第321話 進展
11月2日。ルブルスク王国近海に展開中の大船団の一隻、その船長室で、マルクは数々の書類に目を通していた。
世界に大異変が起きてから、これで2か月ほど経つ。
この間、人類側は情報網の構築に力を注いでいた。それが成った直後は、こうした現場にもドッと情報の波が押し寄せたものだが……
最も危険に晒されていると思われる、このルブルスク王国において、少なくとも今は一時的な小康状態といったところである。
この船団を含む、ラヴェリア・マルシエル両国家からの援軍が、ルブルスク入りを果たしたのは先月のことだ。
国土防衛のためにと派遣された軍勢だが、取り立てて大きな動きは、海陸両方で起こされていない。
こうした大規模な防備が整うまでの2週間ほどは、嫌がらせのような小規模船団の攻勢があったものだが……その時はルブルスク海軍の働きに加え、マルク率いるこの船の機動的な援護もあって、敵船をいくつか失敬する戦果を立てている。
動きに乏しいのは、ルブルスクの空も同様であった。
大異変から数日の間には、ヴィシオスからやってきたと思われる飛行船の襲撃があったものの、これらはアクセル指揮下の飛行船団で撃退、及び鹵獲に成功している。
加えて、世界各国からも何隻か飛行船が提供されるに至り、敵の攻勢はばったりと途絶えている。
ルブルスクを攻める代わりにと、海を越えた他の小国へ偵察も兼ねたごく少数での動きは見受けられるが……
そうした報告の一つを手に取り、マルクは文字を追った。
ヴィシオスを完全に取り囲むほどの網は構築できていないが、空から襲われそうな国への飛行船配備は、すでに大方完了している。
情報が早い現状も、そうした備えあっての事だ。
逆に相手側も、こうした防備の整い具合は察知しているらしい。動き出した小規模な敵勢は、もはや小競り合いに至ることすらなく、見つかればすごすごと退散するのが通例となりつつある。
一方、監視と警戒の網目をかいくぐった敵飛行船の手で、小さな集落や農地が焼き払われるという被害が、世界中で幾度も生じているが……
人類としては、受容すべき被害なのかもしれない。
ともあれ、大異変初日ほど大きな混乱はないのだが……暗黒大陸を離れて忍び寄る魔手は、少しずつではあるが着実に、人類側領域を脅かしつつある。
遺棄されて久しい廃墟や城塞など、他人の手を離れている場所に魔族が出現し、いくつも拠点化されてしまっているのだ。
これを取り戻そうという動きは当然のようにある。とはいえ、転移に長けた魔族が相手とあっては、どうにか取り返すのが関の山。現場指揮官クラスを捕らえるのは至難だ。
それに、魔族を捕らえ得るほどの戦力を投じたものの、そうした勇士が無視できない負傷を受けた事例も。及び腰にならざるを得ない部分もあった。
足並み揃ってきた人類側諸国ではあるが、貴重な戦力を他国に回すとなっては、おいそれと首を縦に振れないというのが実情である。
そうした諸々を考えると、大規模な戦闘こそないものの、人類側は振り回される一方。不利な立ち位置にあると言える。
この状況を打破すべく、より大規模な派兵の準備も着々と進んでいるという話ではあるが――
(しかし、どうなるものか……)
ルブルスクの国土を広げるか、あるいはヴィシオスの沿岸部をいくらか切り取ることができれば、後の有利に繋がることだろう。それが果たして、成るかどうか。
この先を思うと、なんとも落ち着かない気持ちにさせられるのだった。
世界全体が先行き不透明な状況で、得られた有益な情報もある。現状においては数少ない軍事的衝突の中、幸運にも捕らえることができた人間捕虜からの証言だ。
どうやら、ヴィシオスでは完全に指導層が刷新され、王族ではなく魔族の統治下にあるらしい。
もともと長きにわたって、かの国が恐怖政治を敷いていたということもあって、臣民にとっては実際的な変化がさほどでもないというのが皮肉ではあるが。
ただし……大半の捕虜は、再び人間側に身を置くことに安堵した様子を見せつつ、こうした解放をあくまで一時的なものと捉えているらしい。
――すなわち、人の世はそう長くは続かない、と。
この騒乱が始まって間もない頃、ヴィシオスを再び人の手に取り戻そうと、王家に忠実な近衛たちが立ち上がるも、魔族の手で一蹴されたという話もある。
これが強烈な見せしめとして機能しているのだろう。単に魔族のみを相手取れば良いのではなく、恐怖に支配された人間もまた、無視できない敵として立ちはだかっている。
このような、気が滅入るばかりの現状ではあるが……朗報がないこともない。
そろそろ頃合いかと思い、マルクは甲板へと向かった。
彼が向かった甲板は、少し賑やかになっていた。それもそのはずで、この船へと一隻の小さなボートが、本来の船長を乗せて近づいてくるところだ。
多くの視線が見守る中、リズは久々に自分の船の甲板に立った。
「2か月ぶりかしら」
「そうなるな」
「任せきりにしてごめんなさいね。今まで大変だったでしょう?」
穏やかな調子で皆を労うリズだが……マルクは、ニコラやニールを始めとする仲間たちに視線を巡らせ、いずれもが顔に苦笑いを浮かべる。
「リズほど大変でもないな」
これには「確かに」と、リズも思わず苦笑した。
この2か月ほど、彼女は新たな禁呪の習得に取り掛かっていた。集中するための時間を取るという点については、その意義も含めてマルシエル議会から承認を受けている。
しかしながら、出撃を求められる機会もそこそこあり……大局を見越しての禁呪習得ではあったが、相手に要衝を取られて後に響いては――と、要請に応諾することも数回。
結局、世界を股にかけるような、慌ただしい日々が続いていた。
そんな彼女が、今こうしてここにいる。
「途中で投げ出したってわけじゃないだろうけどな……首尾は?」
落ち着いた様子の船長代行とは裏腹に、少し緊張感をもって固唾を呑むクルーたち。そんな中、リズはあっけらかんと応じた。
「上々ね。難しい禁呪だけど、どうにかモノにしたわ。試しに使ってみて、うまくいったしね」
堂々とした発言に、甲板上で大きな歓声が上がる。
先も知れない闇の中にあったのは、リズの仲間たちとて例外ではない。そこへもたらされた、頼もしきリーダーからの言葉は、ここ最近一番の吉報だったことだろう。
ただし……肝心なことをニコラが尋ねた。
「どういう禁呪なんですか?」
沸き立つ場の雰囲気に表情を綻ばせていたリズだが、この問いにはすぐに顔を引き締め直した。
「色々と問題ある禁呪でね……あまり言いふらしたくはないの。ごめんなさいね。話すとしても、相手を絞りたいわ」
「私、口は堅いですよ」
すぐに応じた真顔のニコラに、リズは微笑みで返した。
「ニコラ、マルク。少しお話ししましょう」
「了解」
結局、一番付き合いの長い二人が話し相手となった。
残る面々は、残念そうにしてはいないが、気にはしているようだ。無言で視線を向ける仲間たちに、リズは若干寂しげな感じのある微笑で「ごめんなさいね」と、改まって口にした。
さて、二人を連れて久しぶりに、自分の船長室へと戻ったリズ。感慨にふける間もなく、イスに座るなり彼女は、虚空から一冊の本を取り出した。
「これは?」
「覚えた禁呪と、その使用成果とか、今後の構想」
手短に答えるリズの前で、マルクは本をめくっていく。彼と、横からのぞき込むニコラは――すぐに眼を白黒させ、本とリズを交互に見つめ始めた。
「本気ですか?」と、いつになく真剣な口調のニコラ。これにリズは、真正面から真摯に応じた。
「バカげた考えに思えるかもしれないけど、これが一番効果的だと思う。何かしら新たな情報を得るためにも、ね」
「……信じられない話だが、成功しているようだしな」
「ええ」
さっぱりした調子で二人に応じるリズだが、向けられる視線には、どこかいたたまれないものがあり……
こうした感情を向けてくれる仲間の存在をありがたく思いつつ、リズは困ったような笑みで口を開いた。
「そんな顔することないわ。だって、私が進んでやっていることだもの」




