第344話 残された楽園への道
後日、リズは仲間魔族の代表としてフィルブレイスを連れ、館長らに引き合わせることにした。
場所は娼館のエントランスホール。建物の性質ゆえか、窓がほとんどないのが好都合であった。
約束の日、昼前。まずは単独で、リズは館に足を踏み入れた。
そこに待っていたのは、館長に加えて娼館の従業員たち。いずれも若く、整った外見をしており……若干、怯えた風でいる。
もっとも、これから魔族がやってくるというのだ。いかに友好的な相手と聞いていても、身構えてしまうのは致し方ないところだろう。
決して望まれているとは言い難い雰囲気、不安そうな面々が待ち構える。エントランスホール中央の空間が少しずつ歪み始めると、場の緊張感が一層に強まっていく。
今回、フィルブレイスは転移でこちらへ向かう。目的地にいるリズをマーカーとした形式のものだ。
転移を用いるのは、歓楽街で出歩いた際に魔族と見破られれば面倒というのが一つ。
もう一つの理由は、実際に転移を使う様を見せることで、亡命に欠かせない存在であると認識させるためだ。
生まれ育ちに恵まれ――紆余曲折あっても、教育と嗜みを身に着けた娼館の子女らも、実際の魔族による転移を前には言葉を失うばかりだ。
そして、驚きは当惑、それから再びの怯えに変化していく。
この魔王と初対面となる館長は、さすがに毅然さを保った風だが……にわかに変わった空気感に、フィルブレイスの端正な顔が、なんとも困った感じの溢れる微笑に。
「私は、これでお暇した方がいいんじゃないかな」
「ダメに決まってるでしょう?」
前もって大雑把に定めた打ち合わせ通り、リズはあえて彼を尻に敷くような態度で臨んだ。これでも怒らないような、温厚で話が通じる魔族もいるのだと示すためだ。
その甲斐あってか、信じられないものを見聞きしているという驚きの後、雰囲気は受容的なものに。
受け入れてもらわないことには話にならないところ、まずは好感触だ。
今日の訪問目的は、味方となってくれている魔族の紹介に加え、後の段取りをつけるためのデモンストレーションも。
固唾を呑んで見守る視線の中、フィルブレイスは冗談交じりに「いつもより緊張するね」と言って魔法陣を刻んでいく。
間を置かずして出来上がった魔法陣と、その上に浮かび上がる、宙に穿たれた黒い穴。話には聞いていても、やはり自然と身構えてしまうようだ。
そこでリズは、館長に目配せをした。
「では……グロリア、あなたから試させていただきましょう」
「は、はい」
館長に促され、長身でやや線の細い少女が前に歩み出た。リズは自身と背格好が変わらない彼女に手を差し出し、頼りなさそうな細い手に、優しく力を込めて握っていく。
「では、行きましょうか」
道連れがいるとはいえ、それでも緊張は隠し切れずにいるが、グロリアは深呼吸の後にしっかりとうなずいた。
言葉もなく見つめられる中、《門》をくぐった二人の前に現れたのは、マルシエル政府直轄のセーフハウスである。
そのロケーションは最高であった。
耳を澄ませば潮騒が聞こえてくる。ヴィシオスの内陸部にある王都バーゼルでは、決して耳にすることのないものだ。
暗雲の浸食を受けていない青空は、実に清々しく晴れ渡っている。照り付ける日差しに容赦のない熱はあるのだが、それもまた天の恵みというものであろう。
ほんの少し前までいた暗黒の王都とはまるで違う、この南国の亡命先の何もかもが、グロリアの五感を圧倒し――
呆けた顔に意識が戻ると、彼女はその場で泣き崩れた。彼女に合わせて膝をつき、リズがそっと優しく抱き寄せていく。
「どう? いいトコでしょ?」
「は、はいっ!」
「ふふっ、もう少し落ち着いてから戻りま……」
そう言いかけてリズは、空間の穴を見つめながら少し悩んだ。
このまま待たせては、向こうも心配だろう。かといって、無理やり立たせるのも悪いし、自分一人だけ戻るのも変に思われるかも……
何パターンか思案した彼女は、グロリアの背を撫でさすりながら、一つ手を打つことにした。小物入れから取り出した紙に一筆したため、紙を折り曲げ、門の向こうへと飛ばしていく。
「もう少し待ってね」というメッセージを乗せて。
☆
全員に亡命先を見せた結果は上々であった。フィルブレイスに対する恐れもすっかり払拭されている。
今後の流れについては、もう少し詰めていく必要があるのだが、亡命後については心配なさそうである。
「問題は、誰から先に送り出すかですが……」
館長は自分が面倒を見てきた子らに視線を巡らせ……苦しそうな渋面になった後、一同に問いかけた。
「やはり、一気に廃業というのは難しいわ。殿下のお考えの事もあるから。まずは小さい子から、段階的にということで構わないかしら?」
尋ねる館長に、大半の子は異論なくしっかりうなずいた。その中で異議を呈したのは、ほかならぬ小さい方の子たちである。
「そ、そんな……お姉さまたちを置いて、先に逃げ出すだなんて」
耳にしていて思わずいたたまれなくなるリズ。フィルブレイスも似たようなもので、その顔には憐憫の情が浮かび上がる。
ただ、小さい子からという館長の意志は固い。
「だからと言って、年長者が先に逃げ出すわけにもいかないでしょう?」
「それは……」
感情的には認められずとも、それを口にするだけのものが追い付かない。そんな子たちに、館長は柔らかく微笑んだ。
「順番はこちらで改めて話し合っておきます。殿下の方はいつごろから行動を開始なされるお考えでしょうか」
「できることなら、早いうちに動き出したくはあるのですが……」
功を焦るというわけではないのだが……リズが怪しまれずに軍の将官と接触するには、この娼館が今も存続しているという事実がやはり必要である。
かねてより店じまいする願望があったと、一部の客には知れているとしても、だ。
言い換えれば、リズが情報交換に勤しんでいる間、この娼館の子女何名かには、逃げ出さずに付き合ってもらい続ける必要がある。
自分の仕事が人類全般のためのものだとしても、心苦しくあるのは事実だった。仕事は確実にこなしつつ、できれば早めに片づけたいというのが正直なところである。
幸いにして――国民には不愉快極まりないだろうが――標的としている将官は、相当に金と暇を持て余しているらしい。
「先方からお声がけいただくのが普通ですが……ほぼ連日のようにお声がけいただいております。こちらから出向いた方が、むしろ喜ばれるかもしれません」
そこまで酒色に耽っているというのは、本当にどうしようもない輩のように思えるのだが……
実際にお相手した娘にとっては、そこまで悪い客でもないらしい。
「常に酒が入っていらっしゃるようなお方ですが、乱暴されたことは一度もありませんから……」
と、幸薄そうな少女が証言した。
ということは、乱暴する客も少なくない様子。むしろ、お相手の良し悪しを判ずるハードルの低さがうかがわれるようで、いたたまれなさが募る。
ともあれ、リズとしては意外と死活問題であった。乱暴されかけた時に、体に染みついた反射的な防衛反応を、意識して抑え込めるかどうか。
それに、この敵国首都は、彼女にとって色々な意味でフラストレーションが貯まる場だ。彼女自身それを自覚してもいる。
未だ高位で飼われるダメ人間の狼藉は、溜め込んだ感情を爆発させる最後の一押しになりかねない。
そう考えると、酒癖程度なら、まだなんとか……という話である。
実際に話が通じるかどうかという、また別の疑問があるのだが。
尋ねてみると、目的の人物は日常的に酒が入っている割に、会話は普通にできるらしい。
「あまり口数が多い方でもないのですが……お酒とお話にお付き合いして、その日は終わりということも」
「ちなみに……差し支えなければ、どういうお話を?」
かなり申し訳なく思いながら問いかけるリズに、女の子たちは少しだけ間をおいてから、柔らかく笑い始めた。
「本当に、とりとめのない雑談でばかりで……殿下のご興味を引くようなものではないと思います」
「そ、そう。良かった」
酒の勢いに任せた品のない話かと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
少し先走ってしまったようで、リズは胸の内でひとり恥ずかしく思うのだった。




