第343話 架け橋
館の子たち――すなわち従業員を亡命させてほしいというのは、予想できていた要望の一つであった。
この要望自体、決して受け入れられないものではないのだが、まだ聞いておくべきこともある。
「人数はどの程度でお考えでしょうか」
尋ねるリズの前で、館長は少しの間考え込み……やがて、若干ためらいがちに答えた。
「可能な限り、全員を……人数としては20人ほどとお考えいただければ」
20人規模の脱出となると、仲間たちの手を借りなければならないところだ。ただ、この程度の協力であれば、仲間たちは承諾することだろう。
一方で、魔族の手を借りるということについて、利用者たちから理解や納得を得られるかという問題がある。
匿う先についての考慮も必要だ。第一候補はマルシエルのセーフハウス。今回の潜入作戦の情報的価値を以ってすれば、同国議長も認可を出すはず。
亡命させた者たちの面倒を投げっぱなしにするようで、心苦しくはあるのだが。
引き受けた場合の後の流れに思い巡らせたリズは、結局「なんとかなるだろう」という楽観的な結論に至った。
しかし、要望を受け入れるのは良いとして――
「技術的に不可能ではありませんが、一つお伺いしたいことが」
「何でしょうか」
「全員の亡命をご希望ということは、こちらは廃業なさるというお考えでしょうか?」
立ち入った話題ではあるものの、亡命と引き換えにこの館の名前と信用を借りようというのである。聞くだけの筋合いは大いにある問いだ。
館長もそれは重々承知らしく、あくまで落ち着いた様子で応じた。
「殿下のご要望にお応えするならば、事業の体をある程保つ必要はございましょう。少しずつでも逃がしていき、最終的に全員を、と」
実際に逃がすのであれば、一気に全員まとめて……という方が手っ取り早くはある。とはいえ、小分けにというのも決して不可能ではない。
問いかけた本人はというと、望み薄な要望と考えている様子だが。諦めのようなものが浮かぶその顔に、リズはどうしたものかと考え……一つ思いついた。
「すでにお察しかもしれませんが、私も単独で動いているわけではありませんので……一度持ち帰らせていただいても構いませんか?」
「ええ、もちろん……良い返事をお待ちしておりますわ」
最初に無理難題を投げかけに来たのはリズであるが、今ではむしろ、この館長の方が頼み込む立場のように思われる。
彼女と、その下で働く子たちの関係性に、何かしらの絆を感じつつ、リズは部屋を辞去した。
――それから数秒後。
リズは先ほど出たばかりの部屋に、ドアを開けることもなく再侵入を果たした。
人が一人、いきなり虚空から宙に浮かび上がって生じる光景を目の当たりに、落ち着きある淑女が目を丸くしている。
絶句してくれているのは幸いであった。驚かす気はなかったのだが、これが一番話が早いとリズは考えていた。
彼女は悪意がないことを示すため、やや冗談めかして微笑み、唇に指を置いてそのまま静かにするよう促した。
「驚かせてしまって申し訳ありません。実を言うと、私はこういうことができる者でして……仲間にはもっと、こうした転移術に長けた者もいます」
「……それで、このような国にいらしたというのですね」
「はい。皆様方の亡命にも、この手段を使う考えなのですが……いくつかお願い事が」
人外の秘術を前に、最初は言葉を失っていた館長だが、光明を見出してくれたようではある。真剣な眼差しを向けてくる彼女に、リズは今回の亡命について、いくつかの条件を設けた。
まず、他言無用にすること。あらかじめ亡命対象者を明確に定め、決して増減させないこと。
ヴィシオスの支配者側に、転移で嗅ざまわっているものがハッキリと割れてはいないからこそ、現在の潜入が成り立っている。この前提を崩すわけにはいかないのだ。
換言すれば、亡命の成否を左右する条件でもある。館長はこれらを当然のことと承諾した。
「もう一つのお願い事と言いますか、あらかじめお知りおき願いたい事項がありまして……転移で私を助けてくれている仲間というのが、実は魔族なのです」
この告白には再び驚かされる館長に、リズはもう少し言葉を足していった。協力者である魔族らの背景と、彼らが手を貸すに至った経緯。マルシエルを筆頭に、人類側諸国の指導層の一部からも、すでに同朋として認識されていることなどを。
「――ですから、彼らの事を信じていただければと。私一人で何人も亡命させるというのは……不可能ではありませんが、難儀ではありますので」
これには黙して悩み始める館長であったが、無理もない反応だとリズは思った。
それでも、目の前にやってきた好機は、腹を括らせるに十分だったらしい。
「かしこまりました。どうぞ、よろしくお願いします」
とりあえず、こちらの話はまとまった。後は、ヴィシオス中央へ繋がる足掛かりへの段取りという手土産を持って、関係各所へ話をつけに行けばよい。
近づくべき人物がどのような人物か、情報を引き出せるかどうか。これからも問題は尽きないが、ひとまずの足場を得たことに、リズはフッとため息を漏らした。
しかし、にわかに気になってくる事項も。
「繰り返しになりますが、最終的に、こちらは店じまいなさるお考えとなると……顧客から変に思われはしないかと」
「ご懸念も当然と存じますが……実を申しますと、もとからそういった考えがあることは、お客様方の一部もご存知でして……」
どうやら、”話が通じる方の客”には、この館を閉める考えがあることを明かしていたという。
もっとも、そう簡単に辞められる仕事でもない。あくまで、そういった希望があるだけ、本気でその支度をしてきたわけではない――
そう言って、館長は若干の自嘲が滲む苦笑いを浮かべた。
「では、最終的に店じまいをしたとして、館長殿はどうなされるのですか?」
館長は自分の下で働く者について亡命を求めはしたものの、自身の進退までは明らかにしていない。
リズにしてみれば、一人増やしたところで……という考えではあったが、安易に誘うのも憚られるところがある。
この国や街を見捨てて逃げられないだけのしがらみを、その人生の中で築き上げているのかも、と。
やや息苦しさのある静寂が訪れ、双方ともに口を開くことなく、時が過ぎ去っていく。
結局、館長も亡命するかどうかは明言はしなかった。代わりに彼女は、この娼館の仕組みについて話を始めた。
「あまり募集はしないと、耳になされたことと思いますが」
「はい」
「実を言いますと、我が館の子たちは……引き取ったと申しましょうか」
「孤児でしょうか?」
かなり繊細な問題に立ち入っていると自覚しつつ尋ねるリズに、館長は悲哀を感じさせる微笑を浮かべ、首を横に振った。
この館で働くのは、いわゆる没落貴族の子女である。
広大なヴィシオスの版図の中には、中央への供物を課せられている地方も少なくなかった。反乱を起こそうとするも、鎮圧された領地等だ。
そういった敗残者から召し上げた令嬢・令息が、最終的にこの館へ流れ着いたのだという。
「令嬢はわかりますが……令息も、ですか」
「抱かれるのは女の子ばかりとは限りませんので」
そこまで聞いてようやく、リズは「ああ、なるほど」と合点がいった。
考えてみれば、富裕な女性に買われてもおかしくはないし……男色家の男もいるだろう。
ともあれ、性別と交わりが何だろうと、望まぬ務めにその身を捧げているのは間違いない。
居たたまれなさと気分の悪さを同時に覚え、思わず顔をしかめるリズの前で、苦笑いした館長は話を続けていく。
「――とは言いますものの、結局は国家共有の戦利品のようなものですから。扱いの方は、宝物さながらといったところでしょうか。自由を与えることは決してありませんが」
しかし、そこまで言うと館長の顔が、皮肉めいたものから覚悟を感じさせるものに。
「国の在り方が変わったからこそ、もはや義理立てする必要がなくなったと、考えています」
確かに、それは道理であるとリズはうなずいた。
これまで勝者の立場を笠に着て好き勝手してきた連中が、この国を保つこと叶わず、新たな支配者の下で飼い殺しにされているのだ。
そのような輩に、これまでと変わらない奉仕を続ける必要があるのだろうか?
館長の答えは「否」であり……彼女が面倒を見ている子女も、きっと同じ思いを秘めているのだろう。
簡潔な身の上話ではあったが、耳にしたリズは少しため息をついた。
「どうかなされましたか?」
「いえ……情に流されかけている自分を感じまして」
思えば、この歓楽街全体の退廃ぶりに、かなりうんざりしていたというのもあるかもしれない。
そんな中、手を差し伸べたいと思える人々が、より一層に重く感じられる。
「関係各所へ話をつけて参りますが……うまく説得して見せますので、どうぞご安心を」
立ち上がり、スッと手を差し出すリズに、やや遅れて館長が応じた。
「どうか、よろしくお願いします」と、わずかに声を震わせながら。
☆
「――といった次第なのですが」
ヴィシオスの方で勝手に話を勧めたことについて、やはり実際に話す段になるとやや申し訳なくも思うリズであったが……
相談相手であるマルシエル議長の悩みは、リズが思っていたものとは少し違っていた。
「一つ、懸念が」
「何でしょうか」
「べッドの数ですわ」
真顔で口にしてから、議長はフッと顔の表情を緩めた。
ジョークの後、大人物が見せる苦笑いに、リズの表情も柔らかくなる。
「実際、寝床の調達を急ぐ必要はあります。匿う先の建物を増やすのは間違いの元でしょうし……住み着きの使用人の居室を解放すれば、収容はどうにかなるでしょうか。お客様にはご理解いただく必要がありますが」
おそらく、物理的にはどうにかなるという話である。そうなってくると、気にかかるのは……
「例のセーフハウスで、今も魔族の方々が暮らしているところへ、ヴィシオスからの亡命者が共同生活をすることになります。そこで摩擦が生じるのではという心配が、ないわけではないですが……」
懸念を打ち明けるリズに、鷹揚な議長が微笑みを向ける。
「とはいえ、あの魔族の方々は使用人たちとも仲良くしていらっしゃいます。使用人が人間としての範を示せば問題ないでしょう」
実際、魔族の仲間を引き連れて行動しているリズも――自分一人が突出して剣呑なだけと思ってしまうくらい、仲間たちは落ち着いて穏やかな気質の持ち主ばかりだ。
加えて、例のセーフハウスには世話好きなルーリリラもいる。だったら大丈夫と、リズはあまり重く考えないことにした。
そうしてマルシエルと話をつけた彼女は、部屋を出ようという去り際、議長に呼び止められた。
「何でしょうか」
問いかけるリズの前で、議長は珍しく言葉に悩む様子を見せ……少ししてから、穏やかな微笑で言った。
「今回はご無事で何よりでしたが、次もご無事ですと嬉しいですわ」
「それはもちろん」
☆
「――といった次第でして」
宿に戻ったリズは、娼館及びマルシエルでの交渉内容を話した。
思えば、実働部隊への説明が一番後回しになった格好だ。罪悪感を覚えないでもないリズだが……魔族らの回答はというと、なんとも快いものであった。
「その程度なら、喜んで」
「我らが勇者殿に、何もかも任せっぱなしだったからな」
「いやいや、我々も留守番はできたじゃないか」
と、雰囲気には軽やかなものがある。こういった友好的なところを、向こうにも認められるといいのだが……
そんなことを思っていると、不意に妙な考えが脳裏に浮かび、リズは思わず含み笑いを漏らした。
「ほう、そんなに面白かったか」
「いえ、そういうわけではなく……ああ、いえ、面白かったですよ。ええ」
愉快な仲間たちに、リズは優しい笑みを向けた。
かつては人類社会でも一番の悪党であったこのヴィシオスが、今では魔族に支配され、人の世との間に災禍をもたらそうとしている。
そんな中でリズは、亡命希望者を逃してやるという一件で、関わり合いになる人間と魔族の仲を取り持とうと心を砕いているところで――
加えて言えば、彼女自身は、大昔に魔族から人の世を取り戻した大英雄、ラヴェリアの末裔なのだ。
(まったく、人も魔族もヘッタクレもないわね……)
何の因果か、奇妙な巡り合わせもあったものだ。




