第294話 凶兆満ちる大空の下
リズが空間転移で最初に向かったのは、ロディアン近くにある川だった。
世界中を襲っているという――おそらくは、大魔王ロドキエルが率いる――魔族の軍勢にとって、ロディアン近辺のような農耕地帯に、侵略価値があるかどうかはわからない。
しかし、相手の意図など完全に把握できるはずもないのだから、まずは確かめに行く意味はあった。
それに、仮に襲撃を受けていたのなら、自衛戦力に乏しいあの一帯では――
空間を繋いで川べりに立ったリズは、不穏な空気に息を呑んだ。
黒い雲が空を覆い、雷鳴がところどころで唸りを上げる。
その時、辺りを染める稲妻の一閃。
白い閃光に浮かび上がるシルエットを目に、リズは衝動的に駆け出した。
上空で竜が、黒い魔力を伴う怪鳥たちと戦っている。
そして……怪鳥の一体が、地上に目掛けて動き出すところだった。
黒い影が向かう先に、あの町がある。
目の届く範囲であれば、短時間で転移することは可能だ。
だが、それを可能にするだけの集中力を、この場に立ち尽くしたまま維持する自信が、今のリズにはない。
だからこそ、彼女は全身全霊の力で駆けていく。
風よりも速く駆け抜ける彼女は、みるみるうちに間合いを詰めていく。
視界に捉えたロディアンの町では、出歩いている者がほとんどいないようだ。
それでも、故郷を守ろうと武器を手に構える者もいる。見知った仲の若者たちだ。
彼らを前に、黒い翼の怪鳥は空の一点で止まり、そこで大きく翼を広げて羽ばたいた。
両翼だけでも相当の大きさになる。ちょうど、町の大広場の直径に相当するだろうか。
不思議なほど静かな前方の戦場から、その羽ばたき音が聞こえてくる。
内側から打ち付ける鼓動の音と、荒くなるばかりの自分の息も。
そして怪鳥は、地上にいる者たちに向かって首を持ち上げ、大きく息を吸った。何か吐く気だろう。
町を守る若者たちも、そういった見立てはあるようだ。攻撃準備に入ったと思われる怪鳥に、地上から浴びせかけられる《魔法の矢》の連射。
だが、常人による必死の攻撃も、怪鳥には決定打とならない。黒い羽根が空に舞い散るだけであった。
荒くなる息、高鳴る鼓動。時の流れが粘性を増していく。
徐々に高まる、邪悪な魔力の気配。
(まだ間に合う)
目の前には町の入口がある。力強く踏み切り、町を囲う柵の上へ。
怪鳥は持ち上げた首を、少しずつ地上へと向け始めた。
(私なら間に合う)
踏みしめた柵から跳躍し、大きく跳んで屋上へ。屋根伝いに進んで敵の元へ。手は自然と腰の剣に。
眼の前の怪鳥は、大きく開けたその口から、今まさに黒い魔力の塊を放つところだ。
そして、緊迫と静寂が満たすその場に――
彼女は間に合った。
怪鳥が放った、漆黒の稲妻がまとわりつく黒い魔弾が、すぐ目前に迫る。
このような状況にあって、若者たちは意外と冷静ではあった。直撃を貰わないようにと、近くの建物に逃げていくのがわかる。
これでやりやすくなった。リズは唇の端を吊り上げ、敵に向けた手から魔法陣を記した。
まずは攻撃の対処からだ。威力のほどは定かではない。どのような攻撃か確かめたい思いもあり、彼女は《魔法の矢》を一瞬で連射した。
コマ送りになった時間の流れの中、彼女が放ったいくつもの魔弾が、黒い球体に打ち付けられていく。
(10発ってところね)
相殺までにかかった弾数を見極め、彼女は腰の剣を引き抜いた。
一方、残余の弾幕が、相殺された魔力の残滓を突き抜けて怪鳥に襲いかかる。攻撃の密度、弾丸の重さに、怪鳥が金切り声を上げる。
たまらずその場を離れようとする怪鳥目掛け、リズは空を蹴って迫った。
と、今度は巨体に見合わない身のこなしで、怪鳥が機敏に動いていく。広げた翼を器用にたたみ、体に巻き付け――
その様子に、リズは次なる脅威を感じて身構えた。とっさに魔導書を一冊を飛ばし、高度を上げていく。一方で自身は、怪鳥と町の間へ割り込んだ。
果たして、この選択は正解であった。
突如、再び黒い翼を広げた怪鳥が、全身を大回転。渦巻く黒い魔力から、黒い羽根が矢の雨のように放たれる。
この飛び道具に対し、リズはまず《火球》を数発放った。羽根の密集度が高いところで《火球》が炸裂。爆風に煽られ、羽根の多くが直進できなくなる。
弾の勢いを削いだところで、彼女は《風撃》を展開した。強烈な風が渦を成し、黒い羽根が巻き込まれていく。
次いで、この風の渦に、リズは別の魔法で火を付けた。悪しき気配を伴う羽根が、火炎の竜巻の中で消し炭に。
町を守る一方、リズは反撃の手を並行していった。自身から離して飛ばした魔導書から、怪鳥目掛けて《火球》を連射。
これをまともに受け、怪鳥は耳をつんざく高音を空に響かせた。
《火球》の直撃を受け、翼には大穴が開いている。それでも、まだ地に落ちるというところまではいかないが――
怪鳥がわずかに、前傾になるその兆しを、リズは見逃さなかった。
(突っ込む気!?)
眼の前の怪鳥は、町へ急降下しようというのではないか。
その可能性を感じ、リズは空に向かって駆け出した。炎の渦巻きを解き、それが消失するのも待ち遠しく、薄れかかった炎の膜をそのまま突破。
対する怪鳥は、痛めつけられた翼を大きく振り、リズを威嚇しつつも突撃の体勢を整えていく。
そして、怪鳥が動き出すその前に、リズは敵の巨体に取り付いた。鳥とは思えないほど太い首に、さながらラリアットをかけるように腕を回し、突っ込んだ勢いを生かしてそのまま背面に回り込む。
取り付いた彼女を振り落とそうと、怪鳥が黒い羽根を撒き散らしながら暴れまわる。
だが、リズは構いもしなかった。右手でくちばしを力強く握り、大きく振りかざした左手で、頭部に長剣を突き立てる。
長剣は頭部を完全に貫き、赤黒い液体が辺りに飛び散った。
これで無力化できたはず。力を失った巨体が、今度は地に落ちていく。
しかし……その落下の方向が少し町に寄っていることに、リズはすぐ気づいた。
「冗談でしょ、この!」
思わず口をついて出る悪態。
おそらく、怪鳥は死の寸前に、若干前向きに落ちるような力を加えていたのだろう。
激突までの猶予はほとんどない。リズは強烈な筆圧で、敵の死体に魔法陣を一瞬で焼き付けた。
力づくの魔法陣に、これまた暴力的なまでの魔力が注ぎ込まれ、爆発的な突風が巨体の進路を捻じ曲げる。町から逸れて落ちるように。
そして、黒い残骸が激突。腹に響く低い轟音とともに地が揺れる。
一匹片付けたリズだが、彼女は安心もせずに空を見上げた。
似たような怪鳥が、まだ空にいる。山住まいのあの竜が戦っている。
思えば、あの竜が戦えるかどうかなど、話した覚えもない。複数体の怪鳥相手に渡り合っている辺り、相当の実力はあるのだろうが……
どうにも、手一杯の雰囲気を感じる。
行かなければと思いつつ、リズはまず、町へと足を向けた。
怪鳥を一匹仕留めたことは、町の者たちもすぐ察したらしい。物陰に隠れていた知人たちが、恐る恐る顔を出して確かめに来る。
そして、そのうちの一人が口を開いた。
「リ、リズさん?」
「はい」
敵が倒れた安堵もあるだろうが、それよりも困惑の色が濃い様子だ。
それもそのはずで、いるはずもない人物がそこにいて――
一人で、あの怪物を片付けてしまったのだから。
「色々と聞きたいことはあると思いますが、全部片付けてから話します」
落ち着いた態度で口にするリズに、若者たちは顔を見合わせ、うなずいた。
「リズさん……どうか、手助けを」
空を見上げながら言う若者に、彼女は「そのつもりです」と答えた。
この町ばかりでなく、あの竜にも大恩がある。その厚恩がなければ、妹に呪い殺されていたかもしれないのだ。
失うわけにはいかない。




