第349話 一歩前進
魔族を殲滅するにあたり、どのような情報を求められているかわからない――それが、ヴィシオスに今も残る将軍、ダンケル卿の言葉である。
つまり、世界中を相手取る勢いであったヴィシオスの将が、手にした情報をもとに策も道筋も立てられないでいるというのだ。
自身に対する失望溢れる彼だが、リズは彼が酒の影響で衰えたというわけではないと考えた。
おそらく、この国がもはやどうしようもない状況にあると認識し、その結果として酒に溺れたのでは、と。
その辺りについて、触れる価値もあることだろうが……さすがに気の毒に感じられる部分もあり、リズは別のところから進めていく事にした。
まず、「そちらは?」と指差したのは、執務机に置かれた書類の束。どうにか平静を取り戻したらしき将軍が口を開く。
「とりあえず、意味があるのではないかと考えて用意した書類だ」
「いただいても?」
これに将軍が無言でうなずき、リズは束の山を根元から自分の側に引き寄せた。一つ一つ念入りに読み込むことはせず、表題だけに目を向けていく。ルブルスク国境における防衛体制、攻勢計画、辺境における将官クラスの人員配置、飛行船配備、新設計飛行船の実地運用試験結果等々……
世の中がすでに大きく変わってしまった後とはいえ、それでも関係者からすれば垂涎モノの資料であろう。
「持ち帰ってもよろしいかしら?」
「……しかし、カバンを持たせるわけにもな。門衛が確認するだろう?」
そこでリズは少し考え込み……「言いふらさないでね」と前置きし、指先に魔力を集めた。これから何かするということは、すぐに察してもらえたようだ。男性二人が静かにうなずく。
すると、リズは一瞬で魔法陣を書きあげ、宙に黒い穴を作り上げた。将軍が昨夜も一回目撃したことがある、《超蔵》である。
穴の中へ、リズは書類を適当に放り込んだ。しまい終えるや否や、穴を閉じて再び将軍に相対。何事もなかったかのように、彼に問いかけていく。
「ところで、あの書類がすでに時代遅れみたいになっている可能性は?」
「難しい質問だが……」
将軍は考え込み、ややあって答えた。
「一般兵や、飛行船等の兵器の配備状況については、大きく変わっていないことを把握している。動かすにも調達するにも手間があるというので、上の方は敬遠しているようでな」
「なるほど。転移に比べれば、確かに面倒でしょうね」
「地方を任されていた将官については、大多数が魔族に取って代わられたが……それは王都も同じか」
そう言うと、彼の顔に明らかな陰が差した。横にいる青年士官も同様である。何かしら共通の、重苦しい出来事があるのだろう。
そして、リズには一つ思い当たるものがあり……予想はドンピシャであった。
「貴君は、王都の中央広場を訪れたことは?」
「初日に」
「そうか……」
そこで見たもの――地面へ無造作に突きたてられた剣や槍と、その柄に飾り付けられた頭蓋骨――について、あえて言葉にする必要もないと、彼女は言及しないでおいた。
室内にいたたまれない静寂が流れ……やがて、将軍が口を開く。
「貴君がこの国をどこまで知っていたかは定かではないが……反乱鎮圧のためにと、辺境や地方にも中央の人材を振り分けていてな。それでも、中央には十分な戦力があった。それが……」
大きなため息、言葉は中々続かない。彼は机の上に視線を落とした。
「最初の衝突で、国家最精鋭というべき近衛兵団が全滅した。それでも、奴らの手勢をいくらか削れはしたが……最高幹部には手傷を負わせただけに留まり、あの大魔王は自ら手を出すことさえなかった」
「それから……倒したと思った魔族の手勢を補充された?」
「ああ。いともたやすく、迅速に」
忌々しく、苦々しそうに、彼は答えた。それからまた少し間を置き、彼はリズをまっすぐ見据えて問いかけた。
「……貴君から見て、この国は謎多き国だったか?」
「実に不都合なことにね」
嫌味と同情入り混じる称賛を受け、将軍の顔が皮肉っぽく歪む。
「おそらく、秘密主義ということでは、我が国は他国と比べ物にならなかっただろう。それでも……あの魔族らは相当な期間をかけて準備をしてきたのだろうが、我々はそれに気づきもしなかった。抱き込まれていた高官がいたのかもしれないがな……情報戦でも個々人の武勇でも後れを取り、王都はあっけなく陥落した」
「……ヴィシオスという国の自力では、もはや取り返せない状況にある?」
ストレートにして、あまりにシリアスな問いに青年士官が身構え――
横の将軍からは「ああ」と、簡潔すぎる即答が。
「では……他国の動きも絡めたら、どう?」
すると、将軍は口を閉ざして考え込んだ。少し間を置いてから、直接の回答とはせず、別方面から言及していく。
「世界中で魔族が出現し、戦略要地として鉱山の多くが標的となった。そこまではそちらも把握済みと思うが」
「ええ」
「では、確保した鉱山、特に魔導石の使い道は?」
「飛行船の新造、あるいは魔導石から《門》を展開し、仲間を呼び込むため?」
「話が早い」
とは言ったものの、まだ言うことはあるようで、将軍はため息の後に自信なさそうに口を開いた。
「王城へと相当量の魔導石が運び込まれている。用途は不明だが……」
「それは、増援を呼ぶためと考えても、多すぎるくらい?」
「ああ。呼び寄せる同族を、まずは君主の前に出させるしきたりがあるのかもしれんが……王城以外で《門》を見る方が多いようにも思う。正確なことはわからないが、気がかりではあってな……」
集めた魔導石を用い、何をしているというのだろうか。気がかりではあったが……
「あなたは、今でも王城に召し出されることがある?」
「ああ。軍について聞かれたことを答える程度の役回りだが」
「その時、運び込まれた魔導石について、何か違和感を覚えるようなことは?」
「……特にはなかったが」
「だったらいいわ。気になる程度に違和感を与える動きや変化は、まだないってことでしょ?」
すでに予兆を感じ取れるほど、何かが始まっているのなら、ぜひとも探りたいところ。しかし、そこまで事が進んでいないというのなら、薄い予兆を探るのは相当に危険ではないか。
まずは保留と考えて口にしたリズに対し、将軍は口を閉ざし、ややうつむき加減になった。
「実を言うと、召し出された時に、周囲に気を配ったり変化を感じ取ったり、そのような心の余裕はなかった」
その時を思い出したらしく、彼は体をブルリと震わせた。
「……大魔王ロドキエルの前まで連れられたの?」
「王城へ召し出される際は、常にな……」
それきり、彼は言葉を失った。再び重苦しいばかりの沈黙に支配される。
ややあって、将軍は言った。
「他国の手があれば、魔族を排除できるかどうかという問いだが……私には何とも言えない。仮に全人類が一丸となったとしても、楽観的な希望を持てるとは……」
「でも、私を売らなかったじゃない」
まっすぐ見据えてくるリズに、将軍は口を閉ざして皮肉な笑みを浮かべた。
「酒に溺れはしたが、そこまで堕ちたつもりはない。それに、どうせなら……と思っただけだ。分の悪い賭けには違いあるまいよ」
「それでも、目がないってことはないでしょ?」
「どうだろうな……それすらもわからないほどに、目が曇っているのかもしれん」
ともあれ、この先がどうなるかは誰にも予見できないながら、リズは一つの確信を得ることはできた。
この将軍と、おそらく青年士官は、明白な仲間とまでは言えないものの、敵の敵ではある、と。ならば手を取り合える余地はある。
今後も情報を引き出せればというところだが、何もリズ一人で、という戦いではない。彼女はそのあたりの事情について言及した。
「私にも後ろ盾があるわ。まずはそちらに報告して、どういった情報が必要かを聞き出し、改めてこちらへ伺いましょう」
「了解した」
次の約束を取り付け、リズは立ち上がった。わずかに遅れ、若干慌てた様子の案内係も立ち上がる。
と、そこで将軍からリズへ問いかけが。
「我が国から魔族を排除したとして、取り戻したヴィシオスは、依然としてあなた方の敵なのだろう?」
「敵のままでいられるだけの指導層が、今も残っているとは思えないけど」
「手厳しいな」
自嘲気味に苦笑する将軍。
ただ、彼も理解はしているのだろう。この国を取り戻せたとしても、その時はその時で、彼の身に降りかかるものは決して好ましいものではないと。どことなく諦念の念が浮かぶ顔の彼に、リズは言った。
「ヴィシオスという国が積み重ねてきた悪行は、人の手で裁かれなければならないと思う。その裁きの手を、魔族みたいなポッと出の災いなんかに委ねたくない。以上よ」
「そうか……心得た」
会話は以上と踵を返し、改めて立ち去ろうとするリズだが……再び「済まない」と将軍からの呼び止め。
これには苦笑いし、「何よ」と砕けた言葉が出るリズだが、将軍はいたって真面目であった。
「貴君が世話になっているであろう娼館の事だが……」
「何か?」
「廃業でも勧めておいてほしい」
意外な申し出は、リズとしても心情的にありがたいものではあった。
「それは構わないけど……」
「そうか。私を知る面々には、よろしく言っておいてほしい。もう出会うこともないだろうしな。彼女らに、どこか逃げ場があるのなら……喜ばしく思う」
リズが用意している手筈に感づいている……というよりは、そういった動きがあることを期待している。あるいは、これからでもそのようにしてもらえれば……という、言外の願いを込めたような口ぶりである。
「確かに、承ったわ」と、多くは語らず了承するリズに、彼は微笑んだ。
「とはいえ、彼女らには嫌われているだろうがな……」
「あら、そうでもないみたいだけど。他の、乱暴するような客よりはずっといいって」
「……そうだったのか」
彼はなんとも言えない味のある苦笑いで、ため息をついた。呑んで呑まれて酒に溺れて……そんな中年男に似つかわしい自己評価といったところか。
そんな彼に、リズはイジワルっぽく微笑んだ。
「でも、おあいにく様。これからは私だけしかお買い上げになれないんだから」
その後に付け足した、「ちょっと同情しちゃうわね」という言葉に、将軍は真顔になった後、少しだけ楽しそうに笑った。




