第286話 凶兆を前に
思いがけない事態に息を呑むリズは、初めて見るこの事態を、前から知っていたような感覚に襲われた。
その違和感の出どころは、飛行船の墜落事件である。
一連の事件を引き起こした張本人たちによれば、彼らは飛行中の船から魔導石を抜き取り確保していた。
動力源を失った飛行船は、そのまま墜落していたという。
そして、彼らの背景にあるのはタフェットという小国。このルブルスクと同じ暗黒大陸に存在する国家であり、ヴィシオスの支配下にある国の一つでもある。
点と点が繋がり、一気に不穏なものが立ち込める。
――ルブルスクにとって大きな一歩になるはずだったこの試験も、実はさらに大きな陰謀の一部でしかないのでは?
突然の事態に狼狽を隠せず、混乱極まる最中にあって、リズはどうにか精神の安定を保った。
そこへやってくる、エリシアの正規の護衛たち。彼らにとっても予想外の事態だろうに、冷静に駆けつけてきてくれたことに、リズは大きな安堵と感謝を覚えた。
だが、状況は容赦なく動いていく。
上空から響き渡る破断音。壊滅的な事態が目に届くその前に、リズは反射的に横にいるエリシアの目を手で覆った。
彼女にいかなる使命感があろうとも、こんなものまで見届けさせるわけにはいかない。姉から託された使命感が、体を突き動かす。
先に響いた音に耳を塞ぐ者も多い中、ついにその時がやってきてしまった。甲板から魔導石が完全に突き抜け――
わずかな間をおいて、飛行船の巨体が地面へと落下していく。
その直前に、リズは飛行船から脱する何人もの人影を認めていた。飛行船に関わる人材だけあり、もしもの備えに《空中歩行》程度は常識である。
だが、首尾よく抜け出せたものがいる一方、そうではない者もいる。
落下していく船内から、地に叩きつけられる前にどうにか飛び出る者が数名。突然の事態の中で、魔法を満足に操れないようだ。《空中歩行》は不安定なまま、断続的な減速を繰り返して地に近づいていく。
そして……最後までこの状況への抵抗を続けてきた者、取り残された者もいることだろう。
しかし、そんな彼らの献身を、現実が粉々に粉砕した。落下の衝撃が天と地を震わせ、耳をつんざく大轟音が悲鳴さえも呑み込む。
音の波が過ぎ去った後、場に立ち尽くす多くは、もはや口も利けない有り様であった。
そんな中でも気力を保つリズだが……エリシアの目元にあてがった手に、熱く湿ったものを感じ取った。手の感触が胸を締め付けてくる。
たとえ目にすることはなくとも、何が起きたのかは音と衝撃から明らかだ。 そして……エリシアは、その感受性ゆえに多くを感じ取ってしまったのだろう。
気丈にも声を上げず、ただ身を小さく振るわせる彼女を抱き寄せ、リズは上空を睨みつけた。
これが事故だとは思えない。民草にまでヴィシオスの存在を感じさせないほどの国が、実際には確立された技術も操り切れない間抜けなどと、そのようなことがありえるだろうか?
さらには、墜落事件の解決に多大な貢献をなしたリズだからこそ、確信めいた直感があった。これが「仕組まれた事件」だと、心の声がささやく。
地面では、落ちた残骸に関係者が近寄っているところだ。
だが、真に注意を向けるべきは――今もなお、中天に輝く魔導石だ。
人の制御を離れてなお、そこに浮き続ける魔導石に、リズは不吉な予兆を感じ取った。
彼女が”次”を警戒する一方で、観客たちの一部は、この惨劇の場から離れようと動き始めた。
統制を欠いたこの動きに対し、この場を取り仕切る係員たちが、自身も大いに当惑を示しつつ必死に誘導を開始した。
客席は輪状で入り口は一つ。慌てふためく招待客らが殺到し、係員たちがこれを取りさばいていく。
すると、リズたちのもとへヴァレリーが馬を走らせてやってきた。
馬を止めるなり、サッと身を翻して下馬した彼は、エリシアのすぐ横で片膝をついて頭をうつむかせる。
「済まない! まさか、このようなことになってしまうとは……」
悔しさ、悲しみ、落胆……様々な感情で顔を歪ませる彼の有り様もまた、リズの胸を打つ。
彼の登場に、エリシアはリズから健気にもスッと離れ、声を震わせながら応じた。
「このような事になり、ご心中……お察しします」
しかしリズには、この事態がまだまだ始まりのように思えてならない。
一国の大事が――いや、国の枠組みさえ超えて立ち向かうべき何かが起きるかもしれない。
その直感を胸に、リズは打ちひしがれる二人への遠慮会釈もなしに直言した。
「殿下、私にはまだ何か、続きがあるように思われてなりません」
「続き? これ以上に何かがあると?」
「でなければ、人の手を離れた魔導石が、なぜ宙に浮き続けているのですか? あれはもはや、別の者の手中に渡ったのでは」
懸念を口にするリズの前で、ヴァレリーはハッとした顔になり、宙を見上げた。
もはや飛行船としての仕事をなさないはずの魔導石は、今もなお相当の高度を維持したまま、宙で輝きを放っている。
いや、その輝きは、時間とともに増しているようにも映る。彼に釣られるように、周囲の一行が天を見上げると……
魔導石を中心に、天の一部が大きく歪み始めた。
見えない手が空間を掴み、無造作に捻り上げる。こじ開け、引き裂かれた空間から、紫の茨が巻き付く漆黒の闇が染み出し、宙を染め上げていく。
一瞬の寒気の後、リズの心身を熱が満たした。
あれは《門》の一種、それもかなり力任せで――強大な何者かの手によるものだと、彼女は直感した。
「殿下、エリシア様! 護衛とともに、早くこの場を離脱なさいますよう!」
声掛けするリズとは別に、ヴァレリーもまた何かを感じ取っていたようだ。周囲の護衛も同様。空に浮かぶ黒い渦から、次なる何かが現れるのでは……その次に対して、一行は身構えている。
「何か現れるというのか……エリザベータ、君は?」
「私はこの場に残ります」
「バ、バカな事を言うな!」
声を荒らげてリズをたしなめるヴァレリーは、今一度、宙に浮かぶ魔力の塊に目を向けた。
もはや誰が見ても、そこは宙に穿たれた穴のようであった。禍々しい魔力渦巻くそこから、何か悪しき存在が出て来るのでは――言い知れない凶兆に満ちている。
「君だけを置いて逃げるわけにはいかない! 私にも、責任というものが」
「他の客の皆さまのご安全こそ、殿下が負うべき重責ではございませんか」
あくまで冷静なリズの指摘に、ヴァレリーは押し黙った。
この場に招かれたのは、相応に立場のある者たち。損なわれれば、国として大打撃だろう。
だからこそ、この場で何かが仕組まれたのかもしれない。
そして……あの《門》から何かしらの敵が現れるというのなら、逃げ惑う人々の盾となる殿が必要だった。
揺るぎない決心と使命感を胸に、リズは言い放つ。
「あなた方の背は、私が守ります」




