第288話 VS魔族ジェステラーゼ①
何かしら動揺等を誘えれば、あるいは敵の正体や目的に繋がる、何らかの反応があれば――
そんな考えから、初対面の魔族に自身の本名をあっさり打ち明けたリズだったが、それなりの手応えはあった。
「……バカな」と、魔族ジェステラーゼが若干の困惑を示した。端正な顔を怪訝な思いでわずかに歪めている。
「貴様ら人間の世で、軽々に吹聴できる名でもあるまい。それとも、そのような易き扱いに堕したというのか?」
まるで信じていない様子の相手だが、ラヴェリアという姓を非常に重く見ているようだ。
リズは「今に信じざるを得なくなるわ」と、いくらかの余裕を見せて言い放った――手が汗ばむのを感じながら。
彼女の目の前で、ジェステラーゼは強大な魔力の炎を侍らせている。赤熱の大蛇は鎌首もたげ、この場を離れんとする人々を睥睨している。
巻き込まれれば、ひとたまりもない。それはリズ自身とて似たようなものであった。
これほどまでに暴力的な魔力は、お目にかけたことがない。
それでも彼女は、不敵な笑みを浮かべた。
始まる前から呑まれていられようか。
立ち向かってくる彼女に、依然として訝しむ目を向けるジェステラーゼは、軽く鼻を鳴らした。
「いいだろう。お前が単なる不届き者か、それとも本物か……我が力で試すとしよう」
そうして彼は、軽く指を動かした。
この合図を受け、空を歪ませる灼熱の大蛇が動き出す。その身の到来よりもずっと早く、熱波が押し寄せてくる。
炎が向かう先は、まずは先頭のリズ。それから、後方で逃げる人々といったルートをたどるように、彼女は感じ取った。
――逃げられるものなら、逃げてみよ。
そんな無言のメッセージが聞こえるようだ。守るべき異国の民と、自身の安全を天秤にかけ、品定めされている。
(上等じゃない!)
とぐろ巻く炎を蛇に見立てていた彼女だが、実際に蛇を模したものではあるらしい。炎の先端が大きく口を開き、全てを呑み込まんとして迫る。
炎蛇の下顎が地をかすめると、蒸発音がリズの耳に届いた。地形も何もあったものではない。
この脅威を前に、彼女は瞬時にしていくつもの魔法陣を展開した。《水撃》、《風撃》の連携だ。
突如として現れた魔法陣により、渦巻く水の激流が宙をうねり――
炎と水の激流が正面からぶつかりあった。瞬時に視界が白むほどの濃霧が現れ、激しい風が白い粒子を散らしていく。
これで完全に相殺できたわけではない。少しでも気を抜けば、押し込まれそうになる。彼女は懸命に魔法を維持しつつ――
さらなる動きに転じていく。
攻撃を相殺しつつも、これを目眩ましに用いるのが最初からの考えであった。
もっとも、相手も手慣れたものだ。ぶつかり合う魔力の奔流と、荒れ狂う蒸気の渦の向こう側で、敵は若干その場を動いている。
先程の位置関係を頼りにまっすぐ撃っても当たらず、しかし大きく移動したとは気取られない程度に。
強大な魔力を操るだけの力押しの敵ではなく、戦いの駆け引きを心得ているようだ。
ただ、向こうから何か仕掛けようという兆候は、今のところはない。
双方の魔法が衝突し、まだ数秒というところだが。
相手が次の動きを示さない、このわずかな間隙に、リズは一つの魔法陣を記述した。
《超蔵》だ。
少し前までは、それなりに時間がかかっていたこの禁呪も、今や手慣れたものである。
自力転移を繰り返すようになってからというもの、すっかり習熟してしまったのだ。
指先で魔法陣を描きながら、腕を伸ばす彼女の手の先で、虚空の穴は誂えたかのように現れ、術者をスッと受け入れた。
虚空から取り出したのは、いつもの魔剣である。
「よろしくね、閣下!」
『……今度は何だ』
虚空から抜き出す勢いそのままに、掴んだ剣を引き抜き、言葉を交わしつつ一刀。
放たれた剣閃は、地表に垂れ込める濃密な雲を抜け、紅い大蛇を切り裂いた。
これで撃退できたわけではないが、火勢に若干の揺らぎが感じられる。
一撃の後、また別の武装が彼女の元へと馳せ参じた。《念動》を用い、鞘は腰へ。魔導書は一冊を腰のホルダー、二冊は宙に追随する形だ。
一通りの装備を整え、リズは《超蔵》を解除した。
ぶつかり合う魔法も、これでかなり相殺できたらしい。衝突から十数秒で、蒸発音は消えて濃霧だけが残った。
それも暴風にかき消されてしまうのだが。
辺りが晴れ上がると、先程の攻撃による惨禍が明らかとなった。
地面には炎蛇の通り道が克明に刻み込まれ、そこにあったはずの土は跡形もない。先程の濃霧に混じり、どこかへと霧散したのだろう。
そして、敵は依然として飛行船の残骸の上だ。
恐るべき業火も、ジェステラーゼにとっては、決してご自慢というほどのものでもないらしい。たかだか人間に相殺されたことに対し、戸惑う様子はない。
ただ、ラヴェリアを名乗る小娘を見直す気持ちは湧いたようだ。
「ラヴェリアを口にする程のことはある。装備を整える時間程度は、あらかじめ用意してやるべきだったかな?」
「お気遣い無用よ。そちらこそ、今からでも帰って用意してきたら?」
「ククク……なるほど。本当に血を引くか、それとも信奉者かは知らんが、口が減らないのはそれらしいな」
若干気になる表現を用いるジェステラーゼだが、リズは気にしないことにした。
あの大英雄と直接の面識がなかろうと、彼の性格や振る舞いは語り草だからだ。
そんなやり取りをしていると、魔剣が不機嫌そうな口を挟んできた。
『彼奴が今日の敵か』
「ええ。魔族らしいわ。生身の相手で嬉しいでしょ?」
『フン……調子のいいことだ』
そこへ、関心を示してくるジェステラーゼ。
「ほう、意志ある宝物か」と、彼はいくらか声を弾ませた。
「そこの、名をなんというのだ?」
あくまで大上段から問いかける魔族。これに、気位高い魔剣が応じるはずもない。
『貴様から名乗ったらどうだ、下郎』と、魔剣はかすかに刀身を振動させ、耳障りな音で彼に応じた。
リズの読みどおりではあった。こうやって互いに勝手にくっちゃべってくれれば……逃げの時間を稼げる。
相手にしても、その程度の読みはあることだろう。魔剣に興味の目を向ける一方、ジェステラーゼは時折目を外し、視線はこの場を離れてゆく面々に。
見透かした上で、乗ってやっているというところか。
とりあえず、十分な距離は稼げた。振り向きもせず、ただ音と魔力を頼りに位置関係を把握したリズは、険悪な二者の間に割って入った。
「こっちの魔剣は《インフェクター》閣下。あちらの魔族は、ジェステラーゼさんよ。二人とも仲良くね」
嫌味もたっぷりに乗せて紹介するリズに、魔剣は背筋をざわつかせるような不協和音で答え、魔族はただ笑った。
「活きの良いことだ。そうやって自分を駆り立てているのだろう?」
「デリカシーのない野郎ね」
暗に認めつつ、なじるリズ。彼女にジェステラーゼは、少し憐れむような目を向けた。
「挨拶程度に……という考えはあったのだが、余興ごときで勘違いさせてしまったようだな。心苦しい限りだが……じきに笑えなくなろう」
そう言って彼は、上空に巨大かつ複雑な魔法陣を展開した。
――それも、同時に2つ。
先程と同程度の攻撃だろうか?
身構えるリズの前で魔法陣が起動し、魔力が姿形を成していく。
一方は宙に穿たれた穴。もう一方は、先に見た紅い大蛇だ。大蛇は瓦礫の山に立つ術者の周囲に座し――
宙に空いた穴から、一つの物体が飛来した。リズの後方の地面に激突し、かすかに地を揺るがす。
幸いにして、悲鳴は聞こえない。
今のところは、だが。
宙に浮かぶ黒い射出口は、ジェステラーゼの優雅な所作に合わせ、その砲口をリズのさらに後方へと向けた。
「さぁ、どうする? ラヴェリアよ、回答を示すがいい」
足元の瓦礫を足で小突きながら、ジェステラーゼは楽しそうに笑った。




