第348話 醒めた先の現実
青年士官の後に続き、リズは館を出て歓楽街へ繰り出した。
今のところ、娼館の中から状況をうかがっていた魔族たちからも、街へ出て散策していたブランドンからも、特にこれといった報告は上がっていない。
もっとも、彼らでは歓楽街の外、さらには王都中枢あたりまで警戒の手を伸ばすことはできない。
(後は私次第ってところね)
夜道の中、軽く息を吐き、リズは先導する青年の背を見つめた。
やはり、どことなく動きに硬いものがあり、ぎこちなく映る。歓楽街から出る際、門衛相手のやり取りでも、昨夜に比べて緊張した感が。
問題は、このようになっている理由。あの将軍ダンケル卿から、何かしらの話があった可能性は極めて濃厚だ。おそらく、自身の身分までは話が通じているものと、リズは推定した。
であれば――娼婦という建前で連れ歩いている娘が、本当はラヴェリア王家の血族に連なる者である――というのは、この国の兵に強い緊張を抱かせて当然であろう。
では、実際に何を知らされているか、水面下で動いている何かがあるか。そのプラスアルファを探ってみる価値はある。
状況把握のためにと、意を決した彼女は、良いタイミングをうかがった。
幸い、王都中枢の区画は広々とした作りである。魔道具によって照らし出される夜道の向こうに、人影は見当たらない。
先行く青年に追いつかんとして、リズは音もなく歩を早めた。そして、彼の肩を何度か叩く。
「……何でしょうか?」
振り向いた彼の頬を、リズの指がムニっと突く。肩を叩いた手はそのまま置き、人差し指だけを伸ばしていた。
他愛のない悪ふざけに、彼は一瞬だけギョッとした真顔に。一方、顔を綻ばせるリズ。
それからすぐ、青年は対応に困った感ある逡巡を見せ、「お戯れを」と嗜めるように口にした。
やはり、単なる娼婦相手の態度ではない。将軍の元へ案内する相手だとしても、過分な礼儀ではないか。
再確認の後――リズは彼の首に指をそっと這わせ、後ろ半分に回りこませた。
「私の指先が刃物だったら、今頃大変なことになっているでしょうね」
何気ない感じで発した言葉に、青年の顔が凍り付く。今の方がより深刻であろう。首根っこを掴まれた上、後ろを振り向くという体勢なのだから。
「な、何を……」
それ以上言葉が続かない彼に、リズは柔らかく微笑んだ。
「正直に答えてくださらない? ご返答は首の動きだけで結構よ」
そう言ってリズは彼を解放し、打ち耳するように近寄った。
遠くから見れば、はしたない女が誘惑しているように映るだろう。この街にそのような娼婦がどれだけいるかは別にして、娼婦を連れ込むことが当たり前になっていると思われる中であれば、仮に目撃されても興味を惹いてそれで終わりでは。
――というのが、リズの目算である。
「私の出自、将軍閣下から知らされたでしょう?」
遠目には娼婦からの色仕掛けを受けているように映っても、実際には強度の緊迫感に真顔で固まる彼は、若干の間をおいてから小さくうなずいた。
「交渉内容も?」
またしても肯定。
「あなたの他に、誰がこの件を伝えられてるか知ってる?」
今度は否定。嘘ではなさそうだが、彼が知らないところで……という可能性もある。
(とはいえ、事が広まりすぎれば、あの将軍さんも困るんじゃないかしら)
とりあえず、これについては深入りせず、リズは問いかけを続けていく。
「私たちラヴェリアの人間と、ヴィシオスを支配する魔族連中では、前者の方がまだマシ?」
これにはためらう感ある顔を見せるも、少し間を置きYES。
「情報提供を、という私たちの要求について、従うことにあなたは肯定的?」
これには……少し待っても返答を出さない。
だが、リズにとっては良いサインであった。悩んでみせるということは、このことを真剣に受け止め、一個人として考えている証拠のように思われるからだ。
少し表情を柔らかくし、リズは小声で言った。
「もういいわ、ありがとう……驚かせてごめんなさいね。でも、一人でここまで忍び込んで、心細かったものだから。状況を少しでも把握しておきたかったの。ご理解いただけると嬉しいわ」
それだけ言って、リズは耳打ちするような体勢をやめ、彼から身を離した。
少し距離が開くなり、彼はやや慌てた顔になって周囲を見回した。いかにもそれらしい反応である。
そんな彼に、リズは悪い笑みを浮かべ、辺りを憚るように小声で言った。
「大丈夫よ。単なる密会か、私が誘惑したようにしか見えないでしょうし」
「そ、そう見られて困らないとでも?」
驚きと緊張以外の感情を見せる彼に、リズは「もうしないわ」と微笑を浮かべた。
結局、色仕掛けを装ったやり取りは、誰にも見咎められることがなかった。これまでよりも少し早足気味になって場を離れようとする青年に従い、一人苦笑してリズも続く。
やがて、目的とする部屋の前に着いた。執務室へのドアを前に、青年が緊張した面持ちで、ひとまず深呼吸。
息を整えて彼はノックし、「お連れ致しました」と告げた。返ってくるはずの声にリズが耳を傾けると、「どうぞ」と低い声で短い返事。ややそっけなくもあるが、発声はしっかりしている。
(シラフでいらっしゃるのかしら)
直感的にそう思ったリズ。一方、動きに硬いところのある青年は、「失礼します」と言ってドアを開けた。
先の直感の答え合わせは、おそらく正だったのだろう。執務室の床には相変わらず酒瓶が転がっているのだが、それらしい臭気はさほどない。
待っている将軍の様子も、先日とは違って神妙な顔つきであり、酒が入っているようには見えない。
となると、辺りに転がっている酒瓶は、おそらくは別の来客に怪しまれないようにという偽装か。
そして、今回の席を前にきちんと準備したのか、執務机の上に酒瓶はない。代わりに、執務室としてあってしかるべき姿を取り戻したかのように、書類の束が積まれている。
現時点で、要求に応じる心づもりがあるようには見える。
(腹の内がどうなのかは、ともかくとして)
まずは出方をうかがうリズの横で、「では、私はこれで」と口にする青年士官。
しかし、将軍は彼を呼び止めた。
「君もだ。残って話に加わりたまえ」
この命令に、わずかに身を震わせる士官だが、さすがに断れるものではないのだろう。彼はただ、無言でリズに視線を向け、「承知しました」と答えた。
次いでリズへ、将軍から声がかかる。
「これで二対一だが……その前に。殿下とでもお呼びすればよろしいか?」
「そちらにお任せしましょう。あなた方に頭を下げられる謂れがないもの」
実のところ、ラヴェリア国民でさえ、大半はリズをいち平民として扱うのだから。ましてや、ヴィシオスの将軍に礼を強制することはない。
この返答を受け、将軍は唇の端を吊り上げた。冷笑的な表情のまま口を開く。
「正直、そういっていただけると助かる。今更、人間同士の上下にこだわるなど……滑稽にしか思えないものでね」
その後、彼は自嘲らしき含み笑いを漏らし、続けた。
「あなた方にとっては、まだ違うのだろうがね」
酒色の沼から脱したと思えば、今度はどこまでいっても醒め切っている。このヴィシオスの現況を思えば、かえってわかりやすく、腑に落ちる態度ではあった。
(演技……ってわけでもなさそうだし)
あるいは、絶えることのない酒気が、本音を覆い隠す煙幕だったのかもしれない。
こうした将軍の有り様に、青年士官はやや戸惑い気味ではあったが、彼は無言で歩いて将軍側につき、リズの着席を待って着座した。
「話を戻すが、二対一でも構わないだろう?」
「ええ、もちろん。あなた方二人限りであればね」
さりげなく牽制を入れるリズに、将軍は苦笑を浮かべた。
「他には知らせていない……信じる義理もないだろうが。彼に話してあるのは、橋渡し役に知らせないでいるのは、間違いの元になりかねないと思ったからでね」
「賢明ね」
これは納得のいく理由だった。情報提供が一回で済むとは限らない。となると、この士官にはこの後も使者を頼む必要があり……何かの拍子に、事を感づかれるリスクはある。
ならば、先に抱え込んでしまうのが妥当であろう。彼と立場をほぼ同じくする将軍にとっては、なおさらのことであった。
ただ、彼を巻き込んだ理由は、一つだけではなかった。
「私事で恐縮だが、一人ではどうにも心細いものでね」
「寝台も中々大きくていらっしゃったものね」
部屋の片隅で、それなりのスペースを占有して鎮座するべッドを指しての皮肉。
相手の調子に合わせようというリズの当て擦りに、将軍は小さく含み笑いを漏らした。
「本当に寝るときは一人だがね。まァ、酒には頼らねばならんが……」
ポツリポツリと零すように言葉を発し、少しして彼は居住まいを改めた。
「本題だが、情報提供だったな」
「ええ」
今や聞き手に回るばかりの士官が、身を強張らせる。
だが……将軍は、これからという段階になって、またも自嘲気味な笑みを浮かべた。
「貴君の期待通り、私にもそれなりの情報というものはある……ただね。ふッ、ククク……」
そう言って、彼は机に両肘をつき、顔を両手の中に埋めた。笑いとなって込み上げてくる感情を、どうにか噛み殺し、たくましい体を小刻みに震わせる。
彼自身、決して気持ちのいい笑いではないのだろう。ただ黙して待つしかないリズの前で、彼は顔を上げ、沈んだ声で話し始めた。
「この国から魔族を殲滅するというのが、貴君の目的という話だが……そのために、具体的に役立てる情報があるか? どのような情報を求められているか? 私には見当もつかない」
それだけ言って彼は再び、打ちひしがれた顔を両手で覆った。合わせる顔などないとばかりに。
「何も、わからないんだ」




