第331話 未踏の境
11月23日。
ヴィシオス本国への潜入という、並の神経をした者にとっては突拍子もないアイデアだが、リズはどうにか実行にまでこぎつけている。一番の難題であろうアスタレーナの説得においては――
先にルブルスクの者へと声をかけ、外堀を埋めておいたのだ。
同国王都ロスフォーラ近く。閉鎖中の飛行試験場は、リズが仲間の魔族を引きつれて転移するにはもってこいであった。
今回の潜入作戦においては、リズが主たる工作員となる。彼女をフィルブレイスら4人の魔族でサポートするという形だ。
このチームを前に、見送りにやってきた要人たちは、一様に複雑そうな表情をしている。
事によると大局への影響も考えられる今回の作戦だが、その重要度とは裏腹に見送りはごく限定的だ。
作戦の性質上、あまり大々的に送り出すわけにもいかないからというのが一つ。
他の理由としては心情的なものだ。特に、ヴィシオスとの最前線に立たされるこの国において、魔族という存在は実に特別なものがある。
実際には、さほど大規模な戦闘がまだ生じていないがため、この国の兵卒よりはリズに同行する魔族らの方が、よほど危うい橋を渡ってきていると言える。
とはいえ、そこまで念頭に入れた上で、彼らを正当に報いることができる人格者となると――
多くをこの国に求めてしまうのは酷だろう、ということだ。
そんな中、リズとの関わり合いもあってか、良き理解者の王子ヴァレリーがリズたちに歩み出て手を差し出した。
――リズはもちろんとして、彼女の傍らの魔族とも握手を交わしていく。
無論、人間にかなり友好的な彼らが、この握手に応じないはずもない。それでも、ヴィシオスの矢面に立つ国の王子の振る舞いには、普段は落ち着いた魔族らもやや意表を突かれたようにしている。
だが、この国の顔役とも言える王子が、異種族の同志への接遇として範を示したことは大きい。出発前の緊張感ある場の空気に、どこか程よく弛緩したものが流れる。
そのような中にあって、アスタレーナは今も煮え切らない想いがあるのか、複雑な表情をしたままでいるが。
彼女を一瞥したヴァレリーは、どことなく神妙さのある微笑を浮かべて口を開いた。
「出発前に、何か声をかけては?」
「……いえ。今の私が口を開けば、お小言しか出て来ませんから」
「それこそが、彼女には必要なのではないかな」
言われてアスタレーナは、ヴァレリーとリズを交互に見回した。
「私にはなしえない役目だし……いや、きっと貴女にしか成し得ない役目だと思う」
この言葉に観念したのか、アスタレーナはフッと顔の力を抜き、軽くため息をついた。
「ご助言、ありがとうございます。ようやく決心がつきました」
「とはいえ、お手柔らかにね」
「あら、焚きつけていらしたのに?」
国力の大小は歴然として存在するが、同じ王族という共通の立場もあってか、打ち解けた友人といった雰囲気の二人である。エリシアが架け橋になっているのかもしれない。
だが……お小言を胸に秘めているという姉を前に、リズは身構えた。「エリザベータ」との呼びかけにも、何とも言えない静かな圧がある。
「何かしら」と応じると、姉は小さく鼻を鳴らした。
「言っても聞かないでしょうけど……決して無理はしないように。あなたが占める立ち位置とその重大さは、あなたが一番良く知っているでしょう?」
「ええ」
「きちんと、帰ってきなさい」
そう言って、アスタレーナは妹を引き寄せ、しばらくの間無言で抱きしめた。身を包み込んでくる心地よいぬくもりが、しかし、リズの中で一種の罪悪感となり、心の奥を柔らかに締め上げていく。
ややあって彼女を解放したアスタレーナは、一歩下がってフィルブレイスら、協力者たちに視線を巡らせた。折り目正しい所作で、深々と頭を下げて一礼。
ラヴェリアの血を引く末裔が、魔族相手に頭を下げている。この事実に、友好的な雰囲気の中にも、少し張り詰めた静寂が訪れた。
だが、国益と国際融和の道をひた走ったアスタレーナだからこそ、自然な行いでもある。要人たちが息を呑んで視線を送る中、彼女はゆっくり身を起こした。
「妹を、どうかよろしくお願いします」
この、一人の姉としての請願に、魔族らは黙してただ顔を見合わせ……フィルブレイスが言葉を返した。
「きっと、彼女の力になってみせよう」と。
それから、リズ一行は目を閉じて精神を研ぎ澄ませた。
まずは転移により、ルブルスクとヴィシオスの国境沿いにある、中継地点へ向かう。
そこは山間部の盆地にある要塞だ。周囲一帯における戦略要地の一つでもあり、取り囲む山々には偵察網が張り巡らせてある。明確なルブルスク領地と言える場所だ。
少なくとも、今のところは、だが。
できることならば、ヴィシオス本国王都へ直接飛びたいところだが……行ったことがない地点ということで、色々と不安は残る。
国境を侵犯して忍び込むことで得られる情報もあるだろうということで、今回のように中継点を用いる格好となった。
事前に連絡済みの行き先と繋がる感覚があり、リズは目を閉じたまま顔を上げ、その場の皆々に告げた。
「行って参ります!」
これにヴァレリーが「また会おう」と応じ、リズは微笑みを返した。
転移を終えたリズが目を開けてみると、彼女らは無事、要塞の広間に到着していた。事前に知らせてあるとはいえ、こうした形での来訪に少なからず衝撃を覚えているようで、周囲の兵や将官の顔は硬い。
そんな中、リズは周囲にサッと視線を巡らせた。
目につくのは、やはり山々の姿。空を覆う厚い雲の下で、山々を彩っていた木々からは、すっかり艶やかな色彩が抜け落ちている。落ち葉もくすんで地に塗れているようだ。
少し前までは、山間のこの国それ自体が景勝地のように見えたものだったが、今や暗鬱とした寂寥感に支配されるばかりである。
しかし、文字通り国の最前線である一大拠点において、ここを守る兵の熱気には並々ならぬものがある。
突然の訪問に度肝を抜かれた兵たちも、平静を取り戻すのにさほど時間を要しなかった。たちまち、国境超えを果たそうという猛者を歓待する雰囲気になっていく。
今回の作戦については話が通じており、もちろん、リズが魔族を引き連れていく事も知れている。
ともすれば、魔族を前にして剣呑な空気になりかねないところではあったが……さすがに抜かりはない。
というのも、これまで世界各所の拠点攻めにおいて、リズ率いる小隊が並々ならぬ武功を挙げていると伝えてある。
実際に戦ったのはリズ一人だが……あえて言及しなければ、仲間の魔族らも、その手を同族の血で汚したと認識されることだろう。
加えて、彼ら魔族の出自は、かつての大乱で人間側についた魔族の子孫であることも明かしてある。さらには、これまでにマルシエル議会とも関係があり、その承認を受けてここにいることも。
実のところ、マルシエルと関係を結んだのはつい最近と言っても差し支えないのだが……時期について触れなければ、これも嘘は言っていない。
言葉の綾を意図的に盛り込む、一種の詐術に、いささか心苦しいものを覚えるリズ。 一方、仲間たちがこの国の守り人たちに受け入れられている事実は、やましさを大きく上回る安堵をもたらした。




