第323話 墓所は陸の孤島
人の世で生まれた禁呪、《乱動》は、600年ほど前に人類と魔族の間で起きた大戦が終結した後に生まれた。
あのような侵略に対抗するための手段として、魔族が得手とする転移を阻害するために、だ。
この《乱動》は術者を中心とする広範囲において、魔力の流れを微妙にかき乱し続ける効果がある。
とりわけ、何らかの指向性を持って繋がろうとする空間の穴などには強く反応し、空間同士の接続を極めて不安定にする。
実質的に、《乱動》影響下において転移を用いるのは不可能である。
このような対魔族用の魔法が、人の世において禁呪とされたのは、人類もまた《門》を用いて国同士を繋ぎ始めたからだ。国と国を結びつける転移のネットワークが、もしかすると悪意ある者の手で破壊されかねない。
同じ人類による悪用の可能性を強く憂慮したことに加え、当初の懸念材料であった魔族の再侵攻が100年ほどなかったという事実もあり、《乱動》は一度の実戦経験を経ることもなく禁呪となって忘れ去られた。
そうしてホコリを被っていた禁呪が、幸か不幸か今の時代になって、リズの手で日の目を浴びることとなった。
11月18日、夜半。今回の攻略対象であるラディエット砦は、起伏ある丘陵地帯に居を構えている。
そうした丘陵の一部には横穴があり、そこから砦内部への隠し通路が続く。このような通路の存在は、さすがに敵方も察知はしているようだったが……
今では見張りだった人も魔族も無慈悲に倒され、暗い横穴の入り口で倒れ伏すのみだ。
その手で殺めた者たちに視線を向けるリズに、同行する魔王の一人がやや遠慮がちに小声で尋ねた。
「エリザベータ、大丈夫か?」
「えっ? 何のご心配でしょうか」
「いや……人間の兵の相手ならば、我々に任せてもらっても」
こういった気遣いをされるのは、実は初めてではない。敵拠点を攻め落とすたび、1度は耳にしているような気さえする。
場違いなほどに心優しい気配りに、リズはフッと微笑んだ。
「逆にお尋ねしなければならないのは、私がご同胞を殺めることについて、ご不快に思われていないかということですが……」
「それは別に」
実にあっさりと返ってくるが、これもいつも通りの回答である。同行する魔族らが顔を見合わせるが、この中での仲間意識はあっても――
「種族云々ではなく、一個人として友を定めているからな」
「言語化すればそんなところか」
と、対立する魔族らに対する同族意識は、ほとんどない。
ただ、立場が弱そうな見張りか斥候らしき魔族の遺骸に対し、若干の同情心ぐらいはあるようだが。
気を取り直し、リズ一行は横穴を進んでいった。
かつては近辺に川が流れており、この中にも水が通じていたという。この横穴はいざという時の脱出口であり、同時に緊急時の取水口の役も担っていたのだ。
事前の調査によって、リズは砦の地下水路の構造を文字通り頭に叩きこんで――いや、刻み込んである。油断は禁物ではあるが、もしかすると砦を確保した魔族らよりも、正確に把握している可能性も。
また、砦周囲はフィルブレイス率いる別動の魔族らが配されており、この砦はもはや袋のネズミである。
この砦を含め、一連の拠点攻めに向けての事前準備は、リズが禁呪習得を始めたのと同時にスタートしている。禁書読解を手伝ってくれた魔族らにも、《乱動》を覚えてもらったのだ。
無論、この件はマルシエル議会を通じて承認を得ている。何かあればリズが責任を負うという形だが……さすがにフィルブレイスが認める友人たちというだけはあって、心を乱されるような事態は、兆しすら生じていない。
むしろ、この程度の協力で大丈夫なのかと、魔王らに不安そうにされるほどであった。
拠点攻めにおいては、主に魔族らが《乱動》を用いて敵集団を外界から切り離し、攻略対象を陸の孤島に変えることが要点となる。
好都合だったのは、転移を防ぐための《乱動》が、実際には遠隔通信向けの各種魔法にも効果があるということだ。
これは、それら通信用魔法と転移法の類似点が原因である。特に遠距離向けの通信魔法などは、送り届ける対象が音に限定されているだけで、実質的には空間を接続しているに等しい。
つまるところ、伝送する対象を音に絞り込むことで大きく難度を下げ、大衆でも使える利便性を獲得した、一種の転移魔法と言える。
逆に言えば、そのような通信魔法まで阻害することもまた、《乱動》が日の目を見ることなく封じられた一因であろう。
そして、封じられし魔法が一度世に解き放たれれば、その効果は絶大であった。
魔族が得意とし、人類に対する明確なアドバンテージとしているはずの転移どころか、他者と通じ合うための手段までもが、突如として奪われてしまうのだ。
リズを先頭にした一行が息を潜めて暗い横穴を進んでいくと、前方からかすかに響く会話の音が聞こえてきた。
《乱動》によって生じる魔力の乱れは、転移や通信系魔法のみならず、探知系魔法にも悪影響を及ぼす。周辺の魔力を探ろうにも、《乱動》での妨害が働いてしまうのだ。煩わしい背景雑音の中で聞き耳を立てるようなものである。
しかしながら、どれぐらいの乱れが生じるかを前もって経験していれば、ノイズの中から有益なシグナルを感じ取ることは可能だ。
よって、砦を囲むように《乱動》が仕込まれている現状において、この砦近辺が物理的にはアウェーであっても、魔法的にはリズたちのホームと言える。
音のする方に近づけば、慌てふためく会話が次第にハッキリとした輪郭を帯びてくる。
一方で、こちらの接近には気づいた様子がない。
やがて曲がり角の前に至り、リズは同行する魔族らにハンドサインを送った。「この場に留まれ」を意味するものだ。
彼女の腕前を疑うわけではないだろうが、仲間の魔族らはそれでもやや不安の目を向けてくれる。
彼らにリズは少し強気な笑みを向け、足音もなく敵へと近づいていく。曲がり角の陰に身を潜めた彼女はタイミングを見計らい――
突如、敵の方へと躍り出た。
会話音からの推測通り、敵は4人。内訳は人間3人と魔族1人であった。
先に殺すべきは魔族。突然の襲来に浮足立つ彼めがけ、リズは抜き放った魔剣を素早く振るった。
だが、相手も中々に機敏だ。すぐに自己を取り戻した彼は、もはや反射的としか言いようのない速度で反応し、手下らしき人間兵一人を盾代わりに素早く引き寄せ、その陰に身を隠した。
魔剣から放たれた三つの剣閃は、突然の事態に身動きもできない人間兵に、深々とした傷を刻んでいく。
この様を目にしつつも、リズは顔色ひとつ変えずに次の手に移った。もはや死につつある人の盾越しに数発の《貫徹の矢》。
まずは人間兵が臓腑を射抜かれて不随意の震えを示し、わずかに遅れて魔族のうめき声。
一方、いまだ健在の人間兵が二人。こちらもどうにか我を取り戻したようで、まずはこの場から距離を取ろうという動いている。
彼らの足元にリズは素早く魔法を放った。暗闇に呑まれて姿形が判然としないそれは、水の弾である。
乾ききった石に着弾するや、暗闇の中でわずかな光沢を示し……その上に足をつけた一人が、一瞬だけバランスを崩しかける。
天井がはっきりと見えないほどの闇の中、突然の襲撃を受けたとあっては、リズのように《空中歩行》を用いる余裕などなかったのだろう。
後ろ向きに倒れかける彼めがけ、リズは再び数発の貫通弾を放った。リズが着弾を目視するまでもなく、正確無比の狙いが心臓を撃ち抜く。
それから、彼女は流れるような所作で剣を小さく構えて一閃。盾にされた男とともに倒れ込みつつある魔族へと魔力の刃が迫り、二人分の血しぶきが上がる。
残る一人は、この場から完全に離脱する意思を固めたようだ。
そんな彼めがけ、魔法を一発。迫る《火球》に対し、後ろを向きながら《防盾》を構える彼は、どうにかその身を焼かれずに済んだ。
火力を抑えたために爆炎は控えめだが、それでも狭い通路には十分だ。土と石に囲まれた狭い空間一杯に爆炎が広がり、周囲を赤々と照らし出す。
初弾に対応できた彼は、追撃を警戒して手早く追加の《防盾》を展開し続け――
彼の下腹部へ、鋭い一刀。
爆炎の向こうから投げつけられた魔剣が体を貫き、彼は血反吐を吐いてその場に倒れ伏した。
リズの出現から10秒も経っていない間の出来事である。
たちまち静けさを取り戻した横穴を歩いていき、リズは倒れ伏す兵を無感情に転がした。へその下に突き刺さった魔剣を抜き放ち、手にした紙で血を拭っていく。
『もう少し丁重に扱ってはどうだ』
「手っ取り早くていいでしょ」
投げつけられた不平に淡々と応じ、リズは魔剣を鞘にしまい込んだ。
敵を片付けた彼女は、同行者たちのもとへと戻り、何事もなかったかのように「行きましょうか」と先を促した。
そんな彼女へ向けられる視線には、驚嘆と畏敬が入り混じり――
「フィルが君の敵じゃなくて、本当に良かったよ」と、しみじみ発された言葉に、リズは小さな含み笑いを漏らした。




