第362話 聖王歴613年11月5日、2日目
ハッとして目を覚ましたリズは、込み上げる何かを胸に感じて強くせき込んだ。何らかの体の反射的な作用によって、それを強いられているようであった。全身には、じんわりと熱く湿った感じ。これは寝汗だろうか。
そこへ「だ、大丈夫か?」と、横から届く聞き覚えのある声。目を閉じたまま涙声になりながらも、リズは「へ、平気です」と答えた。
不可解なせき込みから回復し、目元を拭った彼女は周囲を見回した。
辺り一面が暗灰色の空間。周囲よりも少し濃い色の地面には、赤紫の光を放つ巨大な魔法陣が刻み込まれている。
その中央に、簡素な寝具を敷いて寝ていた、ゆったりした寝間着姿のリズ。その周りにいるのは、他のダンジョンの魔王たち。
ここは、フィルブレイスを主とするダンジョンの、新たに作られた最奥部。
大掛かりな禁呪をどうにか行使するためだけに誂えられた空間である。
寝起きの頭に軽く指を当て、リズは思考を巡らせた。
これから「何をするつもり」であったか、その経緯は思い出せる。
では、「実際にどうなった」か。記憶を探ろうにも、答えはどこまでも続く霞の向こうにあるようで――
しかし、少なくとも、この禁呪がしっかりと機能したことだけは確信できる。
ゆっくりと上肢を起こしたリズは、傍らの協力者たちに尋ねた。
「今日は、聖王歴613年11月5日で、あっていますか?」
「ああ、そうだが……」
いきなりこのような事をリズが尋ねてきたのは、彼らにとって一つの合図であった。 本来ならば、世捨て人であった魔王らが人間の暦に詳しいはずもなく、そんな彼らにリズが確認したというのだから。
「ということは、戻ってきたんだな?」
「はい。どうにかといったところ、ですが」
力なく微笑んで見せるリズに、周りの魔族らは味のある微妙な笑みを返した。
さて、起床して立ち上がろうとしたリズだが……思うように体が動かず、バランスを崩しかける。すかさず、サッと動いて支えに来る仲間が一人。
「エリザベータ、本当に大丈夫なのか?」
「……どうでしょう、今日一日はポンコツかもしれません」
自分一人でバランスを取り戻したリズは、やや冗談めかした言葉で返した。
これが自分の体だというのは確信できるが、動かそうという意思に体がついていかない。心身の間の連携が、どうも手際悪くなった感じである。
いくらかすれば、こちらの体にも馴染んでくることだろうが……
(先が思いやられるわ……)
思わぬ副作用が、さっそく一つ。呆れたような笑みで、彼女はため息を一つ零すのだった。
その後、気の利く魔王に《門》を作ってもらい、リズはダンジョンの玄関口へと転移した。
そこで待機していたのは、ニコラとルーリリラの二人。こうしてリズがやってきただけでは、どうなっているのか判断しかねる二人だが……
ややぎこちないリズの動きに、何か察するところがあったのかもしれない。普段は柔和な顔の二人に、緊張感が走り始める。
「もしかして」と口にするニコラに、リズはうなずいた。
「まずは一回目、うまくいったわ」
成功の報告ではあったのだが、手放しで喜べるものでもない。なんとも言えない表情だが、とりあえず安堵は読み取れる顔の親友二人に、リズは感謝を抱いた。
リズが用いていた――厳密に言えば、今も使用中の――禁呪、《時の夢》。
この禁呪を使用する際、まずは魔法陣の中で対象者が就寝する必要がある。
然る後、起き上がった対象者が、禁呪が持続している間に死亡すれば効果発動。起床直前の時点における対象者の身体に、死んだはずの対象者の精神を帰還させるという禁呪である。
これを利用し、死んで情報を持ち帰ろうというのが、リズの企みであった。
例えば、世界各所を巡っての拠点奪還の連続。その場で倒される危険性も考慮してはいたものの、実際には大魔王の側近等、幹部クラスを呼び出して情報を抜く意味合いが強いものであった。
しかしながら、相手の腰が重いことから方向転換し、ヴィシオス本国への潜入を敢行。
相応の情報を得つつも、結局は――といったところである。
死をものともしない暴挙を可能にする、この《時の夢》という禁呪だが、問題は数多い。
まず、基本的な難易度。これは、ダンジョンという一国一城を支配していた魔王らの協力により禁呪専用の空間を用意することで、どうにか実現にまでこぎつけている。だが……
本当の問題は、むしろ魔法が機能してしまってからにあった。
三人で同じテーブルに着く中、リズは頬杖をついた。目を閉じ、精神を集中させていく。が……
「思い出せますか?」
「……ちょっと、微妙ね。時間が経てば違うかもだけど」
記憶力については自他も認めるところのリズだが、前世の事がなかなか思い出せない。
より正確には、《時の夢》の中で目覚めてから、死を迎えるまでのことが。
これが、《時の夢》が抱える大きな欠陥の一つである。死を夢のように無かったことできるわけではない。あくまで、死を経験した霊魂を、元の肉体に戻す禁呪である。
結局のところ、精神的には死を経験したままなのだ。
自分という全存在が抹消される感覚に襲われる中、それでも堪え凌いだところにやってくるのは、摂理を捻じ曲げる禁呪の力。
これらに耐えきれず、《時の夢》の魔法陣の中で寝入った対象者が、次に起きた時には廃人同然になっていた。あるいは二度と起きることはなかったという事象も、禁書の中にはご丁寧に記してあった。
当人にしか知りえない何かを経験した後、取り戻しがつかなくなった精神だけが、律義にも魔法の働きで無事な肉体へ戻されたということだ。
実のところ、単に戻ってこれたというだけの”成功例”の方が希少である。他は死屍累々といったところだ。
(ま、戻ってこれただけマシかしら)
親友二人の顔を見ながら、リズはそんなことを思った。
帰ってくる絶対の保証はなかったが、期待できる要素はあった。
長兄ルキウスと、この島の山頂で戦った時の事だ。リズは自分の精神世界、《叡智の間》から取り出した分身体を、ダンジョン経由で現実世界へ呼び出し、その中に自分の精神を宿らせて戦っていた。
その上で敗北し、継承競争で標的を倒したという事実を――中途半端な形で――兄に握らせ、やりすごそうとした。
その際、分身の死という形で精神もまた死を経験し、本来の肉体へ戻るというプロセスを経ている。
蘇生でひと悶着あったのだが、どうにかうまくいったこの経験は、《時の夢》による巻き戻しと類似する点も多い。
実際、勝手知ったるとまでは言えないが、未経験者とも言い切れない。そんな自分の「やれる」という気持ちが、うまく作用したのだろうと、リズは考えている。
ただ、危険を孕むとはいえ、うまく使いこなせば絶大な効果を発揮する可能性に満ちた、この《時の夢》という禁呪だが、禁書庫奥深くに封印されるだけの理由がまだあった。
死亡後、時を超えて元に戻る中、精神は自分で経験したばかりの経路での未来を知っている。つまるところ、そうやって現在に持ち帰る、あり得た未来の情報こそがこの禁呪最大の目的と言える。
しかし、その″そもそもの大目的″を満足になし得ないのだ。
死の経験と、時を戻す禁呪の力。両方が合わさったのなら、このような禁呪に手を染めようという逸材や鬼才でさえ、抗いがたい何かに精神を弄ばれる。
それはリズとて例外ではない。
「……何かこう、きっかけでもあれば思い出せそうではあるんだけど」
いくら記憶を探ろうとしても、厚い霞の向こうにかすかな影を見出す、頼りなさに包まれるばかり。
「思い出すのは厳しいわ」
と、彼女はため息をついた。
ここまでは、相当うまくいった方の――すなわち、きちんと生還できただけの先人たちと同様である。
彼らは、素晴らしい恩恵をもたらす可能性があるだけの禁呪に、賢明にも見切りをつけて封印した。
しかし……心のどこかで、「いつの日か、誰かが」という思いはあったのかもしれない。
――あるいは、同じ労苦と失望を味わってほしかったか。
真相はともあれ、この禁呪は封印されながらも、抹消されることはなく後世に残ったのだ。数多くの、悲惨な記録とともに。
そして、リズは先人たちとは一味違っていた。
彼女なりに目算があって、危険かつ無価値かもしれないこの禁呪に目を付けていた。
自力で思い出そうという努力は、この禁呪の影響下にあったことに対する、一種の自己診断にすぎない。
やはりというべきか、事前の想定通り、まともに前世を思い出せない事を確認した彼女は、いよいよ本命に移ることにした。




