第357話 私がかえるところ
突然の出来事は、リズにとっても予想外であった。だからこそ、あのヴィクトリクスに読まれることなく事が運んだのだろう。
事前にある程度の意識共有があったとはいえ、最終的には自分たちの意志で動いてくれる仲間たちの働きが功を奏した。
倒れ伏すリズの元へと転移した仲間たちは、巧みな連携で瞬く間に《門》を繋ぎ換え、彼女の身を拠点である娼館のエントランスへ運んだ。
意識に霞のようなものが忍び寄る中、リズは自分を取り囲む面々の顔に、虚ろになりかけている視線を巡らせた。
館長、ブランドン、魔族の仲間たち。いずれも深刻そうな顔で、腰を落としている。
しかし、あの青年士官、バーネットの姿が見当たらない。
そのことを尋ねるべく、口を開けようとするリズだが、声を出せずに大きくむせ込んだ。喉を無理やり駆け上がるような、苦く酸味も伴う熱感。
血を吐いたリズの口元を、一番側にいるフィルブレイスが優しく拭った。
「無理して話さなくていい」
彼もまた神妙な顔をしているが、誰よりも落ち着いても見える。この場でどう振るうべきか、すでに悟っているのだろう。
彼は「《念結》を」と言って指をスッと伸ばし、リズはごくわずかにうなずいて応じた。
「リズ……もう、手遅れか?」
心の中だけでなく、実際に声を出してのストレートな問い。回り道のない言葉に、リズも正直な所感を伝えた。
『たぶん、夜は越せません……』
「そうか、これで最期か……」
あえて他にも聞こえるよう、口でも繰り返しているのだろう。
各々が薄々感づいていたことだろうが、実際に耳にしたことで、悲痛な空気が一気に広がっていく。
しかし、そんな渦中の中心にあって、リズにはまだ考えることがあった。
『バーネットは?』
「バーネットには、他の仲間と一緒にダンケル卿の確保に動いてもらっている。一網打尽にならないよう、経由地を変えて国外で落ち合う予定でね」
『でしたら、安心です』
リズの確保についても、彼が一役買っている。街路脇から飛ばされた彼は、すぐさま仲間たちに状況を伝え、現場の正確な位置を地図上に示したのだ。
おかげで迅速に対応し、状況をうかがうことができたという。
彼の働きにより、将軍もきっと確保できることだろう。ヴィシオス国内での活動は難しいかもしれないが……それでも、あの将軍が生きていることで開ける道があるかもしれない。
次いで、リズの思考はこの場の面々に向いた。
『この館も、安全とは……』
「わかってる」
彼女に色々と振り回されたこの魔王は、多くを語らずとも、なすべきをわかってくれている。彼は振り向き、同族に「頼むよ」と告げた。
すぐさま、普段は軽妙な魔族らが真剣な表情になり、館長に近寄っていく。
すると、ここから逃がされようとしているこの女性は、普段の落ち着きぶりと打って変わり、今にも泣き崩れそうな顔でリズに身を寄せた。
「殿下……」
言葉がそれきり続かない彼女に、詫びと別れの一言も告げられない自分を情けなく思いつつ、リズはただ、渾身の力で微笑んでみせた。
想いが通じたのか、館長は瞳を潤ませながらも、表情を少し柔らかくしていく。
そんな彼女に寄り添い、魔族らが優しく手を置いて脱出を促し、彼女はこれに応じた。立ち上がり、次元の門を前に、もう一度だけリズに振り返り……
彼女らが去った後、広いエントランスにはリズとフィルブレイスの二人だけが残った。
こうしている間にも、刻一刻と最期が近づいているのを、リズは感じていた。
身に刻み込まれた激痛は、大波を超えて今は凪のようになっている。痛みだけでなく、他の様々な感覚もおぼろげになり、ただ苦しみが自分の意識を呑み込もうとしている。
ラヴェリア長兄ルキウスとの戦いで死というものを経験しているリズだからこそ、逃れられない最期がそこにあることを悟った。
もっとも、こういったリスクは最初から織り込み済みであった。
その上で必要なこととして腹を括り、果敢にも行動に移したのだ。
それに、種族は違えど、志は共有する仲間がまだいる。後事を丸投げするのが、実に心残りであり、申し訳なくもあるのだが……
果たすべき務めの一つとして、リズは今夜の戦いの要点を伝えた。
『今回の敵は……相手の心を読む奴でした』
『それは……どうやってそれを? まさか、自己紹介されたわけでも……』
そこでリズは、あの敵にしてみせたことを――少し控えめな表現に変えて――脳裏に再現した。
思わず顔が硬直するフィルブレイス。彼は少ししてから、『まったく』と、力なく笑った。
こうしていられるのも、後わずか。『こんな形で終わって、申し訳ありません』と、殊勝な言葉を向けるリズだが、フィルブレイスは優しい笑みを返した。
『最後ぐらい、安心していいよ。君がいなくても、この世界は回っていくから』
心に巡る不安を取り除くかのような、友人からの柔らかな言葉。
『とはいえ、やっぱり心細くはあるけどね』
それから彼は、困ったような笑みを浮かべてため息をついた。
『君も、そろそろ連れ出さないと』
『はい』
『リクエストはあるかな?』
最期の時をどこで迎えるか、墓はどうするか。含みのある言葉を向けられ、リズは少し悩んだ後、心を決めた。
――こうなってしまったのなら、この機にせめて――
『無理難題を投げるようですが……』
気弱そうな心の声で前置きするリズに、フィルブレイスは含み笑いを漏らした。
『それでこそだよ』
☆
結局、リズが選んだ最期の場所は、彼女の全てが始まった場所だった。
ラヴェリア聖王国、王都中央。地図を手掛かりに行う形式の転移だったが、フィルブレイスは難なくこれをこなした。
王城前の広場に突如として《門》が出現。中から現れるは一人の魔族と、彼に背負われた血みどろの若い娘。
暗雲覆う夜のヴィシオスから一転、雲がまばらな、日差し溢れる空の下へ。転移を果たしてすぐ《門》を閉じたフィルブレイスは、周囲に素早く視線を巡らせた。
釈明の必要すら認められない可能性がある賭けだったが、うまくいく目算もあった。
この王城もまた、世界各国から絶えることなく要人が出入りしている。その中には、リズやフィルブレイスらの事を知っている者がいてもおかしくはないのだ。
死が近づく中にあって、そのような考えが巡るだけの自分を保てていることに、リズは少しばかり安心した。
そして、二人の賭けと決断が報われたようだ。
突然現れた二人を前にして、王都前広場には静かな緊張が走った。肝の据わった要人らも、さすがに距離を取って様子を見るが……
人の輪の中から歩み出し、その勢いを少しずつ強めていく人物が一人。ややふっくらした体系の、身なりの良い中年男性だ。
彼は二人の傍らに立つと、血まみれの娘が何者であるか理解し、血相を変えた。
「で、殿下! そのお姿は、一体!?」
「すまない、火急の件につき、あなたに諸々の取次ぎを願いたい」
落ち着きを保ちながらも、有無を言わせぬ口調のフィルブレイス。狼狽あらわな要人も、ただならぬものを感じ取ってくれたらしく、硬い表情でうなずいた。
彼に一言断り、フィルブレイスは《念結》を使用した。リズを担いで王城へと足早に向かいつつ、心の中で話を進めていく。
『貴殿は、エリザベータ殿下が魔族の協力者とともに行動なさっている件についてはご存じか?』
『うむ。ルブルスクからヴィシオスへと向かったと聞いている。では、貴殿もその協力者の一人と?』
『ああ。しかし……』
後ろから聞こえる、荒い息が少しずつ小さくなるのを感じ、フィルブレイスは表情を曇らせた。
『おそらくは敵軍幹部と思われる魔族との交戦により、瀕死の重傷を負われた。今は殿下たってのご意向により、ここまでお連れした次第だ』
『な、なんと……』
言葉を失う要人を前にして、フィルブレイスは非難の一つでも覚悟するところであったが……幸いにして、相手はデキた人物であった。そういったやり取りで、貴重な時間を浪費することはない。
『殿下は、まだ生きておられるのだな?』
『ああ。ご自身の感覚では、そう長くはないだろうとのことだが……』
『その最期に、ご生誕の地を選ばれたというのなら……相分かった。私にできる限りのお取次ぎを致そう』
『すまない』
『なに、我が国に施されたことを思えば、恩返しにも足りぬよ……』
そういう彼は、ラヴェリア近隣の国、ルグラード王国の重臣であった。リズの活躍により、ハーディング領での革命が延焼することなく、難を逃れた立場である。
いつしか結んだ縁の力が、障害を開けて道を開いていく。
往来絶えない王城を守る衛兵は、さすがにギョッとしてフィルブレイスらの歩みを止めた。城の衛兵といえど、リズとは面識がない者も多いことが、ここで災いした格好だが……
ここで、仲立ちを買って出た要人が状況説明に励んだ。周囲を見回し、知っている仲の者に呼びかけてまで。
結果、リズを知る者たちの後押しにより、城兵はたじろぎながらもフィルブレイスらの通行を認めた。
「念のため、我らも同行させていただきますが……どちらまでご案内すればよろしいか?」
緊張した声で問われたフィルブレイスが、心の中でリズに問いかけると、すでに筋道立てているらしき返答が。彼はそれを代弁していく。
「できることなら、今お会いしたい人物がいると、殿下が」
「承りましょう」
「では、ラヴェリア第四王女ネファーレア殿下、ないしはクラウディア妃殿下を」




