第285話 転換点
9月25日、朝食を終えて一息ついたエリシアとリズは、貴賓館を後にした。目指すは飛行試験場である。
あまり大勢連れだったのではさすがに目立つということで、今日も護衛は最小限に留めている。
実際、護衛の目が必要そうな状況ではなさそうだ。王都を出て試験場へと向かう街道には、招待客とその従者らしき面々の姿が散見される。
あくまで、民草にまでは情報が下りていない今回の試験だが、国を挙げての試みではあるのだろう。
そんな場であるからこそ、警備の目を厳重にすべきということで、エリシア付きの護衛からも何人か、現地に出向させている。
事前に現地入りして安全確認を……という目的もあるが、それよりは国際親善上の協力といったところが大きい。
そうした諸々があって、単に晴れやかな試験の場というわけではないのだが――
緊張した様子のエリシアの中に、リズは若干の心弾む感じを見て取った。「ドキドキしていますか?」と問いかけると、彼女は「そうですね」とうなずいた。
「この先どうなるかはわかりませんが……この国にとっては大きな一歩となることでしょう。殿下と、率いておられる皆様のお力があれば、きっと良い方に向かうものと思いますが……」
そう言って、彼女の視線は空の向こうに。
試験時間にはまだ早く、そこには何も浮かび上がっていないのだが、心地よい秋晴れの空ではあった。
やがて二人は、今回の飛行試験場に着いた。
王都からは若干の距離がある。歩いて大きな負担になるほどではないが、飛行船を用いるような客を歩かせるには……といった程度の距離感だ。
しかし、安全を考慮すれば王都からある程度距離を空けねばならない。山がちな国土ということもあり、ちょうど良い用地設定には相当難儀したのだろう。
そうした事情もまた、この国が飛行船導入から遠ざかっていた理由の一つなのかもしれない。
財界人等も招いての催しのようなものになっているが、セレモニーのような華やかな場ではない。広い試験場は金網でニ重に囲まれており、一言で言えば武骨で殺風景だ。実用本位ともいうべきだろうか。
金網が囲むニ重の円の中心に、今回の主役である飛行船がある。周囲で動く、作業員らしき者の姿も。
招待客であっても、この内側まで入り込むことは許可されない。入れるのはニ重円の内、円と円に挟まれた輪の部分までである。
それでも、遠くから眺めるよりは間近に感じられる特等席ではある。
飾りも何もない、ただの草地でしかない観客席だが。
「立見席と言うのも、中々趣はありますな」
「我々の方が見世物のようにも思えますが」
周囲で交わされる言葉がリズの耳に届く。
皮肉のように聞こえなくもない言葉だが、実際には状況を楽しむ軽ロのように響いた。この状況に対する非難や抗議の感じはなく、それぞれ立場あるだろう見物客が、いくらか若返ったように興奮気味に感じられる。
そんな中、旧知と言える仲の者も特になく、エリシアとリズの二人はポツンと立ち尽くしていた。
受付で身分照会を済ませており、周囲から変な目で見られてはいないのだが……ヴァレリーから誘った割りに、リズは自分たちの扱いがややぞんざいのように感じた。
とはいえ、彼も重責ある立場。こちらがお忍びということを踏まえれば、たかだか一人の客に過ぎないエリシアにべったりというわけにもいかないだろう。
そういった理解は当然あるものの、それでもやはり、放っておかれている現状に思うところないわけではないリズだが……
なんともスッキリしないものを味わっている彼女の横で、当のエリシアは気にしていない様子であった。
ヴァレリーがすぐそばにいなくとも、この場を共有することができれば、一緒に見届ける内に入るのだろうか。
「? どうなされましたか?」
「いえ、何でもありませんよ」
あえてそういったことを口にするのも野暮かと思い、リズは笑顔ではぐらかした。
試験まではまだまだかかるようだ。というより、招待客が集まり切っていないらしい。客席という名の草地を、係員らしき者が馬を駆り、幾度となく繰り返したであろう謝罪の弁を口にしていく。
「もう少し待つようですね」
リズはエリシアに声をかけ、地面にさっとハンカチを広げた。
「紳士的ですね、本当に」
「エスコート役が私しかおりませんもの」
含むところある発言にエリシアも気づいたようで、彼女は少し苦笑いした。
それからまた少しすると、リズがそれとなく話題にあげたその人が現れた。馬に乗るヴァレリーは、呼びかけた客ひとりひとりに声をかけていっているようだ。
今回の試験をお披露目の場と捉えるならば、彼はこの場のホスト役のようなものか。
エリシアを前に、彼は朗らかな声で「お嬢さん、馬上から失礼!」と声をかけてきた。お忍びということも考慮し、周囲に聞かれても困らないようにと配慮した言葉づかいではあるのだろう。
それに、国同士の事情を考慮しない今の口調の方が、彼の素のようにも感じられる。
こうした彼の態度に悪い気はしないリズだが、エリシアも同じように感じているようだ。
「殿下。本日はこのような場にお招きいただき、皆様方と晴れやかな一時を迎えられること、大変喜ばしく存じます」
「実のところ、飛行船が設計通りに浮く程度の事でしかないのだけどね。そうした中に価値を見出してくれるなら、私にも大変喜ばしいことだよ」
傍から聞けば、特に差し障りのない会話だ。やや遠くにいる他の客も、別段の注意を払う様子はなく、ただ自国の王子に敬意を向けるばかり。
しかし、双方の表情に柔らかなもの、交わし合う視線に何か通じ合うものを、リズは感じ取った。
(ちょっと外せば良かったかも……)
自分の事を、いささか余分なオプションに感じてきたリズだったが……ヴァレリーは好青年ではあった。
「大した見世物ではないかもしれないけど、君にも楽しんでほしいな」と声をかけてくる彼に、リズはあくまで護衛然とした恭しい態度で、深く頭を下げた。
それからまた少し経つと、どうやら客が揃い、ヴァレリーの挨拶回りも終わったようだ。内側の円から係員がそこかしこに走り出し、間もなく試験開始の旨を伝えてくる。
いよいよという段になったが、リズは落ち着き払っている自分を感じていた。こうした公開試験の前にも、試運転は問題なくこなせているらしいと、事前情報を耳にしている。
それに彼女は、飛行船に――本当に、イヤというほど乗ってきている。
そのため、飛行船が浮き上がるという現象そのものには、さほど惹きつけられるものがない。
むしろ、気になるのはそれからのことだ。
周囲よりはやや冷めた目で見つめる彼女の前で、ついに飛行船が動き出した。機体全体が透き通った球状の幕で覆われ、機体を中心とする同心円状に、草地を風の波が走る。
試験地の草を残しておいたのは、こうしたヴィジュアル面での演出意図もあったのかもしれない。「おお」と興奮気味の声が、あちらこちらから聞こえてくる。
そして、飛行船は浮き上がった。大勢の視線を浴びながら、ゆっくり上へ上へと。何の変哲もない離陸である。
――いや、そのはずだった。
場を包み込む歓声の中、リズは気がかりなノイズを聞き取った。
他の全てが上空に視線を向ける中、なんとも言えない胸騒ぎを胸に、彼女は地に視線を下した。
開発・建造に関わったであろう者たちが、試験場中心へと向かっている。何やら大声を発しながら。
そして……決して飛行船の直下には入ろうとせず、つかず離れずの間合いを保つ彼らの様子が、リズの不安を強くする。
(まさか……)
そのまさかであった。彼女が再び視線を上げてすぐ、周囲の歓声は戸惑いによってかき消され、悲鳴と恐慌が完全に塗りつぶした。
甲板の一部が割れ、そこから鮮やかな光を放つ大きな物体が頭をのぞかせている。
飛行船の核たる巨大魔導石が、船内から今にも飛び出そうとしているのだ。




