で構えての挑発。
何かまだ、リズの側に企みがあるのかもしれない――その程度の懸念は彼にもあったことだろうが、このような挑発から逃げるわけにもいかないのだろう。
大魔王は鼻を鳴らして笑った後、両手に魔力を集め始めた。
「良いだろう。後を追わせてやる」
実のところ、この一撃をどうこうするだけの余力は、リズには残されていない。妹から供給される魔力も、底をついてしまったようだ。
しかし、たったひとつ、魔法を使えれば――
今まさに放たれんとする攻撃を前に、リズは殊勝ぶって目を閉じ、精神を集中させた。戦場に散らばる紙片の一つへ、意識を向けていく。
この一枚には、ベルハルトに持たせた魔導書と繋がる、《門》の出口となる魔法陣を刻んである。
後は、魔力を注ぎ込めば、出口ができあがる。
もっとも、出口を用意したからと言って、彼がここにやってくる保証はない。隙の大きい攻撃を誘っても、結局は自分が討たれて終わるだけかもしれない。
しかし、リズとしてはそれで良かった。
死霊術を通じ、ネファーレアがこの戦いを見てくれている。感じ取ってくれている。
この場で大魔王を倒しきれずとも、妹が得た知見を共有すれば、兄弟は――世界の指導層は、きっと正しい選択を下してくれるはず。短期決戦に目が残されているとして、再攻撃を敢行するかもしれない。あるいは、完全に長期戦へ舵切りするかもしれない。
いずれにしても、人の世がいつかきっと勝つ。
大魔王の両手から放たれる光が、徐々に強まって視界を染めていく。
最期の一撃を前にして、しかし、リズは怖じる気持ちがまったく湧いてこなかった。自身の破滅へのカウントダウンを、思考加速で目一杯引き伸ばす。
少しでも長く今にしがみつくためではなく、撃たせたことを確認した上で《門》を繋ぐため。
やがて彼女は、張り詰めた時が動き出すのを感じた。自身を討滅さんと、徐々に破壊の光が迫る。
それに飲み込まれる前に、彼女は最後の一手を成し遂げた。伏せておいた切り札に魔力が走り、次元を超える《門》が現れる。
やりきった満足感を覚えた瞬間、時の流れが一気に速まり、意識が遠のきかける。
(ま、こんなのもいっか……)
おぼろげになった視覚が、赤い閃光で染まっていく――




