第354話 VS最高幹部ヴィクトリクス①
ただならぬ予感にバーネットを一時帰還させたリズだが、幸か不幸か、彼女は自身の第六感を疑わずに済んだ。
木立の間から立ち上がり、余裕のある所作で土を払ってから再び街路へ。夜道の向こうには、人影がぼんやりと見えるところであった。
何回も往復したことがある道だが、人とすれ違った経験はあまり記憶にない。というのも、今の官庁街では互いに避けるように動くのが常だからだ。バーネットからも、そういった話を聞いている。
官庁を訪れる人間同士、相手の事情を抱え込みたくないという心理が、そうさせているのだろうか。
しかしながら、今回の人影は違う。ゆっくりとした動きでまっすぐに、リズとの距離を詰めてきている。
それに――やってきたのは、王城がある方向からだ。
(まず間違いなく、私の”お客さん”ね……)
というよりは、むしろ自分が招かれざる客ではあるのだが。気配が近づく中、そのようなことを考えて、リズは皮肉な笑みを浮かべた。
向こうとの距離はまだ遠い。これといった、わかりやすい気を放っているわけでもなく、威圧感もない。
それでも、肌を刺す強い緊張があって身構えてしまうのは、本能に近い直感によるものとしか言いようがなかった。
やり取りが始まる前に、リズの脳裏に浮かんだのは、今のうちにできる仕掛けであった。
装備については一瞬にして、《超蔵》で調達できる。そちらの方が奇襲効果も期待できる。
では、先駆けて《乱動》を使うべきか否か。
わずかな間に考えを巡らせ、リズは決断した。《乱動》は使わない、と。
相手に通信や転移を許すことになるが、一方で自分も転移を使える。いざとなれば離脱したいのはこちらの方なのだ。
加えて、伏兵が潜んでいる気配は感じられない。少なくともこの場において、通信阻害に意味があるとは考えにくい。
仮に何らかの通信を始めようものならば、彼女オリジナルの魔法、《傍流》で傍聴しようという考えもあった。実戦投入は久しぶりになるが。
(最後に使ったのは確か、モンブル砦の戦闘で……いえ、ルブルスクの会食でも使ったっけ)
ふと過去を思い出した彼女だが、近づく気配に注意が向き、雑念がどこかへ追いやられていく。
やがて、双方の顔がそれなりにはっきりと見える間合いになった。見たところ、人間の青年らしき相手である。
妙に色白な点と、耳が長いことを除けば。
しかし、自身の数倍生きているであろう知り合いの魔王が、パッと見では青年にしか見えない事実から、見た目があてにならないことをリズは知っていた。今回もそういった相手であろう。
そして、無言で佇む両者の間に張り詰める緊張感が、二人の間柄を雄弁に物語っていた。一触即発の中、相手の様子をうかがい、機を探り合う――
間違いなく敵である。
息詰まる空気を感じつつ、それでもリズは口を開いた。
「あ、あの……魔族のお方でしょうか?」
自分自身、後で吹き出したくなるほどに、しおらしく気弱げな調子で。
だが、返事はなかった。整った顔が冷たい視線で射抜いてくるのみ。なおも構わず、リズは言葉を続けていく。
「わ、私に御用でしょうか?」
これでもやはり返事はないが、相手の物腰と雰囲気が回答である。言葉がなければ油断もなく、ただまっすぐに近寄ってくる冷たい殺意。
どうしたものか。その気になれば攻撃に入ることのできる間合いである。
(芝居もめんどくさくなってきたところだし……)
そんなことを思うリズの前で、不意に魔族が、表情を少し柔らかくした。
これにむしろ、何らかの布石――気を惹き付けようという意図があるのではと疑い、リズが身構える。
次の瞬間、予想に沿うように、魔族からいくつかの魔弾が放たれる。
絶妙な狙いのそれらは、リズの足元を追い詰めるように着弾。すかさずサイドステップで難を逃れるも、歩幅や足取りを見抜いたかの如く、敵の連射が足の置き場を先取りして潰してくる。
幸い、弾が進むはずの軌跡はわかる。巧妙に考えられた配置の攻撃をかわしながらも、バランスを崩されないようにとステップを刻んでいくリズ。
更に連なる魔弾の攻撃に、足の踏み場を地面ではなく空中に求め、彼女の脚が地を離れていく。
もっとも、この動きもすでに読めていたらしい。直線的な魔弾に混ざって放たれる《追操撃》。
鋭く死角を突くような動きは、先ほどの攻撃と同様、逃げ場を先読みするような巧みさがある。
戦闘開始直後の、このやり取りで、彼女は敵が相当のやり手であること。それも、片時も油断ならない強者だと認めた。
だが、撃たれてばかりのリズでもない。すんでのところで弾を避けつつ、空中で体勢を整え、彼女は両手を左の腰で構えた。
ドレスの陰に隠した得物を取り出すかのような動きを装い、その実、ドレスの陰に秘した魔法陣の虚空から長剣を抜き放つ。
万一、鹵獲されることを憂慮し、《インフェクター》ではなく単に良質なだけの剣を。
事前に調達していたその剣は、ラヴェリア軍で用いられる、高品位ではあるが特別ではない品だ。
しかし、使い手一つでその性質が変わる。
彼女は腰だめに構えた右手で剣の鞘を握り、左の人差し指と中指で剣の刀身を根元から挟み込んだ。指と指の間へと瞬時にして大量の魔力を流し込み――
一閃。指の鞘から抜き放つ白刃が魔力を宿し、居合の勢いそのままに魔力の刃が飛んでいく。
あの魔剣ほどの力はないが、普通の魔弾よりは防ぎづらい攻撃である。通常の防御魔法では対処できない鋭利な魔力の刃が、飛び交う誘導弾を切り伏せながら進んでいく。
反撃の間にも襲い掛かる誘導弾を、彼女は大きく横へのけぞりながら回避――
いや、のけぞる動きから空中で踏み切り、大きく横へ宙返りしながら追撃の一刀。
先に放った魔力の刃は避けられ、石畳を大きく切り裂くに終わった。追撃もまた、直撃には至らない。当たっていればの威力を、物言わぬ地面に誇示するのみだ。
ただし、見せつけた威力がそれなりの心理効果を発揮したのかもしれない。先手を打ってきた相手が攻撃を取りやめ、不意に仕切り直しのような一時が訪れた。
《空中歩行》を一旦やめ、地面に足を落ち着けるリズ。高鳴る鼓動に、息が少し荒くなる。
(強い……)
先手を取られたのは確かだが、それを差し引いても、相手の戦闘の運び方には驚くほど無駄というものがない。
これまで出会った魔族は、自身の力を以って威圧するような手合いが多かった。無論、相応に実力もある相手ばかりではあったのだが……付け入る隙もそれなりにあった。
だが、今回の相手には、そういった甘さが感じられない。鋭い攻撃は苛烈でありながら、練られた組み立てを感じさせ、実に堅実。無理に押し込まず、じっくり絞め殺そうという圧がある。
用いていくる魔法が、人間社会でもごく普通に普及している程度のものでしかない事実も、相手の純粋な技量の程を思わせた。
剣を抜いてから少々のやり取りで、相手の攻撃が途絶えたのも、一時的に”見”に回ろうという慎重さが、そうさせているのではないかと思われるほど。
(とっとと逃げちゃおうかしら)
出し抜くのにも難儀しそうな相手である。どうにか逃げの算段を――
そんなことを考えた矢先、不意に視界が大きく歪んだ。官庁街の道と並木が揺らいでいく。
突然の事態に驚かされるも、リズの視線はまっすぐ眼前の敵に。
そして、あくまで彼女は冷静だった。相手に目掛けて、一発の魔弾を放つ。
弾は、当たらなかった。敵が何かしらの魔法を用いながらも、軽く避けたからというのもある。
だが、実際には当てるのを目的とした弾ではなく、外すことを前提にした弾だ。
目にする視界ばかりではなく、魔弾の軌跡までもが歪んでいるのをリズは悟った。その歪みは、今や不確かな視覚でなく、聴覚が伝えてくれた。
間合いから察せる着弾よりも、ほんの少し遅れて着弾音が聞こえたのだ。
(つまり……私の認識がおかしくなったんじゃなくて、本当に空間が歪んでる?)
視界が少しおかしくなるのは、転移ですでに慣れている。しかし、こうした戦闘中にというのは。
――それも、戦闘中の相手を対象に?
「もしや」という状況に身構える彼女の前で、まさにそれが生じていく。
視界が歪み始めて、わずか数秒の事。二つの現実が入り交じる不条理なグラデーションの後……
彼女は、それまでいた夜道ではなく、得体の知れない空間に飛ばされていることを認識した。
いや、完全に知らない空間ではない。何もない、無味乾燥な暗灰色広がる虚空は、フィルブレイスらの助けで何度も経験したことがある。
異常なのは、戦闘中にこちらの同意もないままに連れ込まれたことだ。
やや距離を挟んだところには、先ほどまで戦っていた、あの魔族がいる。この状況は明らかに、彼が意識的に用意したものであろう。
ならば……戦闘の間隙にこれだけの転移法を操り、ねじ込めるだけの使い手ということである。
(ちょっとヤバいわね)
逃げ道について考え始めた矢先、これである。
――その時、リズの中に何か、違和感への気づきのような閃きが走りかける。
が、それを邪魔立てするかのごとく、さっそく敵から魔弾の洗礼。
(休む暇ないわね! まったく!)
感情を表に出さなさそうな相手を前に、リズは口に出すことなく、一人毒づいた。




