第361話 父と娘
話の流れから、その密偵というのが自身の生母であることは、リズには容易に察することができた。
というよりも、過去に推理で同様の結果へと至っており、大聖廟へ忍び込んだ折、妹のレリエルとの会話からある程度の事実確認もできている。
だが――それでも高鳴るものはある。それをすでに感じることのできない体でありながらも。固唾を呑んで、リズは先を促した。
「……それで?」
「その当時の私は……再三になるが、気鬱になっていて……どうかしていた。平和志向となったとはいえ、ラヴェリアは依然として強大だ。そんな我が国へ忍び込んだという密偵に、興味がないこともなかった。一目見ようと、彼女が捕らえられた牢へと案内してもらった」
それから、水を打ったような沈黙が流れ……彼は続けた。
「密偵は、見栄えのする女性だった。重臣が籠絡されかけたということもあって、才知に富む人物でもあったのだろう。その時……ふと、突拍子もない考えが脳裏に浮かんだ。この者と子を儲けたら、世の中どうなるものだろうか、と。半ば自暴自棄になっての、愚にもつかない思い付きという自覚はあった。だが……」
その愚挙の結果として生まれた実の娘を前に、彼は複雑な表情を浮かべ、一度口を閉ざした。
「……現実逃避のような考えが脳裏に浮かんだその時、周囲の者の影の中に、私はかすかな希望を見出した。災禍の中で果てる数々の死の中に、わずかばかりでしかなかったが……人が老いて死んでいく、あるべき姿の未来が復活したように見えた」
「それで……産ませたのね」
「決断してからが大変だったがな」
王は力なく苦笑いし、その後の顛末を語った。
世界有数の権力者といえど、自分の意志をそっくりそのまま実現できるわけではない。融和路線に舵を切ったこの王にとっては、なおさらの事であった。
だが、当時は第三子まで生まれていたことが、ちょうど良い口実になった。彼自身も経験している継承競争について、否応なしに考えを巡らせねばならない状況にあり……
加えて、国の”伝統”を曲げてまで諸国との友好を重視したことで、少なからず伝統的な保守層との軋轢もあった。
それらが原因となって王が精神的に疲弊しているものと、当時の重臣たちは認識していたという。
こうした種々の事情を自ら認識した上で、王は国に忍び込んだ密偵を懐胎させることについて、以下のように主張した。
『次なる継承競争において、正統な子女らが競い合う狩りの獲物として、王室に不適格な庶子を用意しておくのも良いのではないか』
そして、重臣たちは――この君主を定めた例の競争において、血みどろの惨劇を経験していた。この冷酷なアイデアは、君命ということもあり、非公式とすることを前提に通ったという。
また、この選択を下してもなお、王が目にする人の影の中には、わずかに現れた希望が途絶えることはなかったという。
――すなわち、人としての道義に外れようと、これが正しい道なのではないかと。
「……とはいえ、状況はわずかにしか好転しなかった。それに……獲物を用意するためだとしても、後宮の妃たちは決して良い気がしなかっただろう。私の判断が彼女らを苦しめたのは間違いない」
その時、リズは意識が飛びかけるのを感じた。話に耳を傾けていたネファーレアが、相当心を揺さぶられたのだろう。
禁呪の制御に乱れが生じ、仮初めの命が宙に飛ばされかけたのだ。
「ご、ごめんなさい……」
ハッとしてから狼狽し、すぐ真剣に謝意を表明する妹に、リズは「いいのよ」と応じた。
そんな一幕に、王も若干ではあるが驚きを示し、すぐに冷静さを取り戻して話を急いだ。
「エリザベータの後にも、私は妃たちとの間に子を授かっていった。そのたびに、人の影に見る最期の光景に、少しずつ希望が広がるようではあったが……結局、さらなる大きな闇の、ごく一部を占めるに留まった。もはや私にできることはないと思い……そこで、私の中の何かが崩れ落ちた」
「……でも、今は違うじゃない」
魔族の襲来を受け、再び王たるものとしての威厳を発揮し始めた父王にリズが言葉を向けると、彼は皮肉めいた含み笑いを漏らした。
「世の中を平和に近づけたつもりで、その実、大きな災いがにじり寄っている。私にとっては、大いなる謎だった。この目がおかしくなったのではないか……いや、そもそもこれが正しいなどとは決して思えんが……ともあれ、私の存在を賭けた積年の疑問だった。その答えが大々的に示され……」
言葉を区切ると、彼はシニカルな笑みを浮かべて一息ついた。
「妙な話だが、魔族の襲来を知った時、かすかな安堵を感じたことを覚えている」
「安堵?」
「私が見た、人の影の中の惨禍は、人の手によるものではなかったのだ、と」
そう言って彼は口を閉ざした。
父の半生から自身の出生まで、あらかた知ることはできた。話はこれで終わりかとリズが思ったところ、父王は顔を上げ、まっすぐな視線を向けてくる。
「話を聞いていて、お前であればすぐに分かったことと思うが……私の力は制約もある。私自身の死は見えず、お前たち実子についても、この力からすれば半分は私なのだろう。影は薄く、判然としない」
「そう……肝心なところで役に立たないのね」
「まったくだ」
辛辣な言葉に、自嘲の笑みを浮かべる父王だが、この言葉が彼に受け入れられる確信がリズにはあった。
授かった力として仕方なく使ってはいるものの、彼自身は決して快く思わず、むしろ必要悪のように捉えているように思えてならないからだ。
そんな王の目、《死端の眼》の至らないところを、彼は続けて口にした。
「それに、私に見えるのは、あり得る最期の光景だけだ。その過程まではわからない」
「でも、推測はしてきたんでしょ」
「それも、いつしかやめてしまった。この手に最高の権力があろうとも、運命の前には無力だと悟り……人々の最期を少しずつ操る選択を下し続けておきながら、その過程をまっすぐ見つめることから逃避していた」
そして彼は、この場にいる三人の娘を順に見回した。
「お前たちがどういった気持ちで生きてきたのか、私には知る由もない……いや、知ろうとするだけの気概もなかった。世の中がこうなってしまうまでは……」
リズの傍らで、かすかにすすり泣く二人の姉妹。泣くことなく、整った顔でいる一人。最期が近づきつつあるこの娘に、王は声をかけた。
「エリザベータ。今更お前に謝ろうなどとは……いや……本当に、すまなかった」
世界最強の権力者は、最後の最後になって、深く頭を下げた。
この父王に頭を下げさせたのは、国――それどころか世界を見渡しても、自分一人かもしれない。
「今更謝られたって、やっぱり嫌いだわ」
そっけなく言い放つリズだが、拒絶感を表にした口ぶりではない。どちらかといえば、気兼ねなく発した憎まれ口のような。
実のところ、「謝ったからって」という想いはある。
だが一方で、この父王も彼なりに、どうしようもない重荷と枷を強いられた人生を歩んできたのだ。失明などに逃げることなく。
親としては本当にどうかと思うが、呪いのような自身の力と向き合ってきた、一人の為政者である。この父の在り方を、そこまで誇らしくは思わなかったが、最低限の納得だけはできた。それに……
「同族嫌悪かもね」と、リズは言った。
「私も、大事なことは誰にも言わず、一人で抱え込んじゃう質だから」
とはいえ、それは兄弟全員に当てはまるかもしれない。戦いの中で想いを交わし合えた彼らのことを思い出し、リズは少し表情を柔らかくした。
――そして、意識が少しずつ希薄になっていくのを感じた。
それは、ここに留まろうという執着が薄れたから。当事者だからこその直感で、彼女は悟った。
その答えに至り、彼女は改めて、自身の出生が自分の中で非常に大きなウェイトを占めていることを実感した。
残された時間は少ない。彼女はまず、ここまで頑張ってくれた妹に感謝の言葉を述べた。
「無理させちゃったわね。途中で私がダメになっても……それはあなたのおかげで満足できたってことだから。気に病まないで」
「お、お姉さま……」
声を震わせ、汗と涙で顔を濡らしながらも、術師としての務めを果たし続ける妹に、リズは柔らかな笑みを向けた。
(さて……)
言わずに死ぬつもりではあったが、気が変わってきた。話すにも話しづらい、重要な秘密を。
「フィル様、本当のことを話します」
これだけで、多くを悟ったのか、はたまた全幅の信頼を寄せているのか。魔族の友は、ただ優しい微笑を浮かべてうなずいた。
この承認を受け、リズは隠し事を打ち明けていく。
「実を言うと、陛下に会いにやってきた頃、ラヴェリア大図書館の地下禁書庫に何度も忍び込んでいて……」
突然の告白に、血縁者らが目を白黒させる。だが、疑いはしなかったのだろう。
やりかねないし、それを成し得る奴だと。
王はただ、「役に立ったか」と優しく問いかけた。
「禁呪をそう多く覚える余裕はなくて……どうにか実用までこぎつけたのは二つだけ。その一つを、実は今も使っていて」
この、死にかけの身になってなお、禁呪が効果を発揮している――
話の流れに空気が変わり、姉妹が息を呑み、あくまで平静を保つ王が真剣な眼差しを向けて問う。
「何という禁呪だ?」
「《時の夢》」
短く答えたリズは、薄れゆく視界の中、大いに驚く父と妹の姿を見た。
この二人であれば、何かの拍子に知っていても、そうおかしくはない。
(でも、この二人がこうも驚くなんて。いいもの見ちゃったかも……)
この、そこはかとない満足感が、もしかすると最期の一押しになってしまったのかもしれない。この現実と自身の結びつきが途絶え始め、もはや他人との意思疎通もできなくなってしまった。
今や周囲と断絶された、精神の残滓の中、リズは思った。
皆を残してしまうことに、心苦しいものはある。
――しかし、こちらはこちらで、うまくやってくれることだろう。
その未来を切り開くため、それなりに働いてきたつもりだ。情報収集もしたし、頼りないかもしれないが、ダンケル卿という協力者を確保してもいる。
本来有り得た未来、父王が目にしたものよりは、きっと事がうまく運ぶことだろう。
そして、次はもっとうまくやってみせる。
その次は、もっともっと。
さらにその次、そのまた次――
果てしなく繰り返される、自分だけの、血塗られた時の円環の果て。いつか、きっと――




