第377話 私の首は王の玉璽
庭の白雪を、陽の茜と長い陰が染める。冬の寒風が木々の枝を揺らし、寂しげな音が鳴る。
寂寥感が漂う中、リズは血縁者を順に見回した。
「陛下」
「……何だ」
「あなたのことは今でも嫌いだけど、許してやるわ」
「……そうか」
「ただ……コトが終わった後、私たちの名誉回復なんて考えないでね」
顔も知らない母のことも含めての釘刺しに、父王は神妙な顔で首肯した。
続いて、話は長兄ルキウスへ。
「正直、次の王様としてはルキウス兄上……いえ、兄さんがベストなんじゃないかと思うけど」
「お言葉だな」
横から割り込んだのは、これから王にさせられる次兄ベルハルトだが、少し言ってみたというだけであろう。顔にはどこか自嘲の陰があった。
もっとも、ルキウスもルキウスで、表情には隠せない陰があるのだが。
「肝心なのは、英雄としての才だろう。それが、私にはない」
大魔王と直接対峙することになる弟妹二人に、彼は申し訳無さを滲ませた。
もっとも、彼は彼で欠くべからざる存在である。リズはうなだれた彼の後ろに手を回し、思いっきり尻を叩いた。
「陽動は兄さんの仕事でしょ? 各国の猛者を率いて敵幹部を釣り出し、可能な限り生還させる。兄さんだからこそ、そんなことを任せるんだから」
「ああ、その程度はやってやらないとな」
無茶振りには違いなかろうが、ラヴェリアが誇る将帥は、落ち着いた威厳でこれに応えた。
長兄の戦意を新たにし、リズは今作戦最大の被害者の一人と言える、次兄ベルハルトに話を向けた。
「兄さん、ごめんね」
「……何が?」
「色々と」
あまり遠慮が要らない兄に向けた、なんとも雑な謝罪。
これに気を悪くした様子はないベルハルトは、リズの頬に指を伸ばし、痛くならない程度につねった。
「私の分まで、みんなに謝っておけよ」
「……うん」
実際、ここまでは別に問題はない。
強く打ちひしがれているのは、ここからである。かなりのためらいを覚えながら、リズは姉に声をかけた。
「姉さん……」
ラヴェリア王家の中でも屈指の、しっかりとしたワーカホリックな姉は、流れ出す涙を今も止められないでいる。彼女はただ無言でリズに歩を寄せ、強く抱きしめた。
ややあって、彼女は「リズ」と、若干声を震わせて呼びかけた。
「何?」
「頑張って」
短い激励に、万感のものがある。人一倍家族思いの姉が絞り出した言葉に、リズは「うん」とだけ答えた。
続いて、謝罪はネファーレアへ。この庭に来る前にも、多くの言葉を交わしたようには思うのだが……
やはりというべきか、兄弟に感化されたように気持ちがぶり返してきたらしい。瞳を潤ませる彼女の肩に、リズは優しく手をおいた。
「我ながら、ひどいことを押し付けちゃうけど……頼りにしてるんだから」
曲がりなりにもラヴェリア王族の一員を不死者にしようなどというのは、狂気の沙汰といっても過言ではない。
その主犯を押し付けられることとなるネファーレアだが……彼女は他の兄弟たちに潤む瞳を向けた後、しっかりとうなずいた。
「力をっ、尽くします……!」
「……ありがとう」
気持ちを新たに固めてくれた妹に、リズは心からの感謝を抱いた。二人でしばらく抱き合い、リズは妹の顔を何度も優しく撫でていく。
やがて二人は身を離し、リズはアクセルに向き直った。
弟妹の中でも一番落ち着いた様子の彼だが、思う所あるのは明らか。神妙な顔の彼に、リズは小さく頭を下げた。
「ごめんね。今回も危ない役回りを任せちゃうけど……」
「……そういうのは、正直、いつものことでは……」
誰に似たのか、遠慮がなくなってきたアクセルだが……気兼ねない指摘の後、彼は顔を曇らせた。
「いつもと違うこともありますよ」
「何?」
「……姉さんのことですよ」
言われてようやく思いが至るリズは、少なからず恥じ入った。
「ごめんね」
「いいですよ。僕らも腹は括ってますし……絶対に、勝って帰りましょう」
控えめな弟の、揺るぎない決心に、リズは力強くうなずいた。
次いで、リズの視線はレリエルへ。
ある意味で彼女は、今回の企ての共犯者かもしれない。祭祀・法務に携わる彼女の知見を元に、相談を重ねた上で、リズはこの挙行に実現可能性を見出している。
そして……レリエルには、自身の立場を活かしてこの蛮行を止めるタイミングが、何度かあったはずだ。
そうした「罪の意識」が、実際、彼女にはあった。
「その気になれば、私は……もっともらしいことを言って、辞めさせることができました」
この、「もっともらしいこと」という言質に、リズは後押しの示唆を感じた。
思い留めさせる言葉が、結局のところは出任せでしかないのなら……彼女の見識は、この作戦に対して肯定的である。
彼女の立場としても、これは認めざるをえないものだっただろう。
だが、彼女の中に、この作戦を認められない部分もある。リズはよくわかっていた。
高位の法務官にありながら、神聖なる継承競争を「悪法も法」と表現した妹の気持ちを。
普段は、兄弟中でも一際、感情が表に出てこない自制的な妹は、一度切れた言葉を継ぐことができないでいた。ただ、口を真一門に結んで、体を震わせている。
そんな妹に、リズは抱擁の手を伸ばした。
「本当にごめんね。最初に『判断』なんて任せてしまって」
「わ、私は……ただの卑怯者ですっ! 自分の気持ちも、ついには明らかにせず、お姉様の決断に乗ることだけしか……!」
「口を挟むだけが責任じゃないでしょ。信じることも、認めることも……私のことを汲み取って、耐えてくれたんでしょ」
妹を抱きしめた胸元から、堰を切った感情が溢れ出す。声を上げて泣く妹を、リズはずっと受け止め続けた。
やがて、抱え込んできたものを吐き出したらしい妹は、自らそっと身を離した。
「これから大事に取り掛かるというのに、本当にご迷惑を……」
この、何とも折り目正しく生真面目な妹を、リズは愛おしく思って微笑んだ。
「いいのよ……さて、最後はファルね」
残った末弟は――リズが視線を向けるや、きまり悪そうにそっぽを向いた。
「何だよ、まるで流れ作業みたいにさ……」
まぁ、順番ではあったのだが――
義務的に処理しているように思われたというよりは、”こんなこと”をしてくれた姉に対する、彼なりの反抗であろう。
だが、リズには彼に対して謝るべき、特段の事情があった。
「ごめんね。今まで無理難題押し付けちゃって」
今作戦を世界各国の権力者に投げかけた、あの11月20日から、今日までで二ヶ月あまり。ファルマーズは、過去のリズたちが代々引き継いできた情報を元に、新型の魔道具をこしらえる作業にかかりきりであった。
大魔王ロドキエルを打ち倒すという大目標において、こちら側の戦力を充実させる彼の存在は、かなり大きなものである。
そして……その立場を、彼自身は決して誇らしく思っていないことなど、リズは先刻承知していた。その上で、責任ある仕事を押し付けていたのだ。
「ごめんね」
改めて、心からの謝罪を口にするリズに、ファルマーズはうなだれたまま応じた。
「……そういうの、帰ってから改めて言ってよ」
「うん、約束する。きっと、勝って帰るわ……あなたの手を借りておいて、負けるような私じゃない……でしょ?」
「そうだぞ。私もいるからな」
横から割って入る、一応は今回の主役のベルハルト。彼は兄弟内でも特に仲のいい末弟の背を、遠慮なしに何度も叩いた。
「痛いって、このバカ」
「そりゃ、お前と比べればバカだろうけどさぁ……」
「そういうこと言ってんじゃないんだよ、バカッ!」
これから王になる兄も、こうなっては形無しである。
叩かれた分を叩き返した後……ファルマーズは恥じらう様子を見せ、うつむき加減になって言った。
「僕も……」
消え入りそうな声は、そこで途切れて聞こえなくなったが、何を求めているのかは言われるまでもなかった。
「うん」
リズは最後に、末弟を優しく抱き寄せた。
これで一通り、最期の挨拶が終わった。
ネファーレアのことは――死霊術師としての手腕については、疑う余地のない信頼がある。大魔王と戦えるだけの駒にしてくれる、そういった確信がある。
だが、ここに帰って来られる保証はない。ファルマーズに約束したばかりのリズではあったが、内心はリアリストであった。約束は士気を高めるため。成らないかもしれない帰還の可能性を、少しでも高めるため――
それに……少なくとも、人としての生は、この場で終えることになる。
それも、間もなく。
リズは無言で死場に歩を進め、静かに腰を落とした。
継承の儀の諸々は、彼女の死後に執り行われる。
その儀式の前段――競争の標的を、正統な継承権者が討ち倒す。
いよいよその時が近づき、兄弟は声を出すのを堪えて、じっと見守る構えを取った。
後ろにベルハルトが回り込み、魔力の流れを感じ取ったリズは、最悪の仕事を押し付けてしまった兄に声をかけた。
「ミスらないでね」
「……まったく!」
これから用いるのは、《貫徹の矢》。死後も戦うリズの体に損傷を与えず、ただ命だけを奪うための攻撃選択である。
狙いを誤れば、妹を無為に苦しませるだけとなる。無論、国内外に武名を轟かせるベルハルトの才腕を持ってすれば、動かない的など……
――いや、無抵抗だからこそ、彼には――
「指が震える……こんな形で人を殺めるなんて、初めてだからかな……」
場が静まり返り、冬の風が物寂しい庭を撫でていく。
「寒いからじゃない?」と、少し冗談っぽく返すリズだが、ベルハルトは鼻で笑った。
「温まるような何かがあればいいんだがなぁ」
「……仕方ないひとね、指貸して」
兄の人間らしさを、心の内では好ましく、さらには申し訳なくも思いつつ、リズは言った。すぐに、肩の上からニュッと伸びてきた指に、彼女は手を伸ばして包み込む。
「温まった?」
「……まぁ、少しはな」
「……私だって、死ぬのは怖いわ」
赤裸々な気持ちを打ち明けるリズに対し、返ってくる言葉はない。
しかし、彼女にはもっと大切な想いがあった。
「でも、このままが続いて、親しい人がなくなるかもしれない。そう思う方が、ずっと怖い」
「……私たちは、今まさに、その一人を失おうとしているんだぞ」
つい、口をついて出た本音であろう。彼はすぐに、発言を改めた。
「いや、すまない。今になって、こんな弱音を……」
「いえ、いいの」
それから、リズは空を見上げた。
暮れた空は、茜から紫へ。紫は黒へ。移り変わるグラデーションの中、綺羅星が瞬いている。
名を与えられた星も、そうでない星も。
「死ぬのは、私一人で十分だわ」
今では親愛の念を抱く兄弟の背を、無情にも蹴飛ばすような言葉。
この王室の根本を表す、端的で冷たい言葉に、ベルハルトは強く瞑目した。
「わかった。私は自分の責を果たそう」
これで、兄が――いや、次なる王が意を決した。その確信が、リズにはあった。
同時に、心無い言葉を投げかけた罪悪感も。
そして、変わらない死の恐怖も。
これまでに幾度となく、彼女は死の経験を乗り越えてきた。
しかし、いずれも仮初めの死ではあった。自分の全存在が消えてなくなるというものではない。時として精神の拷問のように感じることはあっても、彼女は全てを乗り越えてきた。
尋常ではない闘争心と使命感、ふてぶてしいまでの自負心によって。
だが、今日は本当に死ぬ日だ。
もしかしたら、死者を蘇らせる禁呪が存在するかも――そういった希望自体、リズも胸に抱いているものの、決して期待できるものではない。
現実的に考えれば、ここで死に、ネファーレアの手で不死者になっている延長線の先が本物の最後であろう。
胸の内で高鳴るものはあった。
だが……逃げ出そうという気持ちが湧くことは、ついに無かった。今、目を閉じて思い出すのは、あり得た未来の中で心に刻まれた光景――
守るべき者、親しい人たちの死。
(死ぬのは、私だけで十分だわ)
自分の根底にあるものを再認識し、これから死ぬばかりのリズは心を燃やした。
やがて、後方で静かな魔力の高まりを感じ取り……どこか安堵を覚え、心が落ち着いていく。
死ぬのは自分ひとりでも、戦うのは一人だけではない。
最後の最後、闘志を保ちつつも、安らかな思いを胸に――
彼女の意識は、そこで途絶えた。




