第358話 タイムリミット
要件を伝えたところ、フィルブレイスとリズは城内の応接室の一つへ案内された。ゆとりある空間の中、敷物の上にそっと寝かされるリズ。
そこへ、城の使用人たちが処置を施していく。
生き存えるためのものではない。せめて、最期を綺麗に整えて迎えるために。
強く緊張した面持ちながら、手際よく動く使用人たちに、リズは薄れかかる意識の中で視線を向けていった。が、いずれも知らない顔である。
城内のメイドとは仕事仲間だったリズだが、それでも広く知られている顔というわけではない。
そこで、事を不用意に荒立てまいという考えと、このような姿を旧知の者に見られた場合の心労を思い、それとなく人選したのだろう――と、リズは思った。
やがて、リズの体は全身至るところが包帯で巻かれた。それでもわずかに血が滲み出るが、贅沢は言えないだろう。
包帯の上に、これまで着てきた黒いナイトドレスを着直させてもらったところ、応接室のドアが勢いよく開いた。
情報が耳に届くや否や、広大な城内を駆け抜けてきたのだろう。息を荒くし額に汗を滲ませて、第四王女ネファーレアがやってきたのだ。
かつてのような血色の悪さはいくらか薄れ、彼女の顔には健康的な血の気が差してきている。
しかし、久々に見る実の姉の惨状と、処置で出来上がった赤い布や綿を目の当たりにすると、その表情が凍り付いた。
面会の場となった広い応接室の中、彼女は若干取り乱しながらもリズに近づいていく。彼女と入れ替わるように、使用人たちが部屋を辞去していき……
自然と人払いがなされ、この場にいるのはフィルブレイス含めて三名のみとなった。倒れ伏すリズの両脇に、二人が片膝つく格好に。
リズとネファーレアの、かつての仲を知る者が他にいないのは、幸運だったかもしれない。わだかまりを蒸し返されずに済んだからだ。
薄れゆく視界の中、それでも案じてくれている妹の顔だけはおぼろげながらに感じられ、リズは少し顔を綻ばせた。
もっとも、妹との面会を望んだのには理由がある。クラウディア妃が国外にいるという現状、この妹が頼みの綱であった。
類稀な、死霊術師としての才覚が。
言葉もなく、当惑と悲壮感に沈むネファーレアに、フィルブレイスが話しかける。
「リズと《念結》を」
「は、はい」
息を荒くしつつ、ネファーレアが震える指で魔力を操ると、姉妹の間に心の橋がかけられた。
さっそくとばかりに、リズが用件を切り出していく。
『ネファーレア、いきなりでごめんなさい。頼みごとがあるんだけど』
『……は、はい』
『死霊術の中に、今わの際を引き延ばすような魔法ってない?』
その言葉を受け、ハッとしたネファーレアの顔は、次第に絶望の色が広がっていく。
『お姉様は、もう……助からないのですね』
『……ええ。でも……まだ生きている内に、知りたいことがあるの』
その、知りたいことというのは、ネファーレアにとっても気になる事柄だったかもしれない。姉の死を前にして、沈鬱な顔の彼女は、ややあって言葉を返した。
『今まさに亡くならんとする命を留め、最期の一時を引き延ばして共有するような禁呪でしたら……』
『ああ、あなたがいて良かった、助かるわ』
心の中で素直な賛辞と感謝を同時に述べるリズだが、悲しみに暮れるネファーレアの顔からは雫が流れて零れ落ちる。
そしてリズは、顔に落ちたそれを感じ取ることもできなくなっていた。代わりに伝わってくるのは、震える心の声だけである。
『こんなことになるなんて……』
昔は不倶戴天の敵だったというのに、ずいぶんな変わりようである。
しかし、これもすべては、実毋クラウディアの影響だろう。この母子が妄執から抜け出した事実は、リズにとって……釈然とはしない部分もあるが、喜ばしいことではあった。
また、相当に負い目を感じているであろう母子二人だからこそ、多少の無理難題も聞き入れてくれるのではという打算も。
――あったのだが。その禁呪を頼む前になってリズは、打ちひしがれるばかりの、この幸薄そうな線の細い妹のことが、さすがにかわいそうになってきた。
『その禁呪とやらであなたの立場が悪くなるようなら、全ての非を私にかぶせればいいから』
だが、気配りは無用であった。瞳潤む目元を袖で拭うも、はらはらと涙が滴り落ちる中、ネファーレアは姉の期待通りにその力の一端を示していく。
『お姉様が思うほど、邪悪な魔法ばかりではありません』と、内なる誇りを口にしながら。
これから果てるばかりの人間の、最期の時間を引き延ばすという禁呪、《延命》。
歴とした死霊術に属する禁呪の一つではあるが、使われ方はごくまっとうな、人のためと言えるものだ。
例えば、弔問客が多すぎる偉人。あるいは、志半ばに果てんとする英傑。最期が訪れようとしている大人物に残された時を引き伸ばし、少しでも多く最期の言葉を発してもらうため、また対象者の心残りを取り除くために用いられる。
英雄信仰根深く、優れた人物を敬う文化が色濃い、このラヴェリアという軍事大国においては、最期の言葉を贈るための猶予をもたらすこの禁呪は、一種の神事にも近い立場にある。
もっとも、禁呪は禁呪であり、そう簡単に表へ出せるものでもない。相応に高度な魔法というのも、想像に難くはないところだが――
妹が伝えずとも、リズはその禁呪がうまくいったことを悟った。全身を覆いつくし、精神を追い立てるような苦しみが、今は感じられない。
ただ、聴覚と視覚だけは普段通りに働くのだが、それ以外の感覚は完全に遮断されているように思われる。
横たわったままのリズは、試しに自分の体を動かそうとしてみた。真剣な表情で禁呪を行使し続ける妹の顔に向け、そっと腕を伸ばしてみる。
すると、妹は複雑そうな顔になった後、少し表情を柔らかくし、自らリズの手に顔を近づけてきた。
――しかし、彼女の顔に触れても、その体温が伝わってこない。
そればかりか触覚さえなく、リズはただ視覚を通じてのみ、妹の顔に指が触れたのを察知することしかできない。
この禁呪が切れれば、それが最期だ――リズは直感した。
そして、その時がいつになるかを担う術者は、額に汗を浮かべている。
「大丈夫?」
自分の口を動かして尋ねる姉に、ネファーレアは今にも崩れそうな表情で言った。
「私でも、そう長くは持ちません。ただ、お姉さまの……まだ生きようとする意志それ自体が、時を引き伸ばす力になります」
いつまでも続けられるものではないと、冷静に告げる彼女に、これまで静かにしていたフィルブレイスがうなずいた。
「他に誰か呼ぼうか? それとも、場所を移したければ私が運ぼう。どうする?」
彼からの申し出を受け、リズはネファーレアの方を向いた。
「陛下はいらっしゃる?」
予想して然るべき問いではあったのかもしれない。問いかけに一瞬だけ、緊張した様子を見せるネファーレアだが、返答は早かった。
「はい。今日は、外にお出でではないはずです」
「わかった」




