第315話 骨と瘴気の邪竜
見上げるような巨体が地を揺るがしながら、一歩一歩、歩みを進めてくる。敵地を侵攻しているとは思えないほどの、その動きの緩慢さには、これ見よがしな威圧の意もあるのだろうか。
忌まわしき呪法で繋がれた骨と骨の間からは、絶え間なく暗い紫の瘴気が漏れ出て大気を汚していく。
これが街へと進入しようものなら、どれほどの被害が出ることだろうか。
恐るべき邪竜を前にリズは身構え、まずは一発魔法を放った。
用いたのは《火球》だ。人に向かって撃つべきではないとされる、人間社会における禁呪も、これほどの大敵の前では心もとない。
直撃しようとも大した戦果は上がるまいが、それを承知の上で彼女はこの魔法を用いた。
威圧的な巨躯へと向かう《火球》は、普段よりもずっと些末で、いじらしくさえ映る。
そして、着弾。敵が前に差し出している右前脚に爆炎が広がった。
その着弾点の様子に、リズは距離を維持しながらも食い入るように注視した。気がかりなことは何一つ見逃さないようにと。
一発ではさほどの役に立つまいと考えてなお、こうして《火球》を用いたのは、彼女の技量をもってすれば連射できる魔法だからだ。有効とわかれば、最大の戦果を期待できる。
しかし、それはこの魔法が効く場合に限っての事だ。
あえて攻撃を一発に留めたのは、この未知なる大敵に《火球》が効くかどうか、まずはしっかりと確認するためである。
着弾点に生じた衝撃と爆風により、白いモノが砕けて飛び散っているのが見える。おそらくは骨片であろう。
これだけを見るなら、効いているように思われるのだが……
相応の距離を隔ててなお、舞い散る骨片を視認できたのは、単にリズの視力や集中力によるものだけではない。
爆風によって、ほの暗い瘴気までもが飛ばされ、それを背景として骨片が目立っているのだ。そして――
(遅い?)
加速した知覚の中でなお、彼女は飛散具合に不自然な緩やかさを感じ取った。
骨とともに飛び散らんとするように見える瘴気が、粘性のような性質を発揮し、骨片を繋ぎ止めて絡め取っている?
一瞬の間に脳裏を巡った直感が、彼女の目の前で現実のものとなっていく。爆風で吹き飛ばされかけたかに見えた骨片と瘴気が、時を巻き戻して着弾点へ。
直撃したのは確かだ。骨量をそれなりに失っていると考えれば、完全に元通りというわけにもいくまいが……
見たところ完全に繋がった骨が、着弾点だったはずの部位を埋めていることに、リズは表情を険しくした。
(ストックがあるってことね)
考えてみれば当然の事だ。骨と骨の間に黒い瘴気が滲み出ている事実から、骨で覆われた外層と、内部を充填する瘴気という構造を無意識的に思い描いていたのだが……
何も、骨の外部構造が一層のみという保証はない。
(後釜も兼ねて、内部に骨格があるとしてもおかしくはないし……)
となると、あの骨組みの原動力となっていると思われる瘴気の全てを祓うか、あるいは敵の巨体を構成する骨を、再利用不可能なまでに粉砕するか……
でなければ、未だ影も形も見せない術者を探し出し、そちらから殺すか。
いずれにしても、相当に骨の折れる仕事である。
先の段に思いを巡らせるリズの前で、今度は敵が行動を示した。骨を組み上げた邪竜がその大口を開けると、その奥には光を呑むような深淵が広がっていた。
その、若干紫の色味を帯びた闇に、少し鈍い光のようなものがきらめき――
力の胎動を感じ取ったリズは、とっさにその場を離れた。
彼女の動きから一手遅れ、大きく開け放たれた竜の口から、瘴気のブレスが迸る。リズがいたところを、やや紫がかった暗闇が駆け抜けていく。
直撃を免れ、十分な間合いを取ってもなお、彼女は肌にひりつく感じを覚えた。
地を覆う瘴気が走り抜けた後、彼女は地面の変化に目を凝らした。
この一帯は荒野だが、まったく草が生えていないというわけではない。事実、リズの足元にも、つい先ほどまでいた場所にも丈が短い草はあったのだが……
瘴気が駆け抜けた先には、何も残っていない。
それどころか、地面までもが色味が変化している。地面から生気が完全に奪われたのでは……リズはそのように感じ取った。
これが直撃すれば、果たしてどうなることか。《防盾》を重ねて、どうにかなる類の攻撃とも思われない。
しかし、好材料に思われる事実もある。
リズが回避行動に移ってから、竜が瘴気のブレスを放出するまでの間に、敵は攻撃方向を変えることができなかった。これがブラフとは考えにくい。殺せるうちに殺し切るべきだ。
であれば、考えられる可能性はいくつかある。
この竜が、何らかの形で自律行動のみを行っているのであれば、動きは鈍重で精度も低い。
一方、術者による操作が介入しているのだとすれば……相当な距離が開いているのは間違いなく、その間合い故にか対応が少し遅れている。
他の理由としては術者の力量、はたまた術式そのものの仕様によるものもあるのかもしれないが……ともあれ、機敏かつ精密な動きをさせるのは灘しいのではないか。
となると――油断するのは論外としても、案外、この竜はこれ見よがしな陽動に過ぎないのではないか?
(私みたいに駆けつけてきた、腕に自信ありげな奴を引き寄せるエサって可能性も……)
ブレスを外したことを気に留めた様子はなく、忌まわしい瘴気を漂わせる巨体は、我が物顔で悠然とのし歩いてくる。さすがに、これを対処しないわけにはいかないが……
自分が立ち向かうべき大敵を前に、リズは考えた。竜を囮に、術者が何か仕掛けてくる可能性は十分にある。
しかし、それ以上に憂慮すべきは、敵が完全に偵察に徹する可能性だ。
これは、兄弟に命を付け狙われていた過去がある、リズならではの発想であった。
――人間社会にいる勇士がどれほどのものか、こういった戦闘で情報を引き出そうとしているのでないか、と。
竜単体で殺せれば、後続に注意を向ければよく、竜を囮にした奇襲で術者が手を下しても上々。
仮にこの竜を打ち滅ぼされたとしても……これを倒すために、あまりに多く手の内を晒したのでは、後が続かなくなるのではないか。
そう思うと、相手の興味を惹くようなことは、軽々しくできはしない。
この戦いが監視下にあるという想定を念頭に、リズはどのように立ち回るべきか、思考を目まぐるしく巡らせていき……
彼女の思案を知ってか知らずか、竜が再び攻撃の兆しを示した。首周りを中心に、皮膚代わりの骨が少し波打つ。まるで息を吸って力をためるように。
それをほぼ無意識的に”事前準備”と認識したリズに、竜が再び瘴気のブレスを吐き出した。
事前の兆しから攻撃を察していた彼女にとって、攻撃を避けるのは造作もない。
だが、横へ避けた彼女を追うように、今度は竜が吐息を吐き出しながら首を動かしてくる。地を追う瘴気が地を舐めながら、彼女の元へ迫る。
(どこまで首を動かせるか、試してやってもいいけど……)
あえて避けられる程度の動きしかしないブレスの薙ぎ払いに、リズは誘導の意図をうっすらと感じ取った。
ここから動かして、奇襲を仕掛けようというのでは?
一帯にはそれなりの大きさの岩が転がっている。そこに身を潜めていると考えれば……あり得ない話ではない。だが、まだ確証がない。
どこか、別のタイミングでと考えた彼女は、ひとまずブレスの回避に注意を向けた。
この攻撃も、いつまでも続けられるわけではあるまい。無駄だと思えば、いずれ止めるだろう。
そう考えた彼女は、横に迫らんとする瘴気の奔流から横に逃げ――追いすがって迫る吐息を横目に、彼女は黒黒とした濁流の向こう側へと跳躍した。
軽やかに宙を舞う彼女の下で、この動きについていけない瘴気の流れは、無為に地面を舐めていくばかり。
逆方向へ切り返した後、今度は漆黒の吐息を吐き続けるその口へ、リズは数発の《火球》を叩きこんだ。
果たして、どのような反応を示すか。爆発に乗じ、何らかのアクションを起こす可能性を念頭に、彼女は身構えて攻撃の効果を待った。
やがて、《火球》が竜の口に着弾。怒涛の力の流れが乱され、爆風とともに瘴気が宙に乱れ飛ぶ。
それなりに多くの瘴気が失われたように見えるが、まだまだ竜は健在である。爆発が炸裂した口も、どこかから補ってきた骨によって無事だ。
たちまち口が治るや、再び攻撃の前兆。骨が波打ち、息を整えていく。
そして、放たれるブレス。避けるのはわけないことだが、あえて緩慢な攻撃を繰り返し、慣れさせる意図があるのかも――
それとは別に、リズはこの一連のやり取りで、相手の隠された意図を察した。
――ブレスを吐く前に息を吸って見せる動作は、そのように見せるためだけの、単なるブラフだと。
最初から違和感はあった。そもそも、ヒトの骨を組み合わせて作った竜が、生きている竜の挙動に従わねばならない道理などあるだろうか?
アレは、竜に似せただけの怪物に過ぎないのだ。
そんな怪物が、あたかも生きている竜のように、息を吸う動作を行っている理由は――それが、攻撃の前には必須だと誤認させるためではないか。
これさえ気づいておけば安心……などと思わせておいて、とっさのタイミングで急襲というのは、大いにあり得る話だ。
何だったら、別に口から吐く必要すらない。骨に囲まれた内部で何が起きているのか、こちらには知る由もないのだから。
その気になれば、あの竜のどこにでも、攻撃用の口を作り出すことさえ可能かもしれない。
もっとも、そうした推定があっていたとしても、それで有利になるわけではない。ただ、見せつけられる兆しに騙されなくなるというだけの話だ。
敵が攻撃に移るにあたって、本当に不可欠の兆候に気づかなければ。
相手も相手で、手の内を晒したくはないと見える。相も変わらず、竜は吐息を吐き続ける。息を吸うような動作も変わらない。
このまま続けてきてくれるうちに、次に繋がる何らかの布石を打たなければ。
易々と避けられる程度の攻撃の最中、リズは思考を巡らせていき――
一つの解に至った。




